捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上

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第4話:毒とサンドウィッチ

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 辺境伯邸の北棟にある一室が、リディアの新しい城――アトリエとなった。
 大きな窓からは安定した北向きの光が差し込み、絵画の修復作業には理想的な環境だ。

 リディアは作業台に向かい、息を止めていた。
 目の前にあるのは、先日教会から引き上げてきた、泣く聖女の絵画だ。
 湿気でカビが根を張り、表面のワニスは白く濁っている。
 彼女は特殊な溶剤を含ませた綿棒を、顕微鏡を覗きながら慎重に動かしていた。

(……表面の汚れだけを溶かして、オリジナルの絵具層は傷つけないように……)

 数ミリ進むのに数分。
 気の遠くなるような作業だが、リディアにとってはこの上ない至福の時間だった。

 綿棒が動いた後から、くすんだ灰色の中から鮮やかな青が蘇る。
 時を超えて画家の意図が現代に現れる瞬間。  
 その感動を知っているから、修復師はやめられない。

 静寂なアトリエに、間の抜けた音が響いた。

 リディアの腹の虫だ。
 時計を見ると、とっくに昼食の時間を過ぎている。

(……もう少し。このマントのひだの汚れを取りきるまでは)

 王宮時代は、食事を抜くことなど日常茶飯事だった。
 空腹よりも、納期と無理難題のプレッシャーの方が勝っていたからだ。
 リディアは空腹感を無視し、再び顕微鏡に目を落とした。

 その時、背後の扉が乱暴に開かれた。

「――おい」

 ビクリと肩を震わせて振り返ると、仁王立ちしたジェラルドがいた。
 片手には銀色のトレイを持っている。
 その顔は、敵軍の奇襲を許した司令官のように険しい。

「昼食の時間から九十分が経過している。君の体内時計は故障したのか?」

「も、申し訳ありません! 作業に夢中になってしまって……」

 リディアが慌てて立ち上がろうとすると、ふらりと視界が揺れた。
 低血糖だ。

 ジェラルドはため息をつき、作業台の端にあるスペース――筆やパレットが置かれていない安全地帯――にトレイを置いた。

「座っていろ。こうなると思って持ってきてやった」

 トレイの上には、分厚いサンドウィッチと、温かいスープが乗っていた。
 香ばしく焼かれたパンの間から、ローストビーフと新鮮なレタスが溢れんばかりに覗いている。
 リディアの胃袋が、今度はさらに大きく鳴った。

「あ、ありがとうございます……!」

 恥ずかしさに顔を赤くしながら、リディアはサンドウィッチへ手を伸ばした。
 早く食べて、作業に戻らなければ。

 そう思ってパンを掴もうとした瞬間――。

 ジェラルドの大きな手が、リディアの手首を掴んで止めた。

 万力のような力強さに、リディアは目を見開く。

「ジェラルド様……?」

「その手を見ろ」

 低い声で促され、リディアは自分の手を見た。

 指先は薄汚れている。
 古いワニスの黄ばみ、カビの胞子、そして修復に使っていた補彩用の絵具。

「……君が今、筆先に含ませていたその赤色の顔料。成分は何だ?」

「えっと、これは辰砂由来のバーミリオンですので、硫化水銀です。こちらの白は鉛白ですので、炭酸鉛が……」

 答えている途中で、リディアはハッとした。

 水銀に、鉛。
 どちらも人体にとっては猛毒だ。

「理解したようだな」

 ジェラルドはリディアの手首を離さないまま、冷ややかに言った。

「その手でパンを掴んで口に入れるということは、微量の重金属を摂取するということだ。神経障害や貧血を引き起こしたいのか? それともサンドウィッチと心中するつもりか?」

「す、すみません! すぐに洗ってきます!」

 リディアが席を立とうとすると、ジェラルドは「待て」と制した。

「洗い場は一階だ。往復するだけでカロリーを消費するし、今のふらついた足取りでは階段から落ちるリスクがある。……非効率だ」

「で、ですが、食べないと……」

「だから、私が食べさせよう」

 ジェラルドは椅子を引き寄せ、リディアの正面にドカリと座った。
 そして、サンドウィッチを一つ手に取ると、リディアの口元へ突き出した。

「口を開けろ」

「……はい?」

「私の手は清潔だ。君の手は汚染されている。ならば、私が君の口へ直接運ぶのが、最も衛生的かつ論理的な帰結だろう」

 リディアは固まった。

 論理的、だろうか?
 いわゆる「あーん」を、この強面の辺境伯にされるという状況に、思考が追いつかない。

「な、何を……、そんな、子供扱いのような……!」

「子供の方がまだマシだ。子供は本能で腹が減ったと泣くが、君は空腹を無視して倒れかける。……ほら、早くしろ。腕が疲れる」

 ジェラルドの顔は真顔だった。
 微塵も照れていないし、甘い雰囲気を出そうともしていない。
 あくまで安全管理の一環という顔をしている。
 拒否し続ければ、無理やり口にねじ込まれそうな圧があった。

 リディアは観念して、小さく口を開けた。
 パクり。
 柔らかなパンと、ジューシーなローストビーフが口の中に広がる。

「ん……!」

 美味しい。
 肉は低温調理されたかのように柔らかく、マスタードの酸味が絶妙なアクセントになっている。
 噛むたびに鉄分とタンパク質が身体に染み渡っていくようだ。

「……牛肉のヘム鉄は吸収率が良い。さらにパンにはビタミンB群を含む全粒粉を使った。脳の疲労回復には最適だ」

 解説しながら、ジェラルドは次の一切れを差し出してくる。
 リディアは、もぐもぐと咀嚼しながら、目の前の男を見つめた。

 怖い顔だ。
 眉間の皺は深いし、目つきも鋭い。

 けれど、サンドウィッチを持つ指先は驚くほど繊細で、リディアが食べやすいペースに合わせてくれている。
 口の端についたパン屑を、親指でそっと拭ってくれる仕草などは、不覚にもときめいてしまいそうになるほど自然だった。

(……王宮では、誰もこんな風に気遣ってくれなかった)

 食事をしたかなど聞かれたこともない。
 手が汚れていようが、顔色が悪かろうが、「早く終わらせろ」と命令されるだけだった。

 なのに、この人は。

「……どうした? 味が濃かったか?」

 リディアの目が潤んでいるのを見て、ジェラルドが心配そうに眉を下げた。

「いえ……、とても、美味しいです」

「ならいい。全部食え。最後の一個まで胃袋に収めてもらう」

 結局、山盛りのサンドウィッチを全て食べさせてもらう羽目になった。
 満腹になり、温かいお茶を飲んで一息つくと、ジェラルドは満足げに頷いて立ち上がった。

「よし。これで午後も働けるだろう。だが無理はするな。一七時には強制終了に来る」

「は、はい。……ありがとうございました、ジェラルド様」

 トレイを持って出て行く背中を見送りながら、リディアは自分の汚れた手を見つめた。

 毒を扱う手。
 けれど、その毒から守ってくれる人が、今はいる。

 リディアは眼鏡の位置を直し、再び顕微鏡を覗き込んだ。
 先ほどよりも、青色が鮮やかに見えた気がした。
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