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騎士は愛を束ね、運命のオメガへと跪く
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自室に戻り、エミールはようやく肩の力を抜くことができた。体の中心に、ぽかりと穴が空いたような心地だ。
だが放心している暇はない。いまから荷造りをしなければ。
着替えを数着、当面の抑制剤、『狼』の里から持ってきた魂寄りの木の赤い実をひとつ。路銀はファルケンがなんとかしてくれる手筈になっている。あと必要なものは……と考え、エミールはクラウスの私室に入り、彼のシャツを一枚拝借した。匂いはやがて消えてしまうだろう。でも、ないよりはずっといい。
他になにかあるだろうか。クラウスの匂いがくっきり付いているものは。
エミールはハッと思いついて、寝室へと向かった。昨日クラウスと抱き合った寝台のリネン類は、まだ交換されていない。ベッドの横に座り込み、エミールは敷布に頬を預けた。
シーツの一枚ぐらいだったら、カバンに詰められるだろうか。それとも荷物になってしまうか。エミールが真剣に検討していると、不意に背後から声が掛かった。
「さすがにシーツは邪魔じゃないですか?」
エミールは思わず悲鳴を上げかけた。反射的に口を押さえ、そろりと振り返ると、そこにはスヴェンが立っていた。
彼は呆れたような半眼でエミールを見下ろし、小さく肩を竦めた。
「いるんですか、それ?」
「え?」
「シーツです。持って行きますか?」
「……な、なに、言って……」
突然のことにしどろもどろになりながら、エミールはなんとか誤魔化そうとしたが、スヴェンはエミールの前に片膝をつき、
「知ってますよ」
と囁いた。
「『鷹』とここを出て行くつもりなんですよね」
「なんで……」
「昨日の、あなたと『鷹』の会話を盗み聞きしていました。こう見えて、耳はいいもので」
飄々とした調子で告げられ、エミールは絶句した。
計画がスヴェンに知られていた。ということは、クラウスにも……。
「クラウス様にはなにも言ってません」
蒼白になったエミールを労わるように、スヴェンがしずかな動作で肩を撫でた。
「…………」
「本当です。なにも言ってません」
「なんで……」
「私は、あなたの侍従ですので」
感情をあまり伺わせないいつもの話し方で、スヴェンがそう言った。
エミールが呆然と彼を見つめると、スヴェンが小さく微笑んだ。
「あなたがクラウス様に、私の『影』の任を解くよう進言しましたね」
確かにエミールはそれをクラウスに願い出た。もう二度と、誰にも、エミールの身代わりなんてしないでほしかったから。
「ですからここに居る私はもう、クラウス様の『狼』じゃないんです。ただの、あなたの侍従です」
「…………スヴェン」
「はい」
「いいの?」
「はい。『鷹』だけじゃ不安でしょう。私もお供します」
まばたきをした拍子にぼろりと涙がこぼれた。こんなふうに言ってもらえるとは想像もしていなかった。
でも本当にいいのだろうか。エミールとともに行くということは、クラウスを裏切るということなのに。
このまま侍従の言葉に甘えてしまっていいのか。煩悶するエミールを尻目に、スヴェンが腰を上げた。
「泣いてる暇はありませんよ。さっさと支度しないと。それで、シーツは持って行くんですか? 行きませんか?」
「あ、い、要る! 持って行きたい!」
「わかりました」
エミールの返事を聞くなりスヴェンはきびきびとシーツをはがし、あっという間に小さく折りたたんでいった。
それから、エミールが準備した荷物を一度取り出し、手際よく圧縮して詰め直してくれた。
「うわ。すごい……」
「あなたは意外と不器用ですからね」
「それ、ルーにも言われるよ」
他愛のない会話は、束の間エミールのこころを慰めてくれた。
エミールとスヴェンが支度を終えるのを見計らったかのようなタイミングで、バルコニーの窓が叩かれた。
姿を現わしたのはファルケンだ。彼の背にも大きな荷物が背負われていた。
エミールが窓を開けると、
「行けるか?」
とささやきの音で尋ねられる。こくりと頷いて、あっ、と思った。スヴェンのことを説明しないといけない。
しかしファルケンは隻眼をスヴェンに向け、当然のように軽く頷いただけだった。
もしかして知っていたのだろうか。スヴェンが同行することになったことを。
エミールは二人を見比べたが、どちらも無駄口を叩くことなく、馬を繋いだ場所やこれから向かう町の打ち合わせを始めた。
エミールの荷物はスヴェンが背に担いだ。エミールは手ぶらだ。いや、魂寄りの木の実だけはポケットに入っているが、手ぶらも同然だ。
オレもなにか持つよと言ってみたが、あなたが一番体力がないのだから温存していてくださいと一蹴されてしまった。
「エル」
ファルケンがエミールに向かって右手を差し出してくる。エミールは部屋とバルコニーの敷居を跨いで外へ出た。春の風が吹いていた。乱れた髪を、エミールは掻き上げた。
ファルケンの手を取る。もうここへ戻ってくることはない。クラウスと過ごした、お屋敷。自分の部屋。エミールが蒼色が好きだと言ったから、蒼で統一されたカーテン。
さようなら、とこころの中で叫んだ。
エミールを担いで、バルコニーから木を伝って下へ降りるのだとファルケンが言った。そんな芸当ができるのかと訝ったが、実際誰にも見咎められずにバルコニーに侵入してきたファルケンである。
ごめんね、とエミールは彼に身を任せることにした。
ファルケンがスヴェンに目配せをし、周囲を確認してからエミールを抱き上げようとした……そのときだった。
ファルケンとスヴェンが弾かれたように同時に体の向きを変えた。
彼らの手は、武器を隠している場所なのか、それぞれ腰や胸元に伸びていた。
「それを抜けば容赦なく斬る」
バルコニーの、誰も居ない一画から響いた声を耳にして、エミールは唖然と立ち尽くした。
なぜ……。
見開いた目の視界で、ゆらり、と人影が揺れた。
立っていたのは、出かけたはずのクラウス・ツヴァイテ・ミュラーであった。
だが放心している暇はない。いまから荷造りをしなければ。
着替えを数着、当面の抑制剤、『狼』の里から持ってきた魂寄りの木の赤い実をひとつ。路銀はファルケンがなんとかしてくれる手筈になっている。あと必要なものは……と考え、エミールはクラウスの私室に入り、彼のシャツを一枚拝借した。匂いはやがて消えてしまうだろう。でも、ないよりはずっといい。
他になにかあるだろうか。クラウスの匂いがくっきり付いているものは。
エミールはハッと思いついて、寝室へと向かった。昨日クラウスと抱き合った寝台のリネン類は、まだ交換されていない。ベッドの横に座り込み、エミールは敷布に頬を預けた。
シーツの一枚ぐらいだったら、カバンに詰められるだろうか。それとも荷物になってしまうか。エミールが真剣に検討していると、不意に背後から声が掛かった。
「さすがにシーツは邪魔じゃないですか?」
エミールは思わず悲鳴を上げかけた。反射的に口を押さえ、そろりと振り返ると、そこにはスヴェンが立っていた。
彼は呆れたような半眼でエミールを見下ろし、小さく肩を竦めた。
「いるんですか、それ?」
「え?」
「シーツです。持って行きますか?」
「……な、なに、言って……」
突然のことにしどろもどろになりながら、エミールはなんとか誤魔化そうとしたが、スヴェンはエミールの前に片膝をつき、
「知ってますよ」
と囁いた。
「『鷹』とここを出て行くつもりなんですよね」
「なんで……」
「昨日の、あなたと『鷹』の会話を盗み聞きしていました。こう見えて、耳はいいもので」
飄々とした調子で告げられ、エミールは絶句した。
計画がスヴェンに知られていた。ということは、クラウスにも……。
「クラウス様にはなにも言ってません」
蒼白になったエミールを労わるように、スヴェンがしずかな動作で肩を撫でた。
「…………」
「本当です。なにも言ってません」
「なんで……」
「私は、あなたの侍従ですので」
感情をあまり伺わせないいつもの話し方で、スヴェンがそう言った。
エミールが呆然と彼を見つめると、スヴェンが小さく微笑んだ。
「あなたがクラウス様に、私の『影』の任を解くよう進言しましたね」
確かにエミールはそれをクラウスに願い出た。もう二度と、誰にも、エミールの身代わりなんてしないでほしかったから。
「ですからここに居る私はもう、クラウス様の『狼』じゃないんです。ただの、あなたの侍従です」
「…………スヴェン」
「はい」
「いいの?」
「はい。『鷹』だけじゃ不安でしょう。私もお供します」
まばたきをした拍子にぼろりと涙がこぼれた。こんなふうに言ってもらえるとは想像もしていなかった。
でも本当にいいのだろうか。エミールとともに行くということは、クラウスを裏切るということなのに。
このまま侍従の言葉に甘えてしまっていいのか。煩悶するエミールを尻目に、スヴェンが腰を上げた。
「泣いてる暇はありませんよ。さっさと支度しないと。それで、シーツは持って行くんですか? 行きませんか?」
「あ、い、要る! 持って行きたい!」
「わかりました」
エミールの返事を聞くなりスヴェンはきびきびとシーツをはがし、あっという間に小さく折りたたんでいった。
それから、エミールが準備した荷物を一度取り出し、手際よく圧縮して詰め直してくれた。
「うわ。すごい……」
「あなたは意外と不器用ですからね」
「それ、ルーにも言われるよ」
他愛のない会話は、束の間エミールのこころを慰めてくれた。
エミールとスヴェンが支度を終えるのを見計らったかのようなタイミングで、バルコニーの窓が叩かれた。
姿を現わしたのはファルケンだ。彼の背にも大きな荷物が背負われていた。
エミールが窓を開けると、
「行けるか?」
とささやきの音で尋ねられる。こくりと頷いて、あっ、と思った。スヴェンのことを説明しないといけない。
しかしファルケンは隻眼をスヴェンに向け、当然のように軽く頷いただけだった。
もしかして知っていたのだろうか。スヴェンが同行することになったことを。
エミールは二人を見比べたが、どちらも無駄口を叩くことなく、馬を繋いだ場所やこれから向かう町の打ち合わせを始めた。
エミールの荷物はスヴェンが背に担いだ。エミールは手ぶらだ。いや、魂寄りの木の実だけはポケットに入っているが、手ぶらも同然だ。
オレもなにか持つよと言ってみたが、あなたが一番体力がないのだから温存していてくださいと一蹴されてしまった。
「エル」
ファルケンがエミールに向かって右手を差し出してくる。エミールは部屋とバルコニーの敷居を跨いで外へ出た。春の風が吹いていた。乱れた髪を、エミールは掻き上げた。
ファルケンの手を取る。もうここへ戻ってくることはない。クラウスと過ごした、お屋敷。自分の部屋。エミールが蒼色が好きだと言ったから、蒼で統一されたカーテン。
さようなら、とこころの中で叫んだ。
エミールを担いで、バルコニーから木を伝って下へ降りるのだとファルケンが言った。そんな芸当ができるのかと訝ったが、実際誰にも見咎められずにバルコニーに侵入してきたファルケンである。
ごめんね、とエミールは彼に身を任せることにした。
ファルケンがスヴェンに目配せをし、周囲を確認してからエミールを抱き上げようとした……そのときだった。
ファルケンとスヴェンが弾かれたように同時に体の向きを変えた。
彼らの手は、武器を隠している場所なのか、それぞれ腰や胸元に伸びていた。
「それを抜けば容赦なく斬る」
バルコニーの、誰も居ない一画から響いた声を耳にして、エミールは唖然と立ち尽くした。
なぜ……。
見開いた目の視界で、ゆらり、と人影が揺れた。
立っていたのは、出かけたはずのクラウス・ツヴァイテ・ミュラーであった。
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