『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第32章「影に触れられた手(消える温度)」

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部屋の灯りが落ちた瞬間、
白百合の香りが重く満ちた。

視界は真っ暗なのに、
白い花びらだけが光るように舞っている。

(……寒い……)

シャルロットの心臓が強く跳ねた。

その時。

――ひやり。

指先に、
氷のような温度が触れた。

「……っ」

声が出ない。
呼吸も止まった。

影の手が、
シャルロットの手を“取っている”。

まるで
幼い子が母の手を握るように、
しなやかに、軽く。

しかしその温度は——
明らかに“生きていない”。

(冷たい……
 人の温度じゃない……
 まるで……何かが消えていくような……)

影の声が
耳元にふわりと触れた。

――「ねえ……わたしと……同じ温度になって」

シャルロットは震えた。

「離して……ください……」

影は答えない。

ただ、
手をそっと包むように重ねてきた。

その瞬間。

じわ……

シャルロットの指先から
“温度”が抜けていく。

暖かさが奪われ、
軽く痺れ、
感覚が消える。

まるで
自分が影に吸い取られているようだった。

(……だめ……
 このままでは……)

影の声が優しく囁く。

――「あなたの手……きれい……
   あたたかい……
   だから……もらうわ」

シャルロットの目に涙が滲む。

「……やめ……て……」

影の手はさらに強く、
愛するように握ってくる。

体温がどんどん消える。
指の色が薄くなり、
透明に近づいていく。

(……わたくし……
 消えてしまう……?)

――「大丈夫よ。
   一瞬だけ。
   “席”を返してくれれば」

(わたくしの……席……?
 妻の……?
 そんな……)

シャルロットの膝が揺れ、
身体が前に倒れそうになったその時。

――ガッ!!

カルロスが闇の中から
シャルロットを抱くように
腕を回し、影の手を弾き飛ばした。

「――シャルロットから離れろ!!」

鋭い声が、空気を裂いた。

シャルロットは驚いた。
カルロスが触れた——
抱き寄せた。

(……公爵さま……?
 触れて……)

影が少し離れると、
光のない瞳が揺れた形だけが見えた。

――「触れたのね、公爵様。
   あなた、
   “触れられない理由”を忘れたの?」

カルロスの腕が強く震える。

だが離さなかった。

「……たとえ……呪いだとしても……
 触れなければ……守れないものがある」

シャルロットの胸が震えた。

影は静かに笑った。

――「そう……
   あなたは触れられないのに、
   触れてしまった」

――「どうなるか……分かってるでしょう?」

カルロスの腕の中で、
シャルロットの胸が締めつけられる。

(……公爵さま……
 わたくしを守るために……呪いを……?)

影はさらに近づこうとした。

白百合の香りが強くなる。
影の輪郭が揺れ、
シャルロットに伸ばした手が再び現れる。

――「シャルロット。
   あなたの温度は……
   とても心地いい。
   もう一度……触れたい……」

シャルロットは震える声で言った。

「……ミレイユ……
 あなたは……何を……望んで……?」

影は答えた。

――「“わたしの名前”を返してほしいの」

その言葉の意味を理解する前に、
影が再び手を伸ばした。

しかしカルロスが前に出て、
シャルロットの前を塞いだ。

「俺がいる限り、シャルロットには触れさせない」

影は静かに笑った。

――「じゃあ、あなたから壊すわ」

――「“触れられない理由”を、
   ここで思い出させてあげる」

その瞬間、
白い花弁が激しく舞い上がった。

影が攻撃するわけではない。
ただ“触れるだけ”。
それなのに、
空気そのものが崩れるような恐怖。

シャルロットは叫んだ。

「公爵さま!!
 離れては……だめ……!!」

カルロスは剣を構えた。

(公爵さまは……
 触れられないのに……
 触れてしまった……
 呪いが……発動してしまう……)

影が近づく。

――「さあ……
   あなたたちの“罪”を……見せて?」

シャルロットの手の温度は
まだ戻らない。
冷たさが残り、
白く、薄い。

影に“奪われた手”。

その一瞬で、
シャルロットは理解した。

(わたくしは……
 本当に“影に成りかけた”……)

泣きそうになった時、
カルロスはシャルロットの手を強く握った。

温度のない手を、
自分の体温で包むように。

そして、
誰よりも強い声で言った。

「シャルロット。
 お前は影にはならない。
 絶対に……俺が守る」

影が一瞬、
その言葉に揺れた。

――「……どうして……?」

――「どうしてわたしじゃなくて……
   “あの子”なの……?」

影の悲鳴とともに、
部屋中の白百合が散り乱れた。

シャルロットの手の温度は、
まだ戻らなかった。
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