つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第4章|舞踏会、差し出された手

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舞踏会の夜は、祝宴とは違う種類の熱を持っていた。
笑い声は軽く、香は甘く、視線は鋭い。

大広間の床は鏡のように磨かれ、踊る人々の影を映す。
天井のシャンデリアは星座のように輝き、金の光がドレスの裾に降り注いだ。

けれどリーシャは、その光の中で――最初から“影”の位置にいた。

王妃の席は、前から温まっている。
その温度を作っているのは、国王の隣に立つセレスだ。

(今日から、隣に立たない)

自分で決めたはずなのに、胸の奥の痛みは消えない。
痛みは、決意より遅れて追いついてくる。

リーシャは指先を揃え、扇を閉じ、完璧な角度で微笑む。
誰にも分からないように。
けれど“分かられない”ことが、今夜は少しだけ怖かった。

――舞踏会は、王宮の裁判だ。
言葉ではなく、仕草と距離と視線で、誰が選ばれ、誰が捨てられるかが決まる。

楽団が第一曲の前奏を奏で始めた。
弦が空気を撫で、柔らかな波が広間を満たす。
その瞬間、視線が一斉に国王へ集まる。

国王レオニスが、階段を降りてきた。

黒い礼装は夜より深く、金の刺繍が刃のように光る。
歩みは迷いがなく、背筋は王のまま、表情は冷たい。
――それでも、今夜の彼はほんの僅かだけ、違って見えた。

(……こちらを、探している?)

リーシャはその考えを即座に否定する。
期待は毒。
期待は自分を弱くする。

国王が、リーシャの前で止まった。
周囲のざわめきが、ひとつに収束する。

「王妃陛下」

名を呼ばれた瞬間、心臓が一度だけ強く打つ。
声は低く、短い。
その短さが、余計に刺さる。

国王は、手を差し出した。

まっすぐに。
堂々と。
誰もが「当然」と思う動き。

王妃が手を取り、第一曲を踊る――
それが王宮の秩序。
それが“夫婦”という建前。

けれどリーシャの胸の奥には、まだ凍った言葉がある。

――つまらない妃だ。

(この手を取ったら、私はまた期待してしまう)

手のひらの温度に、愛があると錯覚してしまう。
視線の僅かな揺れに、“私を必要としている”と勘違いしてしまう。

そして後で、同じように捨てられた時――
今度こそ立っていられなくなる。

リーシャは微笑んだ。
完璧な、王妃の微笑。

そして――ゆっくりと一歩下がった。

床に触れる靴音は小さかった。
それなのに、広間全体に響いた気がした。

空気が凍る。
楽団の弓がほんの一瞬止まり、すぐに誤魔化すように音を繋ぐ。
貴婦人たちの扇が、揃って口元へ上がる。
令嬢たちの視線が、爪先から王冠までリーシャをなぞる。

“拒んだ”
“王妃が”
“国王を”

噂になる形が、今この場で完成していく。

リーシャは胸の奥で息を吐いた。
自分で選んだ。
自分の足で一歩下がった。

だから――震えてはいけない。

「恐れながら、陛下」

声は澄んでいた。
震えない。泣かない。
その代わり、丁寧すぎるほど丁寧に。

「今宵は……結構です」

一瞬、国王の手が宙で固まった。
指先が、ほんの僅かに動く。
掴みたいのか、引きたいのか――分からない。

国王の瞳が、リーシャを見た。
氷の瞳。
けれど、その奥に小さな影が落ちたように見える。

(……遅いわ)

リーシャは心の中でそう呟く。
もう遅い。
“つまらない妃”と言った声を、私は聞いてしまった。

国王の喉が動いた。
何かを言いかけた――けれど、その瞬間、宰相グレゴールがさりげなく一歩前に出る。

「陛下。――儀礼を」

声は穏やかだ。
誰にも逆らえない“正しさ”の形をしている。

国王の肩が僅かに硬くなる。
その硬さが、リーシャには答えに見えた。

――王は、私を選ばない。
――選べない。

リーシャはさらに一歩下がり、深く礼をした。

「どうぞ、舞踏をお続けください。私のために、止める必要はございません」

その言葉は、優しさの形をしている。
けれど実際は、扉だった。

“私はもう、あなたと踊りません”という扉。

扉が閉まる音はしない。
けれど国王の瞳が、一瞬だけ揺れた。

その揺れは、後悔にも似ていた。
あるいは――焦り。

だが、リーシャは見なかったふりをする。
見てしまえば、期待が生まれるから。

国王の差し出した手が、ゆっくりと下がる。
まるで何かを落としたように。

広間のざわめきが再び膨らむ。
息を殺していた人々が、待っていた言葉をやっと吐き出すように。

「まあ……」
「まさか……」
「王妃が拒むなんて……」

その囁きの中に、ひとつだけ笑いが混じる。
薄く、甘い笑い。

噂屋ヴィオラだ。
扇の陰で目を細め、まるで宝石を拾ったような顔をしている。

(今夜の見出しが決まった)

リーシャは、その笑いに背を向ける。
背を向けるしかない。
この場で彼女に勝てるのは、もっと大きな権力だけだ。

――国王。

けれど国王は、いま動けない。
宰相の“儀礼”に縛られている。

リーシャは、静かに視線を上げた。
セレスの姿が、国王のすぐ傍にある。

セレスは驚いたふりをして、すぐに控えめに目を伏せた。
けれど、その一瞬、唇の端が僅かに上がったのをリーシャは見逃さなかった。

(……あなたは、喜んでいる)

自分の胸の奥に、冷たい火が灯る。
怒りではない。
嫉妬でもない。

――生き残るための火。

リーシャは指先を揃え、背筋を伸ばし、さらに完璧な王妃の微笑を纏った。

その微笑は盾だ。
そして、刃だ。

国王レオニスが、セレスを見た。
セレスは一瞬迷うように瞬き、そして――自然に一歩前へ出た。

その動きはあまりに滑らかで、まるで最初から決まっていたようだった。

国王の手が、再び差し出される。
今度は、セレスへ。

広間が、息を呑む。
そして次の瞬間、波のような歓声が上がった。

「お似合いだわ……」
「やはり……陛下の隣は……」

歓声は祝福の形をしている。
けれどリーシャには、判決に聞こえた。

セレスが国王の手を取る。
指先が触れる。
ふたりが音楽に合わせて歩き出す。

金の光の中心で、王が踊る。
隣には、セレス。

リーシャは、その少し後ろ――王妃の位置に立つ。

一歩。
たった一歩。

けれど、その一歩が、王宮では永遠の距離になる。

リーシャはその距離を測るように、静かに目を伏せた。
手袋の中で、自分の指が冷たくなっていくのを感じながら。

(……これでいい)

自分に言い聞かせる声が、かすれる。
けれど微笑だけは崩れない。

崩れない微笑は、美しい。
そして――誰も助けに来ない、孤独の形でもあった。


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