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第5章|王の手を取る女
音楽が、再び満ちる。
前奏の旋律は甘く、けれど今の大広間には刃のように響いた。
国王レオニスの手が、ゆっくりとセレスへ差し出される。
さっきまで宙に取り残されていた手が、次の行き先を見つけたみたいに。
セレスは一瞬だけ、ためらうふりをした。
控えめに目を伏せ、胸の前で指を重ねる。
“私は出過ぎません”という顔。
その仕草が、余計に人の心を動かすと――彼女は知っている。
「……恐れながら」
微かな声でそう言って、セレスは国王の指先に触れた。
触れた瞬間、大広間が“答え合わせ”を始める。
「やはり……」
「陛下の隣は……」
「お似合いだわ」
言葉の雨。
祝福の形をした判決。
リーシャはその少し後ろ、王妃の位置に立っている。
足元の床が、鏡みたいに自分を映す。
胸元の青い宝石が、灯りを受けて冷たく光る。
(……私は、取らなかった)
自分で選んだ。
そう言い聞かせるほど、胸の奥が痛い。
国王とセレスが、音に合わせて歩き出す。
最初はゆっくり。
次第に滑らかに。
二人の動きは息が合って見える――合っていないのに、合っているように見えるのが一番残酷だ。
国王の手がセレスの背に添えられ、セレスが笑う。
その笑いは柔らかく、慈しむようで、完璧に“絵”だった。
(上手ね)
リーシャは心の中でそう呟く。
上手いのは、踊りではない。
“王の隣にいる自分”を、誰より自然に見せること。
シャンデリアの光が降り注ぐ。
金色の粒が舞い、空気が甘く霞む。
その中心で踊る二人は、まるで最初から夫婦だったかのように見える。
――では私は何だろう。
王妃。
飾り。
つまらない妃。
その言葉が、喉の奥を締める。
リーシャは笑みを保ったまま、視線だけを下げた。
手袋の中の指が冷えていく。
冷えは、身体だけではなく心にも広がる。
(これでいい。私は――)
そこまで考えた瞬間、背後の空気が変わった。
視線がふっと集まり直す。
“次の見世物”を待つ目に変わる。
「王妃陛下」
低く、静かな声。
リーシャが振り向くと、そこにアドリアンが立っていた。
国王の弟。王弟。
王家の血を引く男の顔は、国王より柔らかい。けれど今夜は、優しさの奥に硬い決意があった。
彼は礼をし、手を差し出す。
「――一曲、いただけますか」
言葉は丁寧で、王妃を立てている。
しかしその目は、リーシャだけに告げている。
――立っていてください。ここで折れないで。
リーシャの胸が、ほんの僅かに揺れた。
救いのように。
でも同時に、危険な火種のように。
(踊れば……噂になる)
王弟と王妃。
王の隣にいない妃。
“拒んだ”直後。
噂屋ヴィオラの顔が脳裏に浮かぶ。
彼女は笑うだろう。喜ぶだろう。
今夜の出来事を、明日の“商品”にするだろう。
リーシャは断ろうとした。
唇が、言葉の形を作りかける。
けれど――広間の視線が刺さった。
「王妃、踊らないの?」
「まさか、ずっと立っているつもり?」
「国辱よ……」
囁きが、針になる。
王妃が一曲も踊らないことは、“拒絶”ではなく“恥”として処理される。
恥は、王宮で最も手軽な処刑だ。
リーシャは息を吸った。
頭の中で、王妃としての計算が動く。
(踊らないと、私が潰される)
(踊ると、噂で潰される)
逃げ道はない。
なら、どちらの潰れ方が、まだ自分を守れるか。
リーシャは微笑を深くして、王弟の手に指先を乗せた。
触れた瞬間、ざわめきが広間の端まで波のように走った。
――来た。
噂が、完成する音。
アドリアンはほんの僅かに手に力を込め、リーシャを床の中央へ導いた。
指先は紳士的で、距離はきちんとしている。
それなのに、王宮にとっては“十分に親密”に見える。
楽団が曲を繋ぎ、二人のための旋律が始まる。
リーシャは首を上げ、王妃としての姿勢で踊った。
足運びは完璧。
回転も優雅。
ドレスの裾が花びらみたいに広がり、青い宝石が光を切る。
美しい――と囁かれる。
けれどその美しさは祝福ではなく、“燃料”だった。
「王弟殿下、優しい方ね」
「王妃を救ってるのよ」
「それとも……救いたいのかしら」
言葉が、歪んで膨らむ。
アドリアンが小さな声で言った。
「……怖がらないでください」
リーシャは、笑みを崩さずに答える。
「怖がってなどいません。私は王妃です」
その言葉が、自分の胸を刺した。
怖がっている。
怖い。
でも怖いと言えない。
踊りながら、リーシャはふと視線を上げた。
国王の姿を探してしまった。
そして――見つけてしまう。
国王レオニスは、踊りの輪の外に立っていた。
黒い礼装が夜のように固い。
その視線が、真っ直ぐこちらを見ている。
氷の瞳。
けれど今夜、その氷にひびが入っているように見えた。
怒り?
困惑?
あるいは――嫉妬。
(……嫉妬する資格が、あなたにあるの?)
リーシャは心の中で呟く。
だってあなたは、私をつまらない妃だと言った。
あなたは、私の手を宙に置いて――セレスの手を取った。
それなのに、今のその目は何。
リーシャはその視線から逃げるように、アドリアンの肩越しに顔を逸らした。
見れば、期待が生まれる。
期待はまた、自分を殺す。
踊りが終盤に差し掛かる。
アドリアンが軽く一礼し、リーシャを回転させる。
ドレスがふわりと広がる。光が散る。
その瞬間、ヴィオラの声が聞こえた気がした。
「……王妃様は、王弟殿下を選んだのね」
現実の声ではない。
けれど王宮の空気は、すでにその言葉を受け入れる準備をしていた。
曲が終わる。
拍手が起こる。
拍手の音が、妙に軽い。
アドリアンはリーシャの手を離し、低く言った。
「……今夜だけです。誤解されるのは分かっている。けれど――」
“あなたを一人にしたくなかった”
その続きを、彼は言えない。
言えば、彼自身が罪になるからだ。
リーシャは、王妃の微笑で答える。
「ありがとうございます。王弟殿下」
完璧な礼。
完璧な距離。
完璧な言葉。
それが、彼女の鎧。
アドリアンが去ると、リーシャはほんの一瞬だけ、息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ温かい。
けれどその温かさは、次の瞬間――凍る。
国王がこちらへ一歩踏み出したのが見えた。
その足が動いた瞬間、宰相グレゴールがさりげなく国王の前に立つ。
「陛下。各国使節への御挨拶を」
穏やかな声。
礼儀の皮を被った鎖。
国王の足が止まる。
視線だけがリーシャを射抜く。
(来ないのね)
来られないのか。
来ないのか。
どちらでも同じだ。
リーシャは、微笑を保ったまま、静かに思う。
(これでいい。私は今日から――王の隣に立たない)
けれど同時に、別のことも確信していた。
――今夜のこの一曲で、噂は完成した。
そして噂は、明日から“真実”として扱われる。
リーシャはゆっくりと目を伏せた。
手袋の中で、指先がまた冷えていく。
大広間の中心では、国王の隣でセレスが微笑んでいた。
その微笑は、勝利の微笑ではない。
“予定通り”の微笑だった。
前奏の旋律は甘く、けれど今の大広間には刃のように響いた。
国王レオニスの手が、ゆっくりとセレスへ差し出される。
さっきまで宙に取り残されていた手が、次の行き先を見つけたみたいに。
セレスは一瞬だけ、ためらうふりをした。
控えめに目を伏せ、胸の前で指を重ねる。
“私は出過ぎません”という顔。
その仕草が、余計に人の心を動かすと――彼女は知っている。
「……恐れながら」
微かな声でそう言って、セレスは国王の指先に触れた。
触れた瞬間、大広間が“答え合わせ”を始める。
「やはり……」
「陛下の隣は……」
「お似合いだわ」
言葉の雨。
祝福の形をした判決。
リーシャはその少し後ろ、王妃の位置に立っている。
足元の床が、鏡みたいに自分を映す。
胸元の青い宝石が、灯りを受けて冷たく光る。
(……私は、取らなかった)
自分で選んだ。
そう言い聞かせるほど、胸の奥が痛い。
国王とセレスが、音に合わせて歩き出す。
最初はゆっくり。
次第に滑らかに。
二人の動きは息が合って見える――合っていないのに、合っているように見えるのが一番残酷だ。
国王の手がセレスの背に添えられ、セレスが笑う。
その笑いは柔らかく、慈しむようで、完璧に“絵”だった。
(上手ね)
リーシャは心の中でそう呟く。
上手いのは、踊りではない。
“王の隣にいる自分”を、誰より自然に見せること。
シャンデリアの光が降り注ぐ。
金色の粒が舞い、空気が甘く霞む。
その中心で踊る二人は、まるで最初から夫婦だったかのように見える。
――では私は何だろう。
王妃。
飾り。
つまらない妃。
その言葉が、喉の奥を締める。
リーシャは笑みを保ったまま、視線だけを下げた。
手袋の中の指が冷えていく。
冷えは、身体だけではなく心にも広がる。
(これでいい。私は――)
そこまで考えた瞬間、背後の空気が変わった。
視線がふっと集まり直す。
“次の見世物”を待つ目に変わる。
「王妃陛下」
低く、静かな声。
リーシャが振り向くと、そこにアドリアンが立っていた。
国王の弟。王弟。
王家の血を引く男の顔は、国王より柔らかい。けれど今夜は、優しさの奥に硬い決意があった。
彼は礼をし、手を差し出す。
「――一曲、いただけますか」
言葉は丁寧で、王妃を立てている。
しかしその目は、リーシャだけに告げている。
――立っていてください。ここで折れないで。
リーシャの胸が、ほんの僅かに揺れた。
救いのように。
でも同時に、危険な火種のように。
(踊れば……噂になる)
王弟と王妃。
王の隣にいない妃。
“拒んだ”直後。
噂屋ヴィオラの顔が脳裏に浮かぶ。
彼女は笑うだろう。喜ぶだろう。
今夜の出来事を、明日の“商品”にするだろう。
リーシャは断ろうとした。
唇が、言葉の形を作りかける。
けれど――広間の視線が刺さった。
「王妃、踊らないの?」
「まさか、ずっと立っているつもり?」
「国辱よ……」
囁きが、針になる。
王妃が一曲も踊らないことは、“拒絶”ではなく“恥”として処理される。
恥は、王宮で最も手軽な処刑だ。
リーシャは息を吸った。
頭の中で、王妃としての計算が動く。
(踊らないと、私が潰される)
(踊ると、噂で潰される)
逃げ道はない。
なら、どちらの潰れ方が、まだ自分を守れるか。
リーシャは微笑を深くして、王弟の手に指先を乗せた。
触れた瞬間、ざわめきが広間の端まで波のように走った。
――来た。
噂が、完成する音。
アドリアンはほんの僅かに手に力を込め、リーシャを床の中央へ導いた。
指先は紳士的で、距離はきちんとしている。
それなのに、王宮にとっては“十分に親密”に見える。
楽団が曲を繋ぎ、二人のための旋律が始まる。
リーシャは首を上げ、王妃としての姿勢で踊った。
足運びは完璧。
回転も優雅。
ドレスの裾が花びらみたいに広がり、青い宝石が光を切る。
美しい――と囁かれる。
けれどその美しさは祝福ではなく、“燃料”だった。
「王弟殿下、優しい方ね」
「王妃を救ってるのよ」
「それとも……救いたいのかしら」
言葉が、歪んで膨らむ。
アドリアンが小さな声で言った。
「……怖がらないでください」
リーシャは、笑みを崩さずに答える。
「怖がってなどいません。私は王妃です」
その言葉が、自分の胸を刺した。
怖がっている。
怖い。
でも怖いと言えない。
踊りながら、リーシャはふと視線を上げた。
国王の姿を探してしまった。
そして――見つけてしまう。
国王レオニスは、踊りの輪の外に立っていた。
黒い礼装が夜のように固い。
その視線が、真っ直ぐこちらを見ている。
氷の瞳。
けれど今夜、その氷にひびが入っているように見えた。
怒り?
困惑?
あるいは――嫉妬。
(……嫉妬する資格が、あなたにあるの?)
リーシャは心の中で呟く。
だってあなたは、私をつまらない妃だと言った。
あなたは、私の手を宙に置いて――セレスの手を取った。
それなのに、今のその目は何。
リーシャはその視線から逃げるように、アドリアンの肩越しに顔を逸らした。
見れば、期待が生まれる。
期待はまた、自分を殺す。
踊りが終盤に差し掛かる。
アドリアンが軽く一礼し、リーシャを回転させる。
ドレスがふわりと広がる。光が散る。
その瞬間、ヴィオラの声が聞こえた気がした。
「……王妃様は、王弟殿下を選んだのね」
現実の声ではない。
けれど王宮の空気は、すでにその言葉を受け入れる準備をしていた。
曲が終わる。
拍手が起こる。
拍手の音が、妙に軽い。
アドリアンはリーシャの手を離し、低く言った。
「……今夜だけです。誤解されるのは分かっている。けれど――」
“あなたを一人にしたくなかった”
その続きを、彼は言えない。
言えば、彼自身が罪になるからだ。
リーシャは、王妃の微笑で答える。
「ありがとうございます。王弟殿下」
完璧な礼。
完璧な距離。
完璧な言葉。
それが、彼女の鎧。
アドリアンが去ると、リーシャはほんの一瞬だけ、息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ温かい。
けれどその温かさは、次の瞬間――凍る。
国王がこちらへ一歩踏み出したのが見えた。
その足が動いた瞬間、宰相グレゴールがさりげなく国王の前に立つ。
「陛下。各国使節への御挨拶を」
穏やかな声。
礼儀の皮を被った鎖。
国王の足が止まる。
視線だけがリーシャを射抜く。
(来ないのね)
来られないのか。
来ないのか。
どちらでも同じだ。
リーシャは、微笑を保ったまま、静かに思う。
(これでいい。私は今日から――王の隣に立たない)
けれど同時に、別のことも確信していた。
――今夜のこの一曲で、噂は完成した。
そして噂は、明日から“真実”として扱われる。
リーシャはゆっくりと目を伏せた。
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