つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第10章|噂の花は、朝に咲く

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王宮の朝は、音が少ない。
鐘の余韻が石壁に吸われ、廊下を走る風がカーテンをわずかに揺らす。静けさは上品で、だからこそ残酷だった。

リーシャは白い手袋を嵌めたまま、窓辺に立っていた。
指先は温かい。温かいほど、胸の奥が痛む。

(優しさは、ここでは罪になる)

庭園の白薔薇が、風に揺れている。
目に見えない香りだけが、記憶の中で濃くなる。

扉が控えめに叩かれた。

「王妃陛下。朝のお茶の席のご用意が整いました」

侍女の声は丁寧で、少しだけ固い。
その固さは、彼女がすでに“噂”を知っている証拠だった。

リーシャは微笑む。
王妃の微笑。

「参りましょう」

廊下へ出た瞬間、空気が変わった。
視線が刺さり、すぐに逸らされる。逸らされる視線ほど、はっきりと“見ている”と言う。

手袋に。
指先に。
手首の白い毛皮に。

(もう広まっている)

“王弟が贈った手袋”
“王妃がそれを身につけている”
それだけで、物語は完成する。真実がどうかは関係ない。

リーシャは背筋を伸ばし、歩みを乱さない。
乱した瞬間、噂は“動揺”という味付けを得て、さらに甘くなる。

お茶の間は明るかった。
窓が多く、淡い光が白いクロスに落ちている。花瓶には白い花――白薔薇が飾られていた。
王宮は、リーシャの“印”を勝手に飾りにする。

貴婦人たちがすでに集まっている。
侯爵夫人、伯爵夫人、若い令嬢たち。
誰もが礼儀正しく立ち上がり、王妃へ礼をする。

「王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」
「お加減はいかがで?」

言葉は甘い。
けれど声の奥に、刺すものが混じっている。

リーシャは席へ進み、静かに腰を下ろした。
手袋の白さが、クロスの白さと溶け合う。溶け合えば合うほど、彼女の存在は“装飾”になる。

カップが置かれ、紅茶の香が立つ。
スプーンの触れる音が、小さく鳴る。

沈黙が、わざとらしいほど一拍置かれた。

そして――誰かが、ようやく口火を切る。

「まあ……王妃陛下。その手袋、とても素敵ですわね」

侯爵夫人ベアトリス。
唇は笑っているのに、目は笑っていない。

リーシャは微笑んだ。

「寒いので。」

「寒い……」と、令嬢の一人が小さく繰り返す。
続けて、別の声が甘く絡む。

「殿下がお優しいのですね。……昨夜も、王妃陛下のことを、とても“お気にかけて”いらしたとか」

“お気にかけて”
その言葉は、すでに“特別”の別名だ。

リーシャの胸の奥で、何かが冷たく鳴った。
反論すれば嫉妬深い妃。
否定すれば嘘つきの妃。
笑って受け流せば、認めた妃。

王宮は、妃に正解を与えない。

リーシャはカップに指を添え、ゆっくり口を開いた。

「殿下は王家の方です。王妃を立てるのは当然でしょう」

言葉は秩序。
秩序は盾。
けれど盾は、時に相手の攻撃を“正当化”する。

ベアトリスが扇で口元を隠し、軽く笑った。

「当然……ええ、当然ですわね。
ですから――なおさら誤解されないように、気をつけませんと」

誤解。
誤解の名で火をつける。

リーシャは微笑みのまま、目だけで彼女を見る。

「誤解は、誤解する方の責任でしょう」

空気が、ぴんと張った。
スプーンの音が止まり、紅茶の香だけが濃くなる。

ベアトリスは一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかな声へ戻した。

「まあ、王妃陛下はお強い。
……陛下も、きっとご安心なさいますわ」

“安心”
またその言葉。
リーシャは、胸の奥で苦く笑った。

(安心とは、心がある者に向ける言葉よ)

なのにこの城は、“心”の代わりに“体面”を置いていく。

お茶の席は、礼儀の形を保ったまま終わった。
終わる頃には、リーシャの胸の内側だけが疲れていた。表情は崩れていない。崩せない。

廊下へ戻ると、すぐに気配がつく。
柱の陰、回廊の端。
密偵サシャの影が、今日は近い。

リーシャは歩きながら、手袋の指先を揃えた。
温かい。
けれどこの温かさは、王宮では刃になる。

曲がり角を曲がったとき――正面から黒い影が来た。

国王レオニス。

足音は静かで、しかし空気が変わる。
王が通るだけで、回廊が“国”になる。

リーシャは礼をする。
深く。完璧に。

「陛下」

国王の視線が、彼女の手袋に落ちる。
ほんの一瞬の沈黙。
氷が軋むような沈黙。

「……それは」

短い声。
問いかけではなく、確かめるような声。

リーシャは微笑んだ。

「寒いので、手袋を」

国王の瞳がわずかに揺れる。
揺れは怒りなのか、嫉妬なのか、後悔なのか。
リーシャは、見分けない。見分けたら期待してしまう。

国王の喉が動いた。
何か言いかけた――その瞬間、背後から穏やかな声が差し込む。

「陛下。至急、宰相府より」

宰相グレゴール。
いつも通り穏やかで、いつも通り正しい声。
その正しさが、国王の足を縛る。

国王の視線が一瞬だけ宰相へ動く。
そして、ほんの僅かに眉間が寄る。

(……あなたは、また止められる)

リーシャはその事実を、痛みとして受け取らないようにした。
痛みにしたら、崩れる。

国王はリーシャへ視線を戻し、低く言った。

「……勝手なことはするな」

たった一言。
けれど、それは刃だった。

勝手。
王妃が身につけるものが、勝手だと言われる。

リーシャは笑みを崩さず、丁寧に答えた。

「恐れながら、王妃としてふさわしい身支度をしております」

敬語が距離を作る。
距離が、心を守る。
その距離が、さらに誤解を呼ぶ。

国王の目が冷たくなる。

「……そうか」

宰相が半歩前へ出た。
国王の言葉の続きを、奪う距離。

「陛下、こちらへ」

国王が去る。
去り際、セレスが回廊の向こうから現れた。
幼馴染の、妹分の、王が“昔から”許す女。

セレスはリーシャを見て、柔らかく微笑む。

「王妃様……お寒いのですね。無理はなさらないで」

優しい。
優しいから、逃げられない。

リーシャは微笑み返す。
完璧な王妃の微笑で。

「お気遣いなく。私は、大丈夫です」

セレスの視線が手袋に落ちた。
ほんの僅か、唇の端が動く。

勝利ではない。
“予定通り”の表情。

リーシャは目を伏せた。
手袋の中で、指先が温かい。
温かいのに、胸の奥は冷えていく。

(届かないのね)

国王の贈り物も。
国王の言葉も。
国王の手も。

届くのは、噂だけ。
届くのは、冷たい命令だけ。

リーシャは歩き出した。
背筋を伸ばし、微笑みを保ち、王妃の歩幅で。

(隣に立たない)

そう決めたはずなのに、
その決意の下で――まだ心が痛む。

痛むということは、まだ期待が死んでいない。
その事実が、いちばん恐ろしかった。
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