つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第11章|白薔薇の香、幼馴染の席

王宮の昼は、静かな戦場だ。
朝の噂が咲き、昼には根を張り、夕方には“常識”になる。

リーシャは長い回廊を歩きながら、自分の足音だけを数えていた。
数えれば呼吸が整う。呼吸が整えば表情が崩れない。

白い手袋の中で、指先がまだ温かい。
その温かさが、今日も罪の形をしている。

(噂は、もう消えない)

お茶の席で撒かれた言葉は、花粉のように広がっている。
「王弟殿下の贈り物」
「王妃は殿下に守られている」
「陛下は――」

“陛下は”の続きは、いつも同じ結論に辿り着く。

――冷たい。
――関心がない。
――幼馴染のセレスが本命。

リーシャはその結論を、自分の胸の内側で受け止める練習を繰り返した。
受け止めれば、痛みが鈍くなる。鈍くなれば、倒れない。

曲がり角を曲がると、香がふいに濃くなった。
白薔薇。
あまりに清い香りで、胸がきゅっと締まる。

(……どうして、ここに)

王宮の香は混ざる。
蜜の香、木の香、香油の甘さ。
その中で白薔薇だけが際立つのは、それが“誰かの印”だからだ。

リーシャの印。
勝手に王宮がそう決めた印。

香は、開いた扉の向こうから流れてきていた。
謁見前の控えの間――人の出入りが多い場所だ。
そこで白薔薇が濃いのは、気持ちが悪い。

リーシャが足を止めるより早く、侍女長アグネスが半歩前に出た。

「……王妃陛下。こちらは」

「分かっているわ」

リーシャは微笑みのまま言った。
“分かっている”は、王妃が弱さを見せないための呪文だ。

扉の隙間から見えたのは、国王の背。
黒い礼装。背筋の硬さ。
そして――その隣にある淡い色のドレス。

セレス。

幼馴染の女は、まるで空気のようにそこにいた。
自然で、当然で、誰も疑わない場所に。

リーシャは一歩、扉の前へ進んだ。
入室の声をかける前に、会話が耳に刺さる。

「陛下、昨夜は……少しお疲れでしたね」

セレスの声は柔らかい。
幼い頃からその声で王を落ち着かせてきたのだろう、という“歴史”が滲む。

国王の返答は短い。

「……問題ない」

「問題がない顔ではありません」

軽く笑う。
笑いは遠慮がない。遠慮がないのは、“家族”の距離だからだ。

リーシャの喉が、わずかに痛む。

(私には、そんなふうに言わない)

国王は、リーシャにだけ敬語を求める。
王妃としての礼。秩序。距離。
それが彼の鎧であり、彼女の檻。

セレスが続ける。

「王妃様のこと……あまり追い詰めないでください」

追い詰めないで。
その言葉は優しさに聞こえるのに、リーシャには別の意味に聞こえた。

――王妃は弱い。
――私が守る。
――あなたは冷たい。

守る者がいる時点で、守られる者は“弱い”と決まる。

国王が低く言った。

「……守る必要はない」

一瞬、リーシャの胸が跳ねた。
守る必要はない。
それは“王妃を強いと見ている”という意味にも聞こえたから。

けれど次の言葉が、すべてを折った。

「……あれは、つまらない妃だ」

昨夜と同じ言葉。
同じ刃。
今度は、はっきりと耳に届いた。

リーシャの中で何かが白くなる。
怒りも涙も出ない。
ただ、音が消える。

セレスが一瞬だけ黙り、そして、ゆっくりと息を吐いた。

「……陛下。それは」

たしなめるような声。
でも、止めるほど強くない声。

止めない。
止められない。
止める気がない。

リーシャは扉の取っ手に触れたまま、静かに呼吸を整えた。
ここで入ればいい。
入って「聞きました」と言えばいい。

けれど言えば、何が起きる?

セレスは“心配していた”顔をする。
国王は“誤解だ”と言うか、“秩序”を盾に黙る。
宰相は“妃が盗み聞きした”とねじ曲げる。

――そして、私が悪者になる。

リーシャは、扉から手を離した。
離した指先が、少し震える。
震えを隠すために、手袋の縫い目を整える。

そのとき、背後の回廊で足音が止まった。

サシャ。
密偵の気配。

リーシャは振り返らずに言った。

「……聞いていたのね」

サシャは答えない。
答えないことが答えだ。

(報告される)

“王妃が盗み聞きした”
“王妃が怒った”
“王妃が不機嫌だ”

どんなに正しくても、報告は“悪意の文章”に編集される。

リーシャはゆっくりと回廊を歩き出した。
背筋は真っ直ぐ。微笑は薄く。足音は静か。

歩きながら、白薔薇の香が追いかけてくる。
追いかけてくる香が、まるで“席を奪われた証拠”みたいだった。

曲がり角で、セレスが部屋から出てきた。
扉が開き、香が濃くなる。
セレスはリーシャに気づき、柔らかく微笑んだ。

「王妃様。こちらにいらしたのですね」

その微笑の奥に、わずかな“確信”が見えた。
リーシャが聞いていたことを、察している。

「今、陛下に――」

セレスが言いかけた瞬間、リーシャは微笑みで遮った。

「お気遣いなく。私は、ただ通りかかっただけです」

冷たい敬語。
丁寧な距離。
王妃の盾。

セレスは一瞬、目を瞬かせた。
そして、すぐに慈悲の微笑に戻る。

「……王妃様は、お強いのですね」

強い。
またその言葉。
強いと言われた者は、守られない。

リーシャは微笑んだ。

「強くなければ、王妃は務まりませんもの」

自分の言葉なのに、胸が痛んだ。
強いふりをするほど、心が削れる。

セレスが小さく息を吐く。
それは同情に見える。けれど同情は、上に立つ者の目だ。

「陛下は……昔から、不器用です。
幼い頃から、誰かを大切にするほど言葉が荒くなる」

幼い頃から。
昔から。
また“歴史”が出てくる。

リーシャは、その歴史の外側に立っている。
どんなに正しく振る舞っても、入れない場所。

リーシャは扇を閉じる音を立てた。
その音が、静かな回廊に響く。

「そうですか。……では、昔からの方が支えて差し上げて」

言い切った瞬間、セレスの微笑がわずかに揺れた。
揺れは小さい。けれど確かに。

リーシャはそれ以上、何も言わずに礼をして去った。
背中に、セレスの視線が残る。
同情のようで、計算のような視線。

角を曲がると、窓辺に白薔薇が活けられていた。
リーシャの香りの象徴。
けれど今は、皮肉にしか見えない。

(“王妃の席”は、香りだけが占めている)

リーシャは胸の奥で、静かに宣言する。

(今日から、隣に立たない)

そうしなければ、心が死ぬ。
もう半分死んでいるのに、残りまで殺したくない。

白薔薇の香が、どこまでも追いかけてくる。
それは王宮そのものが、リーシャに囁いているみたいだった。

――あなたは美しい。
――だから、つまらない。
――だから、隣には立てない。

リーシャは微笑を崩さず、歩き続けた。
崩さない微笑は、王妃の冠であり、
そして――誰にも救われない孤独の証だった。

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