嘘の誓いは、あなたの隣で

柴田はつみ

文字の大きさ
9 / 10

第9章 聖女の真実

しおりを挟む
 朝の光が、王都の神殿を白く染めていた。
 祈りを終えたカルバンは、静かな足音で廊下を歩いていた。
 夜明けの鐘の音が遠くで響き、
 彼の胸の奥に、昨日の出来事がまだ燻っている。

 ——あの夜。
 彼はミッシェルに会い、そして終わりを告げられた。
 奪った唇の温もりが、いまも指先に残っている。
 けれど、それは彼女を苦しめただけだった。

 “あなたが生きて祈り続けること、それが赦しです”
 その言葉が、何度も胸の奥で反響する。

 彼は立ち止まり、聖堂の扉を見上げた。
 光が差し込むその場所で、
 白い衣の聖女アリアが祈りを終え、振り返る。

「カルバン様……」

 穏やかな笑み。
 だがその瞳の奥に、今までとは違う影が見えた。

「どうなさったのです? 顔色が優れません」

「……聖女殿。あなたに、聞きたいことがある」

 カルバンの声は低く、硬かった。
 アリアは小さく首を傾げた。

「私に?」

「俺が、あなたの護衛に選ばれた理由だ。
 本当に、王の命令だけだったのか?」

 アリアの微笑がわずかに揺らぐ。
 そして、静かに視線を落とした。

「……やはり、気づいておられたのですね」

 カルバンは答えなかった。
 ただ、沈黙が肯定の代わりとなる。

 アリアは祭壇の前まで歩み寄り、
 両手を組んだまま小さく息を吐いた。

「——私は、聖女としてこの国に召された時から、
 “完璧な清らかさ”を求められていました。
 けれど、私は人間です。弱さも、恐れもある。
 ……だから、誰かの心に縋りたかったのです」

「……俺の、心に?」

「ええ」
 アリアは微笑んだが、その瞳は痛みを湛えていた。

「あなたは誠実で、決して近づこうとしない人でした。
 だからこそ、あなたの視線を奪いたかった。
 聖女である私が、誰かに“愛されている”と示せば、
 自分が本当に“聖女”になれる気がしたのです」

 カルバンの心臓が、静かに軋む。

「……つまり、俺を利用したと?」

「そう言われても仕方ありません」
 アリアは首を縦に振った。

「でも、それだけではありません。
 あなたの優しさが、本当に心地よかったのです。
 だからこそ、ミッシェル様を見て……恐ろしくなった。
 あなたが彼女をそっと見るその目に、
 私がどんなに祈っても届かない温かさがあったから」

 沈黙が落ちる。
 外の風が、ステンドグラスを揺らし、色の光を床に落とした。

 アリアは涙をこぼさずに微笑んだ。
 その笑みが、痛いほど美しかった。

「カルバン様。あなたは罪など犯していません。
 ただ、誰よりも正しく生きようとしただけです。
 けれど、その正しさが、誰かを遠ざけてしまうことがある。
 ……それを、私も、ミッシェル様も学びました」

 カルバンは拳を握りしめた。
 喉の奥が焼けつくように痛い。
 自分がどれほど多くの人を傷つけたのか、
 今になってようやく理解する。

「彼女を、愛していた」
 掠れた声で、彼は言った。
「けれど、それを口にする資格がないと思っていた。
 愛することが、彼女を汚すようで……怖かった」

「愛は、汚すものではありません」
 アリアの声が、静かに響く。
「愛とは、赦すことです。
 そして、赦されること。
 あなたがそれを恐れていたなら——それはあなたが誰よりも純粋だったから」

 カルバンは顔を上げた。
 アリアの瞳は涙に濡れながらも、穏やかに光っている。

「私はもう聖女ではありません」
 彼女はそう言って、胸にかけられた銀の十字架を外した。
 鎖が小さく鳴り、床に落ちる。

「この祈りの力は、あなたの手で守られたもの。
 でも今は、あなたに返します」

 差し出された手の上には、銀のペンダント。
 カルバンはそれを受け取らず、ただ見つめた。

「俺に、そんな資格はない」

「いいえ。
 あなたは、ずっと誰かのために祈り続けた。
 それが聖女にできるすべてのことです」

 アリアは微笑んだ。
 涙が頬を伝い、床に落ちる音がした。

「私は、あなたを愛していたと思っていました。
 けれど、それは“愛されたい”という願望だった。
 本当にあなたを愛していたのは——
 ミッシェル様、ただ一人でした」

 その名を聞いた瞬間、
 カルバンの胸の奥で、凍っていた何かが崩れ落ちた。



 神殿を出たあと、彼は王都の丘に立っていた。
 遠くに、王宮の塔が見える。
 その中に、ミッシェルがいる。

 もう彼女は皇太子の婚約者だ。
 決して手を伸ばしてはならない。
 けれど、目を閉じれば、あの夜の声が蘇る。

 ——「あなたの祈りが、わたしの赦しです」

 風が吹いた。
 銀のペンダントが、彼の掌の中で揺れる。

 彼はゆっくりと膝をつき、空を仰いだ。
 朝の光が、彼の頬を照らす。

「……ミッシェル」

 名前を呼ぶ声は、祈りのように静かだった。

「君が笑っていられるように。
 その光の下で、どうか幸せであってほしい」

 風が彼の言葉を運び、
 丘の上の白薔薇が、そっと揺れた。

 その瞬間、空が白く輝き、
 神殿の鐘が鳴った。

 アリアが残した最後の祈りの音のように。



 その夜、王宮のバルコニーで。
 ミッシェルは、遠くの丘に灯る微かな光を見つめていた。
 ルシアンが背後に立ち、静かに彼女の肩に手を置く。

「冷えますよ」

「……ええ。でも、少しだけ」

「誰かのことを、思い出しているのですね」

 ミッシェルは目を閉じた。
 頬に風が当たる。

「ええ。でも、それは悲しい思い出ではありません」

「なら、よかった」
 ルシアンは微笑む。
「その人を赦せるのは、あなたの強さです」

「わたしも、ようやく分かりました。
 愛は、終わるものではなく、形を変えるものだと」

 彼女の声は、穏やかで透明だった。
 遠くの丘の光が、まるで返事のように瞬いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく

木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。 侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。 震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。 二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。 けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。 殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。 「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」 優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎泡雪 / 木風 雪乃

聖女が落ちてきたので、私は王太子妃を辞退いたしますね?

gacchi(がっち)
恋愛
あと半年もすれば婚約者である王太子と結婚して王太子妃になる予定だった公爵令嬢のセレスティナ。王太子と中庭を散策中に空から聖女様が落ちてきた。この国では聖女が落ちてきた時に一番近くにいた王族が聖女の運命の相手となり、結婚して保護するという聖女規定があった。「聖女様を王太子妃の部屋に!」「セレスティナ様!本当によろしいのですか!」「ええ。聖女様が王太子妃になるのですもの」女官たちに同情されながらも毅然として聖女の世話をし始めるセレスティナ。……セレスティナは無事に逃げ切れるのだろうか? 四年くらい前に書いたものが出て来たので投稿してみます。軽い気持ちで読んでください。

その結婚は、白紙にしましょう

香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。 彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。 念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。 浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」 身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。 けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。 「分かりました。その提案を、受け入れ──」 全然受け入れられませんけど!? 形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。 武骨で不器用な王国騎士団長。 二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。

戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました

Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。 「彼から恋文をもらっていますの」。 二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに? 真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。 そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。 ※小説家になろう様にも投稿しています

だって悪女ですもの。

とうこ
恋愛
初恋を諦め、十六歳の若さで侯爵の後妻となったルイーズ。 幼馴染にはきつい言葉を投げつけられ、かれを好きな少女たちからは悪女と噂される。 だが四年後、ルイーズの里帰りと共に訪れる大きな転機。 彼女の選択は。 小説家になろう様にも掲載予定です。

忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】

雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。 誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。 ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。 彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。 ※読んでくださりありがとうございます。 ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。

完結 婚約破棄は都合が良すぎる戯言

音爽(ネソウ)
恋愛
王太子の心が離れたと気づいたのはいつだったか。 婚姻直前にも拘わらず、すっかり冷えた関係。いまでは王太子は堂々と愛人を侍らせていた。 愛人を側妃として置きたいと切望する、だがそれは継承権に抵触する事だと王に叱責され叶わない。 絶望した彼は「いっそのこと市井に下ってしまおうか」と思い悩む……

全てがどうでもよくなった私は理想郷へ旅立つ

霜月満月
恋愛
「ああ、やっぱりあなたはまたそうして私を責めるのね‥‥」 ジュリア・タリアヴィーニは公爵令嬢。そして、婚約者は自国の王太子。 でも私が殿下と結婚することはない。だってあなたは他の人を選んだのだもの。『前』と変わらず━━ これはとある能力を持つ一族に産まれた令嬢と自身に掛けられた封印に縛られる王太子の遠回りな物語。 ※なろう様で投稿済みの作品です。 ※画像はジュリアの婚約披露の時のイメージです。

処理中です...