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第8章 奪われたキス
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秋の夜風が、王宮の回廊を吹き抜けていた。
祝宴の熱がようやく収まり、宮廷は深い静寂に包まれている。
ミッシェルは一人、灯りの落ちた庭園を歩いていた。
月が白く照らし、白薔薇の花びらが光を受けて儚く揺れる。
その光景に、かつての記憶が重なる。
——あの日も、白薔薇の庭で。
彼が「君を守る」と言ってくれた。
あの約束の温もりが、まだ手のひらに残っている気がした。
だが今、その手はもう別の人に握られている。
皇太子ルシアン。
穏やかで、優しく、決して傷つけることのない人。
彼のそばにいると心が安らぐのに、
どうして胸の奥はこんなにも痛いのだろう。
風が頬を撫でた。
冷たい夜気に包まれたその瞬間、
背後で衣擦れの音がした。
「……ミッシェル」
聞き慣れた声。
振り返ると、そこにカルバンが立っていた。
月明かりが彼の横顔を照らす。
以前より痩せ、目の下に影が落ちている。
それでも、その瞳だけは真っ直ぐで、
あの頃と同じ熱を宿していた。
「……公爵様」
言葉が震える。
それは恐れでも驚きでもない。
抑え込んできた感情が、一気に胸に押し寄せたせいだった。
「会いたかった」
彼の声が、風よりも低く響いた。
ミッシェルは唇を結ぶ。
何も言えなかった。
「君が皇太子の婚約者になると聞いた時、
……信じられなかった」
カルバンは一歩、近づいた。
その距離が、息を詰まらせるほどに近い。
「俺は、君を手放した覚えはない」
「でも、あなたが先に離れたのです」
ミッシェルの声は静かだった。
けれど、その奥には押し殺した痛みが滲んでいた。
「わたしはずっと待っていました。
あなたの言葉を、あなたの愛も、あなたの視線も。
でも、どこにも――」
「違う!」
カルバンの声が重なった。
夜の静けさを破るほどの叫び。
彼の拳が震えている。
「俺は……怖かったんだ。
君を愛してはいけないと思っていた。
守ることだけが正しいと、信じていたんだ」
ミッシェルは目を伏せた。
風に揺れる髪が頬をかすめる。
その頬を、カルバンの指先がそっと掬い上げた。
「もう遅いと分かっている。
それでも、どうしても伝えたかった」
彼の声が震えていた。
言葉よりも、指の温かさが胸を貫く。
「ミッシェル、俺は君を――」
その先は言葉にならなかった。
唇が触れたからだ。
拒む暇もなかった。
ただ一瞬、世界が止まる。
月明かりが二人を包み、
冷たい空気の中で、彼の体温だけが確かだった。
その熱が、涙のように伝わる。
けれど、その熱は“赦されぬ熱”だった。
「……だめです」
ミッシェルは小さく息を呑み、
彼の胸に手を添えてそっと押し返した。
「それは、もう過去のものです。
あなたは、わたしを守ると言った。
でも、あなたの瞳に常に
映っていたのは、私ではなかった。‥‥‥私は、そんなに強くはないのです。」
カルバンは動けなかった。
言葉が出ない。
彼女の瞳には涙が光っていたが、
その涙は悲しみではなく、決意の色をしていた。
「殿下は、わたしを一人の人間として真っ直ぐに私を見てくださいます。
あなたは、守るといいながら私を見てくれませんでした。
それが、あなたと殿下の違いです」
カルバンの喉が詰まる。
呼吸の仕方さえ忘れるほどに苦しかった。
「……皇太子が、君を大事にしてくれるのか?」
「ええ。
でも、それ以上に、彼はわたしを愛してくれます。
――あなたが、かつてそうしてくれなかったように」
その言葉が、刃のように突き刺さった。
カルバンは拳を握りしめ、何度も息を吸い込んだ。
それでも、胸の奥の痛みは消えない。
「俺は、君を手放すことなどできない」
彼の声が掠れる。
それでも、ミッシェルは首を横に振った。
「あなたが手放さなくても、
わたしはもう、あなたの手の届かない場所にいます」
その声は柔らかく、けれど揺るぎなかった。
夜風が二人の間をすり抜け、
薔薇の花弁が舞う。
カルバンは伸ばしかけた手を、途中で止めた。
それ以上近づけば、彼女の誇りを壊してしまう。
彼はただ、静かに一歩後ろへ下がった。
「……君を傷つけたのは、俺だ。
それだけは、どうしても償いたかった」
ミッシェルは微笑んだ。
涙が一筋、頬を伝う。
「償いなんて、いりません。
あなたが生きて、祈りを続けること……それが一番の赦しです」
その声は、かつてのように優しかった。
だが、もう恋人に向けられるものではなかった。
カルバンは目を閉じ、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
風が二人の間を吹き抜ける。
その音は、まるで祈りの残響のようだった。
カルバンが去ったあと、
ミッシェルは庭の中央に立ち尽くしていた。
夜空を見上げ、そっと唇を押さえる。
彼の熱がまだ残っている。
「さようなら、カルバン」
囁く声が、風に乗って消えていく。
その瞬間、白薔薇の花びらが一斉に散った。
まるで、誰かの誓いが静かに崩れ落ちるように。
祝宴の熱がようやく収まり、宮廷は深い静寂に包まれている。
ミッシェルは一人、灯りの落ちた庭園を歩いていた。
月が白く照らし、白薔薇の花びらが光を受けて儚く揺れる。
その光景に、かつての記憶が重なる。
——あの日も、白薔薇の庭で。
彼が「君を守る」と言ってくれた。
あの約束の温もりが、まだ手のひらに残っている気がした。
だが今、その手はもう別の人に握られている。
皇太子ルシアン。
穏やかで、優しく、決して傷つけることのない人。
彼のそばにいると心が安らぐのに、
どうして胸の奥はこんなにも痛いのだろう。
風が頬を撫でた。
冷たい夜気に包まれたその瞬間、
背後で衣擦れの音がした。
「……ミッシェル」
聞き慣れた声。
振り返ると、そこにカルバンが立っていた。
月明かりが彼の横顔を照らす。
以前より痩せ、目の下に影が落ちている。
それでも、その瞳だけは真っ直ぐで、
あの頃と同じ熱を宿していた。
「……公爵様」
言葉が震える。
それは恐れでも驚きでもない。
抑え込んできた感情が、一気に胸に押し寄せたせいだった。
「会いたかった」
彼の声が、風よりも低く響いた。
ミッシェルは唇を結ぶ。
何も言えなかった。
「君が皇太子の婚約者になると聞いた時、
……信じられなかった」
カルバンは一歩、近づいた。
その距離が、息を詰まらせるほどに近い。
「俺は、君を手放した覚えはない」
「でも、あなたが先に離れたのです」
ミッシェルの声は静かだった。
けれど、その奥には押し殺した痛みが滲んでいた。
「わたしはずっと待っていました。
あなたの言葉を、あなたの愛も、あなたの視線も。
でも、どこにも――」
「違う!」
カルバンの声が重なった。
夜の静けさを破るほどの叫び。
彼の拳が震えている。
「俺は……怖かったんだ。
君を愛してはいけないと思っていた。
守ることだけが正しいと、信じていたんだ」
ミッシェルは目を伏せた。
風に揺れる髪が頬をかすめる。
その頬を、カルバンの指先がそっと掬い上げた。
「もう遅いと分かっている。
それでも、どうしても伝えたかった」
彼の声が震えていた。
言葉よりも、指の温かさが胸を貫く。
「ミッシェル、俺は君を――」
その先は言葉にならなかった。
唇が触れたからだ。
拒む暇もなかった。
ただ一瞬、世界が止まる。
月明かりが二人を包み、
冷たい空気の中で、彼の体温だけが確かだった。
その熱が、涙のように伝わる。
けれど、その熱は“赦されぬ熱”だった。
「……だめです」
ミッシェルは小さく息を呑み、
彼の胸に手を添えてそっと押し返した。
「それは、もう過去のものです。
あなたは、わたしを守ると言った。
でも、あなたの瞳に常に
映っていたのは、私ではなかった。‥‥‥私は、そんなに強くはないのです。」
カルバンは動けなかった。
言葉が出ない。
彼女の瞳には涙が光っていたが、
その涙は悲しみではなく、決意の色をしていた。
「殿下は、わたしを一人の人間として真っ直ぐに私を見てくださいます。
あなたは、守るといいながら私を見てくれませんでした。
それが、あなたと殿下の違いです」
カルバンの喉が詰まる。
呼吸の仕方さえ忘れるほどに苦しかった。
「……皇太子が、君を大事にしてくれるのか?」
「ええ。
でも、それ以上に、彼はわたしを愛してくれます。
――あなたが、かつてそうしてくれなかったように」
その言葉が、刃のように突き刺さった。
カルバンは拳を握りしめ、何度も息を吸い込んだ。
それでも、胸の奥の痛みは消えない。
「俺は、君を手放すことなどできない」
彼の声が掠れる。
それでも、ミッシェルは首を横に振った。
「あなたが手放さなくても、
わたしはもう、あなたの手の届かない場所にいます」
その声は柔らかく、けれど揺るぎなかった。
夜風が二人の間をすり抜け、
薔薇の花弁が舞う。
カルバンは伸ばしかけた手を、途中で止めた。
それ以上近づけば、彼女の誇りを壊してしまう。
彼はただ、静かに一歩後ろへ下がった。
「……君を傷つけたのは、俺だ。
それだけは、どうしても償いたかった」
ミッシェルは微笑んだ。
涙が一筋、頬を伝う。
「償いなんて、いりません。
あなたが生きて、祈りを続けること……それが一番の赦しです」
その声は、かつてのように優しかった。
だが、もう恋人に向けられるものではなかった。
カルバンは目を閉じ、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
風が二人の間を吹き抜ける。
その音は、まるで祈りの残響のようだった。
カルバンが去ったあと、
ミッシェルは庭の中央に立ち尽くしていた。
夜空を見上げ、そっと唇を押さえる。
彼の熱がまだ残っている。
「さようなら、カルバン」
囁く声が、風に乗って消えていく。
その瞬間、白薔薇の花びらが一斉に散った。
まるで、誰かの誓いが静かに崩れ落ちるように。
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