嘘の誓いは、あなたの隣で

柴田はつみ

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第7章 婚約の発表

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 その知らせは、秋の終わりとともに届いた。

 ——皇太子ルシアン・ヴァルター殿下、
 ローザリンド公爵令嬢ミッシェルと婚約。

 朝、王都の掲示板に貼り出された一枚の布告は、瞬く間に人々の口々で広がった。
 “聖女の加護に続く、王国の祝福”とまで言われ、
 街中が新たな光を讃えていた。

 その紙を見上げたカルバンは、
 しばらくの間、息をすることさえ忘れていた。

 彼の指先から、手にしていた報告書が滑り落ちた。

 白い紙に刻まれた文字。
 それが、刃物のように胸を裂く。

 ——ミッシェルが、皇太子の婚約者に。

 嘘だ、と思った。


 喉が焼けるように痛い。
 机の端を掴む指が震え、書類が散る。
 けれど、拾い上げる気力もなかった。

 彼の知らぬところで、
 ミッシェルの手紙はまだ神殿の奥に眠ったままだ。
 その事実だけが、冷たい運命のように沈黙していた。



 同じころ、王宮の謁見の間。
 ミッシェルは、深い青のドレスに身を包み、
 玉座の前に立っていた。

 王の前で、ルシアンが正式に婚約を申し出たのだ。
 人々が見守る中で、彼は静かに膝をつき、
 まっすぐにミッシェルを見上げた。

「あなたの誇りも悲しみも、すべて私が受け入れます。
 どうか——この国と私を信じてほしい」

 低い声が、玉座の間に響く。
 その穏やかな言葉に、ミッシェルの胸が震えた。
 隣に立つ父は満足げに頷き、
 侍女たちは涙を拭いながら祝福を口にした。

 だが、ミッシェルの心の中では、
 たった一人の名が静かに呼ばれていた。

 ——カルバン。

 目を閉じれば、白薔薇の庭の匂いが蘇る。
 「君を守る」と言ってくれたあの声。
 あの約束は、もう風のように遠い。

 それでも、涙は流さなかった。
 流せば、すべてが壊れてしまう気がした。
 代わりに、静かに微笑む。

 それが、この国で生きるための唯一の武装だった。



 晩餐のあと、ルシアンはミッシェルを庭へ誘った。
 夜風が冷たく、灯火が二人の影を長く伸ばしている。

「辛くはないですか」

 彼の声は柔らかかった。
 ミッシェルは微笑んで、ゆっくり首を振る。

「いいえ。……殿下がいてくださることが、救いです」

「あなたの救いになれるなら、それだけでいい」

 ルシアンはそう言って、静かに彼女の指先を取った。
 その瞳の奥には、憐れみではなく、確かな意志があった。

「——私が、あなたを守る」

 その言葉に、ミッシェルの胸の奥で何かが静かにほどけた。
 彼女は初めて、誰かに“見つめ返される”幸福を知った。



 一方その夜。

 カルバンは、王宮の廊下を無言で歩いていた。
 宴の喧騒が遠くから聞こえる。
 笑い声、音楽、祝福の拍手。
 そのすべてが、刃のように耳を刺した。

 廊下の柱の影で立ち止まり、
 遠くの中庭に目を向ける。
 そこには、青いドレスをまとったミッシェルの姿。
 彼女の傍らに立つルシアンが、優しく微笑んでいた。

 その瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
 彼の手が、思わず拳を握る。

「……どうして、俺じゃだめだった」

 呟きは、夜風に溶けて消える。

 彼女を傷つけたくなくて、距離を置いた。
 信じてくれていると、勝手に思っていた。
 けれど、結果はこれだ。
 守ったはずのものを、全部失った。

 その時、背後からアリアの声がした。

「カルバン様……?」

 振り返ると、聖女が静かに立っていた。
 彼女の金の髪が月光に照らされて光る。

「お祝いに行かないのですか? 皆、殿下と令嬢を祝福しています」

 カルバンは目を伏せた。
「……行く資格などない」

「資格、ですか?」

「俺は彼女を信じていたつもりだった。
 だがそれは、“信じさせようとした”だけだ。
 彼女の沈黙を恐れて、心を見ようとしなかった。」

 アリアは何も言わなかった。
 ただ、静かにその場に立ち尽くす彼を見つめていた。
 やがて、彼女は小さく囁いた。

「あなたが愛していたのは、きっと“守ること”ではなく、“赦されること”(ゆるされること)だったのですね」

 その言葉が、胸の奥に刺さる。
 カルバンは唇を噛み、何も言えなかった。

カルバンにとって、「守ること」は、自分の罪を償い、赦しを得るための手段だったのかもしれない。

その行為そのものを「愛している」と信じていたが、実際には、その行為を通じて得られるはずの「赦し」こそが目的だった。この真実を突きつけられ、反論の余地がないほど的確だったた為、その場に立ち尽くすしかなかった。


 ミッシェルの婚約は、翌日には王都中に広まった。
 街は祝福の花で飾られ、
 民は新しい時代の象徴として二人を称えた。

 けれど、カルバンの屋敷の中は静まり返っていた。
 机の上には、開かれぬままの書簡。
 その隣に、あの日の封じられなかった手紙。

『君の沈黙が、俺への答えなのだろうか。』

 その文を見つめながら、カルバンは呟く。

「俺が、沈黙を選んだのに……」

 風が窓を揺らし、机の上の紙片が舞う。
 ひとつ、封蝋のない便箋が床に落ち、
 開かれたままの文字が、月明かりに照らされた。

『どうか、あなた自身を失くさないでください。』

 それは、彼が一度も受け取らなかった、
 ミッシェルの手紙の複写だった。
 神殿から回収された書状の整理の中に混じり、
 偶然、彼の屋敷に届いたのだ。

 カルバンの瞳が揺れる。
 指先でその紙を撫でた。
 滲んだ文字の中に、彼女の手の温もりが残っている気がした。

「……俺は、何をしていたんだ」

 声が掠れる。
 けれど、もう遅い。
 婚約は布告され、国中が祝福に沸いている。

 彼の掌の中で、紙が震えた。
 白薔薇の花が散るように、静かに。



 その夜、
 王宮の塔の上から灯火を見下ろしていたミッシェルは、
 遠くに見える公爵邸の灯りを探していた。

 ——届かない手紙、届かない言葉。

 けれど、確かにどこかで彼も空を見上げている気がした。
 風が頬を撫で、髪を揺らす。
 ミッシェルは目を閉じて、静かに祈った。

「あなたの嘘が、どうか優しいものでありますように」

 夜空の下、王都の灯が揺れ、
 愛と誤解の物語は、静かに進んでいった。
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