硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ

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第五章:泥濘(でいねい)の月、騎士の誓い

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昨夜の断罪から一夜明けた王宮は、アリアにとって、もはや見慣れた居場所ではなかった。
そこは、静かに牙を剥く獣の腹の中――。

「不貞の王女」
「騎士を誑かした魔女」

すれ違う侍女たちの冷たい視線。耳を刺す囁き。
昨日まで彼女に頭を垂れていた文官たちでさえ、今は汚れたものを見るように目を逸らす。

アリアは自室の寝椅子に崩れ落ち、震える指をきつく組んだ。

「……レオン様……どうして……」

声にならない嗚咽を、唇を噛み締めて堪える。

その時、厚い扉が静かに開き、金属が擦れる微かな音が室内に落ちた。

「アリア様」

低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこには近衛騎士・カイルが立っていた。

彼は荒れ果てた室内と、憔悴したアリアの姿を見ても、動じることなく、その場に静かに跪く。

「……カイル」

掠れた声で名を呼ぶ。

「貴方は、ここにいては駄目よ。私と関われば……貴方まで罪に問われるわ」

アリアの必死な言葉に、カイルは首を横に振った。

「私が守ると決めたのは、王国の噂でも、世間の正義でもありません」

彼は立ち上がり、そっとアリアの前に膝をつき、視線の高さを合わせる。

「守ると誓ったのは……アリア様、貴女です」

そう言って、彼は自らの胸当てに付けられた
**《守護の飾り》**を外した。

「これを……お返しします。
今は、私の持つべきものではありませんから」

「……カイル……?」

次の瞬間、彼はためらいなく騎士マントを解き、アリアの細い肩を包み込んだ。

「少し、冷えていらっしゃる」

使い込まれたウールから、雨上がりの森のような香りがする。
甘美な香水とは違う、剣と土と誠実さの匂い。

その温もりに、アリアの張り詰めていた心が、わずかにほどけた。

「……私、本当に何もしていないの……」

震える声で、必死に訴える。

「レオン様を裏切るようなこと……一度も……」

「ええ」

カイルは即座に、迷いなく頷いた。

「存じております」

その声は、石のように揺るがない。

彼は、騎士としては許されぬ距離で、アリアの手を取った。
壊れ物を扱うように、両手で包み込む。

「あの日、貴女がこの飾りをくださった時……私は誓いました」

低く、静かな誓い。

「たとえ世界のすべてが貴女を否定しても。
たとえ主君であるレオン様が刃を向けようとも……
私だけは、貴女の真実を信じ抜くと」

分厚い掌の感触。
鍛錬で刻まれた硬さが、絶望の底に沈みかけていたアリアの心に、小さな灯を点す。

「……どうして……」

アリアは、縋るように問いかける。

「どうして、そこまで……?」

カイルは一瞬だけ、目を伏せた。
そして、悲しげで、それでも美しい微笑を浮かべる。

その瞳に宿る想いは、決して言葉にしてはならないほど、深く、静かだった。

「私は騎士ですから」

そう言って、穏やかに続ける。

「……主の涙を止めるためなら、
たとえ地獄へでも、私は同行いたします」

彼はアリアの手の甲に、そっと唇を触れさせた。

それは欲情の口づけではない。
祈りに近い、誓約の証。

――だが、そのすべてを。

部屋の調度品に紛れ込ませた、セシルの
**《盗聴の魔道具》**が、確実に拾っていた。

「……素敵だわ、カイル」

遠く離れた私室で、セシルはワイングラスを揺らし、甘く囁く。

「そのまま、もっとお姉様を慰めてあげて?
そうすれば……“不貞”の証拠は、もっと美しくなるもの」

狂気じみた歓喜が、彼女の瞳を歪める。

カイルの純粋な忠誠も、
アリアのか弱い心も――
すべてが、「断罪」を完成させるための駒であることに。

まだ、二人は気づいていなかった。
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