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10.小さな芽生え
①
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トントンと、扉をたたく小さな音でふっと意識が上昇した。
目を開けると部屋の中はすでに暗く、窓の外も夜中のように静まり返っていた。
あれから何時間経ったのかわからないが、いつのまにか気絶するように眠ってしまったらしい。全身が気怠いが抑制剤が効いているようで、発情の熱はほとんど引いていた。
もう一度扉をたたく音とともに、小さな声が聞こえた。
「リオン、リオン、大丈夫かい?」
(オースティンの声だ……)
リオンは廊下へと続く扉へとぼんやり目を向けた。あの扉の向こうにオースティンがいる。おそらく護衛の兵たちも。そして今さらながらに気が付いた。
(鍵、かけてない……)
部屋の扉には小さな閂が付いていたはずだ。今まで掛けたことはなかったけど、今だけは誰にも部屋の中に入って欲しくない。
(閉めなくちゃ……)
リオンは重い身体を起こして寝台を下りた。よろめきながらも部屋の扉の前まで歩く。備え付けられた閂を下すとカタンと小さな音がして、扉の向こうでオースティンが「リオン!?」と声を上げた。
「そこにいるの、リオン?」
「……はい」
あまりに必死な呼びかけだったものだから、リオンは仕方なく返事をした。
「ああ、よかった……。いくら呼び掛けても返事がないから、中で倒れてたらどうしようと思っていたところだよ。ドニから、この国の抑制剤を飲んだと聞いたけど、具合はどうだい?」
「だいじょうぶ、です……」
リオンが出せたのはか細い声だったが、オースティンには聞き取れたようだ。
「そうか、良かった。ここに食事があるんだけど、少しだけでも食べれるときに食べてね。水だけはきちんと飲んで。テーブルの上にあるから」
「……はい」
話が途切れ、一瞬の沈黙が落ちる。
「――ねえリオン、少しだけ話を聞いてもらってもいいかな?」
ふと声を低めてオースティンが言った。
「僕の二人の兄上たちがブルーメだったというのは知っている?」
その話ならついさっき、侍医のドニから聞いたところだった。はい、と頷く。
「そう。僕は昔から兄上たちのことを見ていたから、ブルーメの発情期というのが、どれほどに過酷で容赦なく残酷でそして辛いものか、よくわかっているつもりだ。きっと君もそう感じているだろう。だけどブルーメにとって、発情期は何よりも大切なものなんだよ」
「……え……?」
思わず声が出た。意味が分からなかった。
『過酷で残酷』だと言いながら、オースティンは同時に『何よりも大切なものだ』と言う。先ほどの侍医は『おめでとうございます』とも言った。
(……大切なもの? これが? 祝うべきもの?)
泣きながら自分の身体を自分で慰めて、そばにいる人を誰彼構わず性行為に誘ってしまうこの発情期が?
そんなふうに言えるのは、当事者じゃないからだ。自分がオメガではないから言えるのだ。
「そんなわけ……ない……」
「え、なんだって?」
よく聞き取れなかったのか、オースティンが聞き返す。今度こそリオンは顔を上げ、扉の向こうにいるオースティンに向かって叩きつけるように叫んだ。
「何がおめでとうだ! 何よりも大切なものだ! こんなの……こんなの! ただの淫売と同じじゃないか!」
「リオン……? 違うんだ、僕が言いたかったのは――」
扉の向こうでオースティンが何かを必死に言っている。リオン首を振ってオースティンの言葉を遮った。
「もう行って……! 僕に構わないで……!」
リオンは床にうずくまりながら、両手で両耳を覆った。
何も聞きたくなくなかった。
消えてしまいたい。
出来ることなら暗闇に溶けるようにして、自分という存在がなくなってしまえばいいのに。
リオンはつい数時間前まで、『今までとは違う自分になれた』と思っていた。自分には出来ることがあるかもしれないと、人並みの人間になれるかもしれないと小さな希望を持っていた。きっと変われると信じ始めていた。
(――だけどそんなの無理だ)
変われない。
自分はこのオメガという肉体を持つ限りは変わることはできない。
いくら変わりたいと願っても、結局は肉体に引き摺られ、心も理性も何もなくなる。
自分はずっとこうして生きるしかないのか。
疎ましく重い肉体を引き摺って生きていかなくてはならないのか――。
がたん、と窓の方から音がしたのはそのときだった。
リオンははっと身体を強張らせ、テラスへと続く大きな窓に目を向けた。
カーテンを開け放たれたままの窓からは、薄い月の光が差し込んでいた。
ふっとそこに影がよぎった。大きな影だ。
(何か……いる……?)
リオンは息を呑み、じっと窓越しの影に目を凝らした。
「え……?」
目を疑った。
青く冴え冴えと光る月の光を背後にして、闇の中に一匹の獣が佇んでいた。
灰色の毛は月の光に照らされ銀色にぼんやりと浮かび上がり、灰色の瞳だけが距離感を失ったように鮮やかに光っている。
あの美しい狼は……。
「クレイド……?」
目を開けると部屋の中はすでに暗く、窓の外も夜中のように静まり返っていた。
あれから何時間経ったのかわからないが、いつのまにか気絶するように眠ってしまったらしい。全身が気怠いが抑制剤が効いているようで、発情の熱はほとんど引いていた。
もう一度扉をたたく音とともに、小さな声が聞こえた。
「リオン、リオン、大丈夫かい?」
(オースティンの声だ……)
リオンは廊下へと続く扉へとぼんやり目を向けた。あの扉の向こうにオースティンがいる。おそらく護衛の兵たちも。そして今さらながらに気が付いた。
(鍵、かけてない……)
部屋の扉には小さな閂が付いていたはずだ。今まで掛けたことはなかったけど、今だけは誰にも部屋の中に入って欲しくない。
(閉めなくちゃ……)
リオンは重い身体を起こして寝台を下りた。よろめきながらも部屋の扉の前まで歩く。備え付けられた閂を下すとカタンと小さな音がして、扉の向こうでオースティンが「リオン!?」と声を上げた。
「そこにいるの、リオン?」
「……はい」
あまりに必死な呼びかけだったものだから、リオンは仕方なく返事をした。
「ああ、よかった……。いくら呼び掛けても返事がないから、中で倒れてたらどうしようと思っていたところだよ。ドニから、この国の抑制剤を飲んだと聞いたけど、具合はどうだい?」
「だいじょうぶ、です……」
リオンが出せたのはか細い声だったが、オースティンには聞き取れたようだ。
「そうか、良かった。ここに食事があるんだけど、少しだけでも食べれるときに食べてね。水だけはきちんと飲んで。テーブルの上にあるから」
「……はい」
話が途切れ、一瞬の沈黙が落ちる。
「――ねえリオン、少しだけ話を聞いてもらってもいいかな?」
ふと声を低めてオースティンが言った。
「僕の二人の兄上たちがブルーメだったというのは知っている?」
その話ならついさっき、侍医のドニから聞いたところだった。はい、と頷く。
「そう。僕は昔から兄上たちのことを見ていたから、ブルーメの発情期というのが、どれほどに過酷で容赦なく残酷でそして辛いものか、よくわかっているつもりだ。きっと君もそう感じているだろう。だけどブルーメにとって、発情期は何よりも大切なものなんだよ」
「……え……?」
思わず声が出た。意味が分からなかった。
『過酷で残酷』だと言いながら、オースティンは同時に『何よりも大切なものだ』と言う。先ほどの侍医は『おめでとうございます』とも言った。
(……大切なもの? これが? 祝うべきもの?)
泣きながら自分の身体を自分で慰めて、そばにいる人を誰彼構わず性行為に誘ってしまうこの発情期が?
そんなふうに言えるのは、当事者じゃないからだ。自分がオメガではないから言えるのだ。
「そんなわけ……ない……」
「え、なんだって?」
よく聞き取れなかったのか、オースティンが聞き返す。今度こそリオンは顔を上げ、扉の向こうにいるオースティンに向かって叩きつけるように叫んだ。
「何がおめでとうだ! 何よりも大切なものだ! こんなの……こんなの! ただの淫売と同じじゃないか!」
「リオン……? 違うんだ、僕が言いたかったのは――」
扉の向こうでオースティンが何かを必死に言っている。リオン首を振ってオースティンの言葉を遮った。
「もう行って……! 僕に構わないで……!」
リオンは床にうずくまりながら、両手で両耳を覆った。
何も聞きたくなくなかった。
消えてしまいたい。
出来ることなら暗闇に溶けるようにして、自分という存在がなくなってしまえばいいのに。
リオンはつい数時間前まで、『今までとは違う自分になれた』と思っていた。自分には出来ることがあるかもしれないと、人並みの人間になれるかもしれないと小さな希望を持っていた。きっと変われると信じ始めていた。
(――だけどそんなの無理だ)
変われない。
自分はこのオメガという肉体を持つ限りは変わることはできない。
いくら変わりたいと願っても、結局は肉体に引き摺られ、心も理性も何もなくなる。
自分はずっとこうして生きるしかないのか。
疎ましく重い肉体を引き摺って生きていかなくてはならないのか――。
がたん、と窓の方から音がしたのはそのときだった。
リオンははっと身体を強張らせ、テラスへと続く大きな窓に目を向けた。
カーテンを開け放たれたままの窓からは、薄い月の光が差し込んでいた。
ふっとそこに影がよぎった。大きな影だ。
(何か……いる……?)
リオンは息を呑み、じっと窓越しの影に目を凝らした。
「え……?」
目を疑った。
青く冴え冴えと光る月の光を背後にして、闇の中に一匹の獣が佇んでいた。
灰色の毛は月の光に照らされ銀色にぼんやりと浮かび上がり、灰色の瞳だけが距離感を失ったように鮮やかに光っている。
あの美しい狼は……。
「クレイド……?」
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