22 / 61
10.小さな芽生え
②
しおりを挟む
灰色の狼姿のクレイドは、器用に窓を開けて室内にするりと入ってくる。リオンは驚きのあまり身動きが出来なかった。
「こ……ここ、三階、なのに」
「二階のテラスから上がってきました」
「嘘でしょ?」
信じられなかった。いくら獣化した狼の姿だからと言っても、落ちたら死んでしまうかもしれないのに。
リオンはこちらに近づいてくるクレイドをただ茫然と見つめていたが、はっと我に返った。
(この格好……)
見下した自分の身体。上はシャツを着ているが、下半身には何も身に着けておらず、太ももには乾いた精液がこびりついている。
リオンは床の上に縮こまり、慌てて両手で自分の身体を掻き抱いた。
「見ないで……見ないで、お願い……」
ゆっくりとクレイドが近づいてくる気配がする。こんなにみっともない姿を見られてしまうと思うと、恐怖に近い羞恥が湧き上がってくる。
「お願い……今僕は汚れてるから……。こっちに来ないで……っ!」
叫んでもクレイドは歩みを止めてくれない。俯く視界の端にクレイドの前足のつま先が見えた。
どうしようもなく身を固くしていると、クレイドはリオンのすぐ前でぺたんと身を伏せた。
「あ……っ」
次の瞬間、リオンはその温かく柔らかな毛並みの中に包まれていた。背中側に回った二本の前足が、リオンを優しく引き寄せ抱擁する。
穏やかな体温にほっとするような匂い。
冷えて強張っていた心がじんわりと温められていく。限界まで張り詰めていたものが途端に溢れそうになって、慌ててそれをぐっと堰き止めた。
(――駄目だ。クレイドが汚れてしまう)
リオンはクレイドとの間に腕を入れ、身体を押し返した。
「リオン様――」
「どうして、来たの?」
突き放すつもりで口を開いたのに、実際にリオンの口から出た言葉は、自分でもわかるくらいにか細く震えていた。まるで迷子になって途方にくれた子どもみたいな声だった。
「あなたが心配だったからに決まってるでしょう」
「し、心配だなんて、してもらえるような人間じゃないよ、僕は」
「どうしてそんなふうに思うのですか?」
クレイドが小首を傾げるようにしてリオンの顔を覗き込んでくる。人間の姿のときとは違う、丸くつるんとした瞳が瞬きもせずにじっとこちらを見つめてくる。
「汚い……」
「え?」
「僕は汚いから」
クレイドが一瞬黙り、それから少し怒ったような声を出した。
「汚い? あなたが? 何を言っているのです?」
「クレイドこそ何言ってるの……? この姿を見てよ。それにさっきクレイドに最低なことをしたの、覚えてないの? クレイドは心配して優しくしてくれたのに、僕はみっともなく欲情して……っ」
クレイドに突き放された時に感じた胸の痛みと悲しみ、居たたまれなさが蘇ってきて、リオンは俯いた。
「僕は……発情すると見境がなくなる、いやらしくて最低なオメガなんだよ。クレイドだってさっき思ったでしょ? 気持ちが悪いって――」
「そんなことない!」
ほとんど叫ぶような勢いでクレイドが言った。ぐっと抱きしめる力も強まり、引き寄せられる。
「なぜそんなことを思うんです? あなたは汚くもみっともなくない! そんなわけないでしょう! こんなに綺麗なのに……」
「えっ?」
突然クレイドの口から飛び出した『綺麗』という言葉に、リオンは驚いて声を上げた。
(綺麗……? クレイドって今、綺麗って言った?)
訳がわからずに混乱していると、クレイドは低い声で唸るように言った。
「……あなたを……初めて見たときから思っていましたよ。なんて綺麗な人なのだろうと」
『綺麗な人』などと言われて、リオンは自分でも驚くほどに動揺した。
「あ、う、嘘だ。そんなデタラメなこと言っても僕は騙されないよ」
「嘘じゃない」
クレイドはいら立ったように言うと、急にぐっとこちらに体重をかけてきた。驚いてる間にもリオンは後ろ向きに倒され、気が付くと大きな狼姿のクレイドが身体の上に伸しかかっていた。
「え……クレイド……?」
戸惑い狼狽えるリオンを、上に跨ったクレイドはじっと見下してくる。その突き刺さるような強い視線に、リオンは思わずごくりと唾をのみ込んだ。
クレイドの視線が頬を滑り、首筋を辿り、くしゃくしゃになったシャツのずっと下、太もものあたりに向けられる。
リオンははっとして、シャツの裾を引っ張った。情けなさに涙が出そうだった。
見ないでと言っているのに、こんなふうに虐めるみたいにじろじろと見なくてもいいじゃないか――。
顔を背けて目をぎゅっと閉じたそのとき。
「……っ!?」
突然左の頬に濡れた感触が走った。
驚いて目を見開く。すぐ鼻先にはクレイドの狼の顔があった。
(何、今の……?)
疑問と口に出す暇もなく、おもむろに顔を近づけてきた狼が、リオンの左の頬をべろりと舐め上げる。予想もしなかった行動にリオンはひっと悲鳴をあげた。
「え……な、何……? な、な、舐めた?」
「はい、舐めました」
「なんで……?」
「あなたは汚くない。だから舐めました」
「えっ?」
慌て狼狽えるリオンとは反対に、クレイドの声は落ち着き払っていた。だけど目だけがぎらぎらと光っている。まるでそれが獲物を押さえつけた肉食動物みたいで、リオンは磔にされたように身動きできなかった。
心臓がせわしない鼓動を始め、動揺と羞恥でかあっと身体が熱くなってくる。
クレイドがまた鼻先を近づけてきた。
固まって動けないリオンの頬を、もう一度クレイドがべろりと舐める。左頬、右頬、顎、そして首筋。
シャツから出る鎖骨までもを容赦なく大きな舌で舐め上げてくる。
「あっ……んっ……やっ、……っ、やめて……っ」
エスカレートしていくクレイドから逃れたくて身を捩ろうとしたが、自分よりも二回り以上の大きな身体に伸しかかられては動けない。
「――降参しますか?」
「……っ、こ、うさん? ……ぁっ」
クレイドのざらざらとした獣の舌で舐められると、むずがゆくて仕方ない。しまいには下半身が反応しそうになって、リオンは慌ててストップを掛けた。
「降参、するっ……するから……! 舐め、ないで……!」
息も絶え絶えに言うと、ようやくクレイドは身体を離した。ふう、ふう、と必死に苦しい息を落ち着けようとしているリオンを、ただじっと上から見つめてくる。そして深く長いため息をついた。酷く疲れたようなため息だった。
「ご自分が汚くないと、ようやくご理解していただきましたか?」
「…………」
(なんかこの言葉、前も言われたような……)
思い出した。この国に来る途中で賊に襲われたときのことだ。
あのときはリオンが『自分は疫病神だ』と言ったらクレイドが『違う』と言い出して……。記憶を辿っているうちに身体から力が抜けた。
真面目なのにときどき無茶苦茶な理屈になるクレイドに、心の底から呆れてため息がでそうだ。
何をやっているのだろう。本当に意味が分からない。
「……ずるいよ。やり方が卑怯だ」
「そんなことはありません。わかっていただけるように行動で示しただけです」
「何それ……」
ふっと笑いが自分の口から漏れ出て、いつのまにか強張っていた心が緩んでいたことに気が付いた。なんだか頭の中に掛かっていた黒い靄が晴れたような気分だ。
リオンは笑いたいような泣きたいような気持ちでクレイドの顔を見あげた。
「――ねえ、クレイド」
「はい、なんでしょう」
「僕は……汚くないの?」
リオンはじっとクレイドの灰色の瞳を覗き込みながら聞いた。つるんとした丸い眦には泣きそうな自分の顔が映っている。クレイドは頷いた。
「ええ、もちろんです」
「本当に……?」
「あなたは綺麗ですよ」
クレイドの言葉を聞いた瞬間、心に重くのしかかっていたものがふっと消えた気がした。
自分は汚い存在だと、リオンはずっと思っていた。だけど本当は違うと思いたかった。
――ずっと、誰かに「そうじゃない」と否定して欲しかった。
クレイドの声が穏やかに続ける。
「あなたは汚くなんてない。みっともなくないし穢れてもいない。だってこんなにも綺麗なのだから」
リオンは詰めていた息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。
身体の奥底で凍り付いていたものが、じわじわと温められ溶けていく。そしてそこから出てきたのは小さな小さな芽だった。温かな光の中でするすると伸びた双葉の先でつぼみが生まれ、小さな花がぱらりと開く。
そんなものが見えた気がした。
「ありがとう、クレイド」
目を開けると、穏やかにクレイドは微笑んでいた。狼の姿でもなぜかそれがはっきりとわかる。
リオンはクレイドの顔に向かって両手を伸ばした。ふわふわとした毛並みをなでると、クレイドは目を細める。
(ああ、僕はクレイドのことが――)
言葉にならない思いが込み上げてきたとき、急にクレイドがぐらりと身体を揺らした。
「あっ、……えっ?」
ふっと短く息を吐いたクレイドが、そのままリオンの身体の上に伸し掛かってくる。まともに体重をかけられ、ぐえっと変な声が出た。
重い。重すぎる。リオンは慌ててクレイドの身体を叩いた。
「クレイドっ、クレイド、重いよ」
「……すみません。力が入らない……」
「えっ」
このまま押しつぶされてしまうと一瞬怖くなったが、クレイドが最後の力を振り絞るように体を起こし、リオンはその隙にクレイドの下から這い出した。
はあと安堵の息をつき、力なく横たわるクレイドの顔を覗きこむ。
「大丈夫?」
「……ええ。獣化した影響でしょう。いつものことですので」
クレイドはそう言って薄く笑ったが、呼吸が苦しそうだ。身体も熱くなってきている。熱が出ているのだろうか。
「クレイド……」
苦しそうな姿に罪悪感が込み上げてきた。
クレイドは以前、戦闘のときでもめったに獣化しないと言っていた。本当に必要に迫られてどうしようもなくなったときだけだと。
それなのに……クレイドは獣化してまで自分を助けに来てくれた。
「どうしてそこまでしてくれるの……?」
「え?」
薄く目を開けてクレイドがこちらを見る。
「クレイドはどうしてそこまでして、僕を助けてくれるの?」
それはクレイドと出会った時から、ずっと疑問に思っていたことだった。
どうしてこんなにクレイドは優しいのだろう。
どうしてここまで、心を砕いて自分に接してくれるのだろう。
ただの親切にしては献身的すぎて、申し訳なくなるのと同時に嬉しくて、たまに心がぎゅっと痛くなる。
「どうしてかと聞かれると……」
クレイドが眠そうな声で答えた。
「そうですね……。あなたが私に似ているからかもしれない……」
「えっ?」
(似ている? この立派な人が? みんなに慕われて尊敬される騎士が?)
「それってどういう――」
その意味を問いかけようとしたが、クレイドはすでに瞼を閉じていた。寝てしまったようだ。
勢い込んで吸った空気が、落胆のため息に変わって「はぁ」と口から漏れる。
(さっきの今の言葉の意味を聞きたかったけど……)
また明日にでも聞くことにしようと思い直しながら、リオンはクレイドの顔を眺めた。
浅い呼吸を繰り返す口はわずかに開いていて、ときおりヒゲがぴくりと揺れる。苦しそうなクレイドを見ていると居てもたってもいられず、リオンは彼の鼻の頭にそっとキスを落とした。
「クレイド、ごめんね……。でもありがとう……」
それからリオンはクレイドの横に座り、いつまでもその滑らかな毛並みを撫で続けた。
「こ……ここ、三階、なのに」
「二階のテラスから上がってきました」
「嘘でしょ?」
信じられなかった。いくら獣化した狼の姿だからと言っても、落ちたら死んでしまうかもしれないのに。
リオンはこちらに近づいてくるクレイドをただ茫然と見つめていたが、はっと我に返った。
(この格好……)
見下した自分の身体。上はシャツを着ているが、下半身には何も身に着けておらず、太ももには乾いた精液がこびりついている。
リオンは床の上に縮こまり、慌てて両手で自分の身体を掻き抱いた。
「見ないで……見ないで、お願い……」
ゆっくりとクレイドが近づいてくる気配がする。こんなにみっともない姿を見られてしまうと思うと、恐怖に近い羞恥が湧き上がってくる。
「お願い……今僕は汚れてるから……。こっちに来ないで……っ!」
叫んでもクレイドは歩みを止めてくれない。俯く視界の端にクレイドの前足のつま先が見えた。
どうしようもなく身を固くしていると、クレイドはリオンのすぐ前でぺたんと身を伏せた。
「あ……っ」
次の瞬間、リオンはその温かく柔らかな毛並みの中に包まれていた。背中側に回った二本の前足が、リオンを優しく引き寄せ抱擁する。
穏やかな体温にほっとするような匂い。
冷えて強張っていた心がじんわりと温められていく。限界まで張り詰めていたものが途端に溢れそうになって、慌ててそれをぐっと堰き止めた。
(――駄目だ。クレイドが汚れてしまう)
リオンはクレイドとの間に腕を入れ、身体を押し返した。
「リオン様――」
「どうして、来たの?」
突き放すつもりで口を開いたのに、実際にリオンの口から出た言葉は、自分でもわかるくらいにか細く震えていた。まるで迷子になって途方にくれた子どもみたいな声だった。
「あなたが心配だったからに決まってるでしょう」
「し、心配だなんて、してもらえるような人間じゃないよ、僕は」
「どうしてそんなふうに思うのですか?」
クレイドが小首を傾げるようにしてリオンの顔を覗き込んでくる。人間の姿のときとは違う、丸くつるんとした瞳が瞬きもせずにじっとこちらを見つめてくる。
「汚い……」
「え?」
「僕は汚いから」
クレイドが一瞬黙り、それから少し怒ったような声を出した。
「汚い? あなたが? 何を言っているのです?」
「クレイドこそ何言ってるの……? この姿を見てよ。それにさっきクレイドに最低なことをしたの、覚えてないの? クレイドは心配して優しくしてくれたのに、僕はみっともなく欲情して……っ」
クレイドに突き放された時に感じた胸の痛みと悲しみ、居たたまれなさが蘇ってきて、リオンは俯いた。
「僕は……発情すると見境がなくなる、いやらしくて最低なオメガなんだよ。クレイドだってさっき思ったでしょ? 気持ちが悪いって――」
「そんなことない!」
ほとんど叫ぶような勢いでクレイドが言った。ぐっと抱きしめる力も強まり、引き寄せられる。
「なぜそんなことを思うんです? あなたは汚くもみっともなくない! そんなわけないでしょう! こんなに綺麗なのに……」
「えっ?」
突然クレイドの口から飛び出した『綺麗』という言葉に、リオンは驚いて声を上げた。
(綺麗……? クレイドって今、綺麗って言った?)
訳がわからずに混乱していると、クレイドは低い声で唸るように言った。
「……あなたを……初めて見たときから思っていましたよ。なんて綺麗な人なのだろうと」
『綺麗な人』などと言われて、リオンは自分でも驚くほどに動揺した。
「あ、う、嘘だ。そんなデタラメなこと言っても僕は騙されないよ」
「嘘じゃない」
クレイドはいら立ったように言うと、急にぐっとこちらに体重をかけてきた。驚いてる間にもリオンは後ろ向きに倒され、気が付くと大きな狼姿のクレイドが身体の上に伸しかかっていた。
「え……クレイド……?」
戸惑い狼狽えるリオンを、上に跨ったクレイドはじっと見下してくる。その突き刺さるような強い視線に、リオンは思わずごくりと唾をのみ込んだ。
クレイドの視線が頬を滑り、首筋を辿り、くしゃくしゃになったシャツのずっと下、太もものあたりに向けられる。
リオンははっとして、シャツの裾を引っ張った。情けなさに涙が出そうだった。
見ないでと言っているのに、こんなふうに虐めるみたいにじろじろと見なくてもいいじゃないか――。
顔を背けて目をぎゅっと閉じたそのとき。
「……っ!?」
突然左の頬に濡れた感触が走った。
驚いて目を見開く。すぐ鼻先にはクレイドの狼の顔があった。
(何、今の……?)
疑問と口に出す暇もなく、おもむろに顔を近づけてきた狼が、リオンの左の頬をべろりと舐め上げる。予想もしなかった行動にリオンはひっと悲鳴をあげた。
「え……な、何……? な、な、舐めた?」
「はい、舐めました」
「なんで……?」
「あなたは汚くない。だから舐めました」
「えっ?」
慌て狼狽えるリオンとは反対に、クレイドの声は落ち着き払っていた。だけど目だけがぎらぎらと光っている。まるでそれが獲物を押さえつけた肉食動物みたいで、リオンは磔にされたように身動きできなかった。
心臓がせわしない鼓動を始め、動揺と羞恥でかあっと身体が熱くなってくる。
クレイドがまた鼻先を近づけてきた。
固まって動けないリオンの頬を、もう一度クレイドがべろりと舐める。左頬、右頬、顎、そして首筋。
シャツから出る鎖骨までもを容赦なく大きな舌で舐め上げてくる。
「あっ……んっ……やっ、……っ、やめて……っ」
エスカレートしていくクレイドから逃れたくて身を捩ろうとしたが、自分よりも二回り以上の大きな身体に伸しかかられては動けない。
「――降参しますか?」
「……っ、こ、うさん? ……ぁっ」
クレイドのざらざらとした獣の舌で舐められると、むずがゆくて仕方ない。しまいには下半身が反応しそうになって、リオンは慌ててストップを掛けた。
「降参、するっ……するから……! 舐め、ないで……!」
息も絶え絶えに言うと、ようやくクレイドは身体を離した。ふう、ふう、と必死に苦しい息を落ち着けようとしているリオンを、ただじっと上から見つめてくる。そして深く長いため息をついた。酷く疲れたようなため息だった。
「ご自分が汚くないと、ようやくご理解していただきましたか?」
「…………」
(なんかこの言葉、前も言われたような……)
思い出した。この国に来る途中で賊に襲われたときのことだ。
あのときはリオンが『自分は疫病神だ』と言ったらクレイドが『違う』と言い出して……。記憶を辿っているうちに身体から力が抜けた。
真面目なのにときどき無茶苦茶な理屈になるクレイドに、心の底から呆れてため息がでそうだ。
何をやっているのだろう。本当に意味が分からない。
「……ずるいよ。やり方が卑怯だ」
「そんなことはありません。わかっていただけるように行動で示しただけです」
「何それ……」
ふっと笑いが自分の口から漏れ出て、いつのまにか強張っていた心が緩んでいたことに気が付いた。なんだか頭の中に掛かっていた黒い靄が晴れたような気分だ。
リオンは笑いたいような泣きたいような気持ちでクレイドの顔を見あげた。
「――ねえ、クレイド」
「はい、なんでしょう」
「僕は……汚くないの?」
リオンはじっとクレイドの灰色の瞳を覗き込みながら聞いた。つるんとした丸い眦には泣きそうな自分の顔が映っている。クレイドは頷いた。
「ええ、もちろんです」
「本当に……?」
「あなたは綺麗ですよ」
クレイドの言葉を聞いた瞬間、心に重くのしかかっていたものがふっと消えた気がした。
自分は汚い存在だと、リオンはずっと思っていた。だけど本当は違うと思いたかった。
――ずっと、誰かに「そうじゃない」と否定して欲しかった。
クレイドの声が穏やかに続ける。
「あなたは汚くなんてない。みっともなくないし穢れてもいない。だってこんなにも綺麗なのだから」
リオンは詰めていた息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。
身体の奥底で凍り付いていたものが、じわじわと温められ溶けていく。そしてそこから出てきたのは小さな小さな芽だった。温かな光の中でするすると伸びた双葉の先でつぼみが生まれ、小さな花がぱらりと開く。
そんなものが見えた気がした。
「ありがとう、クレイド」
目を開けると、穏やかにクレイドは微笑んでいた。狼の姿でもなぜかそれがはっきりとわかる。
リオンはクレイドの顔に向かって両手を伸ばした。ふわふわとした毛並みをなでると、クレイドは目を細める。
(ああ、僕はクレイドのことが――)
言葉にならない思いが込み上げてきたとき、急にクレイドがぐらりと身体を揺らした。
「あっ、……えっ?」
ふっと短く息を吐いたクレイドが、そのままリオンの身体の上に伸し掛かってくる。まともに体重をかけられ、ぐえっと変な声が出た。
重い。重すぎる。リオンは慌ててクレイドの身体を叩いた。
「クレイドっ、クレイド、重いよ」
「……すみません。力が入らない……」
「えっ」
このまま押しつぶされてしまうと一瞬怖くなったが、クレイドが最後の力を振り絞るように体を起こし、リオンはその隙にクレイドの下から這い出した。
はあと安堵の息をつき、力なく横たわるクレイドの顔を覗きこむ。
「大丈夫?」
「……ええ。獣化した影響でしょう。いつものことですので」
クレイドはそう言って薄く笑ったが、呼吸が苦しそうだ。身体も熱くなってきている。熱が出ているのだろうか。
「クレイド……」
苦しそうな姿に罪悪感が込み上げてきた。
クレイドは以前、戦闘のときでもめったに獣化しないと言っていた。本当に必要に迫られてどうしようもなくなったときだけだと。
それなのに……クレイドは獣化してまで自分を助けに来てくれた。
「どうしてそこまでしてくれるの……?」
「え?」
薄く目を開けてクレイドがこちらを見る。
「クレイドはどうしてそこまでして、僕を助けてくれるの?」
それはクレイドと出会った時から、ずっと疑問に思っていたことだった。
どうしてこんなにクレイドは優しいのだろう。
どうしてここまで、心を砕いて自分に接してくれるのだろう。
ただの親切にしては献身的すぎて、申し訳なくなるのと同時に嬉しくて、たまに心がぎゅっと痛くなる。
「どうしてかと聞かれると……」
クレイドが眠そうな声で答えた。
「そうですね……。あなたが私に似ているからかもしれない……」
「えっ?」
(似ている? この立派な人が? みんなに慕われて尊敬される騎士が?)
「それってどういう――」
その意味を問いかけようとしたが、クレイドはすでに瞼を閉じていた。寝てしまったようだ。
勢い込んで吸った空気が、落胆のため息に変わって「はぁ」と口から漏れる。
(さっきの今の言葉の意味を聞きたかったけど……)
また明日にでも聞くことにしようと思い直しながら、リオンはクレイドの顔を眺めた。
浅い呼吸を繰り返す口はわずかに開いていて、ときおりヒゲがぴくりと揺れる。苦しそうなクレイドを見ていると居てもたってもいられず、リオンは彼の鼻の頭にそっとキスを落とした。
「クレイド、ごめんね……。でもありがとう……」
それからリオンはクレイドの横に座り、いつまでもその滑らかな毛並みを撫で続けた。
54
あなたにおすすめの小説
恋は終わると愛になる ~富豪オレ様アルファは素直無欲なオメガに惹かれ、恋をし、愛を知る~
大波小波
BL
神森 哲哉(かみもり てつや)は、整った顔立ちと筋肉質の体格に恵まれたアルファ青年だ。
富豪の家に生まれたが、事故で両親をいっぺんに亡くしてしまう。
遺産目当てに群がってきた親類たちに嫌気がさした哲哉は、人間不信に陥った。
ある日、哲哉は人身売買の闇サイトから、18歳のオメガ少年・白石 玲衣(しらいし れい)を買う。
玲衣は、小柄な体に細い手足。幼さの残る可憐な面立ちに、白い肌を持つ美しい少年だ。
だが彼は、ギャンブルで作った借金返済のため、実の父に売りに出された不幸な子でもあった。
描画のモデルにし、気が向けばベッドを共にする。
そんな新しい玩具のつもりで玲衣を買った、哲哉。
しかし彼は美的センスに優れており、これまでの少年たちとは違う魅力を発揮する。
この小さな少年に対して、哲哉は好意を抱き始めた。
玲衣もまた、自分を大切に扱ってくれる哲哉に、心を開いていく。
獣人王と番の寵妃
沖田弥子
BL
オメガの天は舞手として、獣人王の後宮に参内する。だがそれは妃になるためではなく、幼い頃に翡翠の欠片を授けてくれた獣人を捜すためだった。宴で粗相をした天を、エドと名乗るアルファの獣人が庇ってくれた。彼に不埒な真似をされて戸惑うが、後日川辺でふたりは再会を果たす。以来、王以外の獣人と会うことは罪と知りながらも逢瀬を重ねる。エドに灯籠流しの夜に会おうと告げられ、それを最後にしようと決めるが、逢引きが告発されてしまう。天は懲罰として刑務庭送りになり――
アルファ王子に嫌われるための十の方法
小池 月
BL
攻め:アローラ国王太子アルファ「カロール」
受け:田舎伯爵家次男オメガ「リン・ジャルル」
アローラ国の田舎伯爵家次男リン・ジャルルは二十歳の男性オメガ。リンは幼馴染の恋人セレスがいる。セレスは隣領地の田舎子爵家次男で男性オメガ。恋人と言ってもオメガ同士でありデートするだけのプラトニックな関係。それでも互いに大切に思える関係であり、将来は二人で結婚するつもりでいた。
田舎だけれど何不自由なく幸せな生活を送っていたリンだが、突然、アローラ国王太子からの求婚状が届く。貴族の立場上、リンから断ることが出来ずに顔も知らないアルファ王子に嫁がなくてはならなくなる。リンは『アルファ王子に嫌われて王子側から婚約解消してもらえば、伯爵家に出戻ってセレスと幸せな結婚ができる!』と考え、セレスと共にアルファに嫌われるための作戦を必死で練り上げる。
セレスと涙の別れをし、王城で「アルファ王子に嫌われる作戦」を実行すべく奮闘するリンだがーー。
王太子α×伯爵家ΩのオメガバースBL
☆すれ違い・両想い・権力争いからの冤罪・絶望と愛・オメガの友情を描いたファンタジーBL☆
性描写の入る話には※をつけます。
11月23日に完結いたしました!!
完結後のショート「セレスの結婚式」を載せていきたいと思っております。また、その後のお話として「番となる」と「リンが妃殿下になる」ストーリーを考えています。ぜひぜひ気長にお待ちいただけると嬉しいです!
回帰したシリルの見る夢は
riiko
BL
公爵令息シリルは幼い頃より王太子の婚約者として、彼と番になる未来を夢見てきた。
しかし王太子は婚約者の自分には冷たい。どうやら彼には恋人がいるのだと知った日、物語は動き出した。
嫉妬に狂い断罪されたシリルは、何故だかきっかけの日に回帰した。そして回帰前には見えなかったことが少しずつ見えてきて、本当に望む夢が何かを徐々に思い出す。
執着をやめた途端、執着される側になったオメガが、次こそ間違えないようにと、可愛くも真面目に奮闘する物語!
執着アルファ×回帰オメガ
本編では明かされなかった、回帰前の出来事は外伝に掲載しております。
性描写が入るシーンは
※マークをタイトルにつけます。
物語お楽しみいただけたら幸いです。
***
2022.12.26「第10回BL小説大賞」で奨励賞をいただきました!
応援してくれた皆様のお陰です。
ご投票いただけた方、お読みくださった方、本当にありがとうございました!!
☆☆☆
2024.3.13 書籍発売&レンタル開始いたしました!!!!
応援してくださった読者さまのお陰でございます。本当にありがとうございます。書籍化にあたり連載時よりも読みやすく書き直しました。お楽しみいただけたら幸いです。
愛しているかもしれない 傷心富豪アルファ×ずぶ濡れ家出オメガ ~君の心に降る雨も、いつかは必ず上がる~
大波小波
BL
第二性がアルファの平 雅貴(たいら まさき)は、30代の若さで名門・平家の当主だ。
ある日、車で移動中に、雨の中ずぶ濡れでうずくまっている少年を拾う。
白沢 藍(しらさわ あい)と名乗るオメガの少年は、やつれてみすぼらしい。
雅貴は藍を屋敷に招き、健康を取り戻すまで滞在するよう勧める。
藍は雅貴をミステリアスと感じ、雅貴は藍を訳ありと思う。
心に深い傷を負った雅貴と、悲惨な身の上の藍。
少しずつ距離を縮めていく、二人の生活が始まる……。
大好きな婚約者を僕から自由にしてあげようと思った
こたま
BL
オメガの岡山智晴(ちはる)には婚約者がいる。祖父が友人同士であるアルファの香川大輝(だいき)だ。格好良くて優しい大輝には祖父同士が勝手に決めた相手より、自らで選んだ人と幸せになって欲しい。自分との婚約から解放して自由にしてあげようと思ったのだが…。ハッピーエンドオメガバースBLです。
沈黙のΩ、冷血宰相に拾われて溺愛されました
ホワイトヴァイス
BL
声を奪われ、競売にかけられたΩ《オメガ》――ノア。
落札したのは、冷血と呼ばれる宰相アルマン・ヴァルナティス。
“番契約”を偽装した取引から始まったふたりの関係は、
やがて国を揺るがす“真実”へとつながっていく。
喋れぬΩと、血を信じない宰相。
ただの契約だったはずの絆が、
互いの傷と孤独を少しずつ融かしていく。
だが、王都の夜に潜む副宰相ルシアンの影が、
彼らの「嘘」を暴こうとしていた――。
沈黙が祈りに変わるとき、
血の支配が終わりを告げ、
“番”の意味が書き換えられる。
冷血宰相×沈黙のΩ、
偽りの契約から始まる救済と革命の物語。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる