【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第18話・“逃がさない”という意志

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(……どうしよう)

会場内の喧騒が一瞬で遠のいたような感覚。
目の前に現れたのは――部長、東條崇雅。

黒いスーツに、張り詰めた気配。
まっすぐに澪を見つめる視線には、普段絶対に見せない何かが確かにあった。

人混みを縫って、崇雅は澪と早瀬の元へと迷いなく歩み寄る。

「……結城。ここにいるという話は聞いていないが」

低く静かな声。
その言葉に、澪は反射的に背筋を伸ばした。

(報告……してなかった、でも)

言い訳が頭を巡るのに、口からは何も出てこない。
澪が口ごもるのを見て、隣にいた早瀬が一歩前に出た。

「私が誘ったんです。結城さんの担当案件も展示されていますし、実際に見ていただくことで今後の提案にも活かせると思いまして。
もちろん、私的な誘いではなく“仕事の一環”として」

丁寧で落ち着いた口調。
でもその言葉が、崇雅の表情を明らかに揺らがせた。

(……部長)

一瞬、澪の胸がぎゅっと縮まる。

崇雅のまなざしが早瀬を射抜くように向いたのち、再び澪に戻る。

「C社の展示は、もう見終わったのか?」

唐突な問いに、澪はわずかにうなずいた。

「……はい。今は、業務に関係しそうな他のブースを見て回っていました」

「そうか」

静かに言って、崇雅は早瀬に目を向けた。

「結城は、この後こちらで同伴して展示を回ります。ご案内、ありがとうございました」

一方的だった。

早瀬が返事をする間もなく、
崇雅は澪の手首をそっと掴んだ。
力は決して強くない。
でも、“逃さない”という意志が確かに込められていた。

「……!」

驚いて顔を上げる澪の身体が、自然と崇雅の方へ引き寄せられる。

周囲の人波にまぎれていく中、
ただ、心臓の鼓動だけが速くなっていくのを感じていた。

(……どうして、そんなに強引に)

けれど、手首に伝わる体温は、
どこまでも真剣で――切実で――

理由を問う言葉は、どこにも見つからなかった。


崇雅に手首を掴まれたまま、人混みを抜けて歩く。
ついて行かざるを得ないその速度と、繋がれた手首の熱が心拍数を上げる。

その先にいたのは、スーツ姿の男性たち。
社内でも要職に就く重役たちの顔ぶれだった。

(……嘘、なんでここに連れて――)

「東條くん?」

驚いた様子の役員の一人が声をかけてくる。
視線は当然のように、崇雅の隣にいる澪に注がれた。

「ご紹介します。私の部下、結城澪です。
現在、C社との主力案件を担当しています」

その口調はいつも通り冷静だった。
“部下”――
そう紹介された瞬間、澪の胸にほっとする気持ちと、釈然としないざらつきが同時に広がった。

(……そうだよね。私はただの部下)

でも、ついさっきまでのあの行動――
何も言わせず手を引いた、その力はどう見ても“部下”へのものとは思えなくて。

「結城さん……君か。早瀬さんがずいぶん評価していたな。たしか“今後も彼女に任せたい”と名指しで言っていた」

「そうそう。うちの社長も耳にしてた。C社に信頼されてるようで何よりだ」

「東條くんも良い部下を持ってるじゃないか」

役員たちの軽い賞賛に、崇雅は何も返さなかった。
ただ、表情を変えずに澪の隣に立ち続けていた。

(……なんで。何も言わないのに、こんなに強くて)

繋がれた手首は、まだ温かいままだった。


崇雅は役員たちと簡単に会話を交わしたあと、何事もなかったように言った。

「次の展示ブースを確認しましょう。C社関連の提携先も出展しているはずです」

「そうだな、時間も限られているし、回れるだけ回っておこうか」

役員たちが動き出すのを見て、崇雅も自然に歩き出す。
その隣で、澪は一歩遅れて付いていくしかなかった。

――まだ、手首を掴まれたまま。

歩きながらも、その感覚が気になって仕方がない。

(……いつまで、このまま)


少しして、澪は小さく声をかけた。

「あの、部長……」

その言葉に、崇雅がわずかに立ち止まり、視線を落とす。
それから、ようやく――

「ああ……すまなかった」

短く言って、ようやく澪の手首を離した。

ぱっと距離ができたその瞬間、
澪の心のどこかが、ふわりと揺れた。

(……ずっとこのままだったらどうしようって、思ってた)

掴まれていた手首には、ほんのりと熱が残っていた。

それが“何だったのか”を考えるには、今はまだ――。
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