【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第19話・守ってくれるのに、苦しいのはなぜ

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展示会から1週間後ー。

C社の案件は一段落した。
重たい仕事は崇雅が他へ割り振ってくれて、以前よりは確かに動きやすい。
初動の混乱も落ち着いた。
崩れるような負荷は、もう――ないはずだった。

(……なのに)

気持ちだけが、ずっと晴れない。

ありがたいはずなのに。
守られているのは分かってるのに。
どうしてこんなに、息苦しいんだろう。

(なんであの人は、何も言わないの?)
(どうして――あんなに近くにいるのに、遠いの?)

手首を掴まれたあの日。
一緒に役員の前に立たされたとき。
崇雅は「部下」として私を紹介した。
それは正しい。正しいけれど――

(ただの部下に、あんなことはしないと思う)

期待なんてしていない。
でも、してないふりをしてる自分がいる。

そのくせ、何も言われないからと胸の奥がちくりと痛む。
そんな自分が、いちばん厄介だった。


日は完全に落ち、社内はすっかり静かだった。
残業組の気配も、気づけばほとんどなくなっている。
時計を見れば、もう21時を回っていた。

資料の再確認を頼まれたB社案件――重要な文書が紙でしか残っておらず、
過去のファイリングを探すために、私は一人で資料室へと向かった。

無人のフロア。
廊下の照明は半分ほどが落とされ、
自動扉の開閉音すら、いつもより重たく聞こえる。

資料室のドアを開けると、冷たい空気が頬に触れた。

(……あと少しだけ。終わらせれば、帰れる)

自分にそう言い聞かせながら、棚の番号をたどる。
でも、思ったより冊数が多くて、どれも似たようなラベルばかり。

一冊、また一冊と手に取っては戻すうちに――
ふと、手が止まった。

(……これ、でよかったんだっけ)

頭がぼんやりして、確認の手順を思い出せなくなっていた。
呼吸が浅くなるのを感じて、慌てて深呼吸を試みる。
だけど、胸の奥がきゅっと締めつけられたように、息がうまく入ってこない。

視界がぐらりと揺れて、しゃがみ込んだ。

(……どうして、こんなことで……)

手をぎゅっと握る。
震える指先が冷たくて、肩も小刻みに震え始める。

泣くつもりなんてなかった。
でも、気づいたら、涙が一粒、頬を伝っていた。

止めなきゃ。
誰かに見られたら、迷惑をかけてしまう。
そう思うのに、体は言うことを聞いてくれない。

――そのとき。

「……結城」

低く、よく知っている声が背後から聞こえた。

振り返る余裕もない。
ただ、涙が止まらないまま、膝を抱えたまま、私は、そこにいた。

足音が近づく。
そして次の瞬間、すぐそばにしゃがんだ気配があった。

「……そんなに我慢しなくていい」

その一言で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。

私は顔を上げることもできず、
ただ、小さくしゃくり上げながら、静かに泣いた。

崇雅は何も言わなかった。
責めも、説教もなく、
ただそっと、背中に手を添えてくれていた。

冷たいはずの資料室が、少しだけあたたかくなった気がした。


翌朝。
鏡の前で、澪はそっと自分の目元を確認する。

泣き腫らした形跡は、なんとかごまかせたと思う。
アイロンをかけたシャツの襟元を整えて、いつも通りに出社する。

(……平気、なはず)

今日も、いつものように忙しい一日が始まる。

なのに、
資料に目を通していても、会議の予定を確認していても、
ふとした拍子に、昨日のことが頭をよぎった。

――資料室の静けさ。
――崩れ落ちる自分。
――背中に触れた、あの人の手。

(どうして……あのとき、あんなに安心したんだろう)

誰にも言えないような涙を、
誰にも見せたくなかった弱さを――
あの人だけに、見られてしまった。

それなのに。
怖くなかった。
恥ずかしいのに、逃げ出したくなるほど情けなかったのに。

(あのときだけは、苦しくなかった)

崇雅は、あいかわらず何も言わない。
資料の修正を渡されても、いつも通りの口調。
挨拶も、業務連絡も、これまでと何も変わらない。

でも。

(……やっぱり“あの人はちゃんと私を見てる”って、思ってしまった)

勝手な思い込みかもしれない。
直属の部下だから?
C社案件の担当者だから?
他の誰でもよかったはず――

なのに、
手首を掴まれたのも、背中に添えられた手も、
他の誰かじゃダメだった。

(私、あの人の言葉がほしいって、思ってる)

気づいてしまった。
気づきたくなかった。

ただの“上司と部下”のままなら、
こんなふうに揺れたり、苦しくなったりしなかったのに。


仕事を終えて帰路についた電車の窓に、映る自分の顔。
それは“いつも通り”を演じる、ほんの少しだけ違う私だった。
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