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第24話・恋人と呼ぶには、まだ遠い
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その日、定時少し前。
社内チャットに、短い通知が届いた。
>『今夜、少し時間をもらえるか』
>――東條崇雅
業務連絡ではなく、私だけに届くメッセージ。
画面越しに名前を見るだけで、胸の奥が少し熱くなる。
>『大丈夫です』
指が自然に動いていた。
ほんのひと言のやりとりなのに、それだけで何かが通じ合っている気がしてしまう。
終業後ー。
「この店……前から気になってたんですけど、なかなか予約取れなくて」
「早めに押さえた。静かな場所の方がいいと思って」
そう言って崇雅さんが連れてきてくれたのは、駅から少し歩いたところにある隠れ家風のイタリアン。
内装も照明も落ち着いていて、店内のざわめきすら心地いい。
(やっぱり、部長って……こういうところ、本当にさりげない)
席に着き、ワインリストを差し出される。
私はすぐに視線を上げた。
「今日は車じゃないんですね?」
「今日は飲むと決めていたから、電車できた」
それだけ。
でも、そのひと言だけで――今日という時間を、ちゃんと“ふたりのもの”にしてくれたのだとわかる。
「じゃあ、乾杯しますか」
グラスが軽く鳴った。
澄んだ音が静かな空間に響いて、それだけで胸の奥があたたかくなる。
「展示会のあと、あの案件の反応、良かったんですよね。
営業の水野さんも言ってました。C社も他社からかなり好評を得ているって」
「お前が頑張ってたのを、ちゃんと見てる人間はいるってことだ」
「……“お前”って、ほんと変わらないですね」
思わず口をついて出たひと言に、崇雅さんがふっと眉を動かす。
「呼ばれて嫌か?」
「嫌じゃないですけど……ちょっとだけ、損してる気がします」
「……澪」
一瞬、時間が止まった気がした。
(名前……)
彼の口から、聞く私の下の名前。
淡々とした声なのに、ちゃんと届いた。
そのまま言葉は続かなかったけれど、私はそれだけで十分だった。
帰り道。
夜風が少し冷たくなってきて、歩く速度が自然とゆっくりになる。
信号待ちで、ふいに隣から声がした。
「……さっきの店、気に入ったか?」
「はい。すごく素敵でした。
……あの、また行きたいなって思いました」
「……そうか」
ほんの短い会話。
でも、隣にいるだけで、心の奥が満たされていく。
信号が青に変わった瞬間、ふいに彼の手が触れた。
手の甲が、かすかに触れただけ。
でも、それだけで胸の奥が跳ねた。
崇雅は、そのまま前を向いて歩いていく。
何も言わないけれど、きっと今のは――偶然じゃない。
(少しずつ、少しずつ)
私たちは、言葉じゃないものを通じて
確かに、恋人になっていってる。
そんな夜だった。
——————
数日後ー。
「……あれ? もう帰ったのかな」
終業時間を少し過ぎた時間。
資料のチェックを終え、ふと崇雅の席を見たときには、すでにその姿はなかった。
(いつもより早い?……それともまだ会議?)
思わず社内チャットを確認してしまう。
でも、最後のやりとりは午前中の業務連絡だけ。
既読になっているけれど、短い返信だけで終わっていた。
――たったそれだけのことなのに、
小さく息をつく自分がいた。
(……気にしないって、決めてたのに)
この数日、崇雅は明らかに忙しそうだった。
朝も早く出社し、夜まで会議が連続で入っている。
チャットのレスポンスも遅れがちで、会話も必要最低限。
部署内では噂になっていた。
「新規でふたつ動いてるらしいよ。どっちもでかい取引先だって」
「しかも部長がどっちも見てるんでしょ? それ絶対キツいやつ」
「もう“自分で回す”んじゃなくて、“自分で守る”って感じじゃん」
(――守る)
その言葉がやけに胸に引っかかった。
私もその案件のひとつにサポートで関わっていた。
たしかに忙しくはあるけれど、前よりきついわけじゃない。
でも崇雅は、複数の担当者と並走して、すべての流れを把握しようとしていた。
あの人らしいやり方だと思う。
(……でも、それが私との時間を削ってる原因なんだって)
ちゃんとわかっている。
だからこそ、責めることなんてできない。
——金曜日、20時前。
私は資料を印刷していたが、
タイミング悪く紙詰まりに遭遇して、困っていた。
コピー機の前で苦戦しているとー
「……まだいたのか」
振り向くと、崇雅が立っていた。
スーツの上着を片手に持ち、ネクタイも少し緩めている。
明らかに疲労が滲んだ表情。
「すみません、もう少しだけ……。今詰まっちゃって」
「ああ、いい」
そのまま無言で機械に手を伸ばし、慣れた動きで紙詰まりを解消してくれた。
私が何か言おうとしたその瞬間――
「……来週以降、しばらく時間は取れないかもしれない。会議が立て込んでる」
たったそれだけ。
必要なことだけを、淡々と。
「……わかりました。無理なさらないでくださいね」
そう返したけれど、
本当はもっと、何か言いたかった。
「少しくらい、こっちを向いてほしい」
「忙しくても、ほんの一言でも、気にしてるって伝えてほしい」
でも――言えなかった。
私たちはまだ、恋人って呼べるほど、近くはないから。
社内チャットに、短い通知が届いた。
>『今夜、少し時間をもらえるか』
>――東條崇雅
業務連絡ではなく、私だけに届くメッセージ。
画面越しに名前を見るだけで、胸の奥が少し熱くなる。
>『大丈夫です』
指が自然に動いていた。
ほんのひと言のやりとりなのに、それだけで何かが通じ合っている気がしてしまう。
終業後ー。
「この店……前から気になってたんですけど、なかなか予約取れなくて」
「早めに押さえた。静かな場所の方がいいと思って」
そう言って崇雅さんが連れてきてくれたのは、駅から少し歩いたところにある隠れ家風のイタリアン。
内装も照明も落ち着いていて、店内のざわめきすら心地いい。
(やっぱり、部長って……こういうところ、本当にさりげない)
席に着き、ワインリストを差し出される。
私はすぐに視線を上げた。
「今日は車じゃないんですね?」
「今日は飲むと決めていたから、電車できた」
それだけ。
でも、そのひと言だけで――今日という時間を、ちゃんと“ふたりのもの”にしてくれたのだとわかる。
「じゃあ、乾杯しますか」
グラスが軽く鳴った。
澄んだ音が静かな空間に響いて、それだけで胸の奥があたたかくなる。
「展示会のあと、あの案件の反応、良かったんですよね。
営業の水野さんも言ってました。C社も他社からかなり好評を得ているって」
「お前が頑張ってたのを、ちゃんと見てる人間はいるってことだ」
「……“お前”って、ほんと変わらないですね」
思わず口をついて出たひと言に、崇雅さんがふっと眉を動かす。
「呼ばれて嫌か?」
「嫌じゃないですけど……ちょっとだけ、損してる気がします」
「……澪」
一瞬、時間が止まった気がした。
(名前……)
彼の口から、聞く私の下の名前。
淡々とした声なのに、ちゃんと届いた。
そのまま言葉は続かなかったけれど、私はそれだけで十分だった。
帰り道。
夜風が少し冷たくなってきて、歩く速度が自然とゆっくりになる。
信号待ちで、ふいに隣から声がした。
「……さっきの店、気に入ったか?」
「はい。すごく素敵でした。
……あの、また行きたいなって思いました」
「……そうか」
ほんの短い会話。
でも、隣にいるだけで、心の奥が満たされていく。
信号が青に変わった瞬間、ふいに彼の手が触れた。
手の甲が、かすかに触れただけ。
でも、それだけで胸の奥が跳ねた。
崇雅は、そのまま前を向いて歩いていく。
何も言わないけれど、きっと今のは――偶然じゃない。
(少しずつ、少しずつ)
私たちは、言葉じゃないものを通じて
確かに、恋人になっていってる。
そんな夜だった。
——————
数日後ー。
「……あれ? もう帰ったのかな」
終業時間を少し過ぎた時間。
資料のチェックを終え、ふと崇雅の席を見たときには、すでにその姿はなかった。
(いつもより早い?……それともまだ会議?)
思わず社内チャットを確認してしまう。
でも、最後のやりとりは午前中の業務連絡だけ。
既読になっているけれど、短い返信だけで終わっていた。
――たったそれだけのことなのに、
小さく息をつく自分がいた。
(……気にしないって、決めてたのに)
この数日、崇雅は明らかに忙しそうだった。
朝も早く出社し、夜まで会議が連続で入っている。
チャットのレスポンスも遅れがちで、会話も必要最低限。
部署内では噂になっていた。
「新規でふたつ動いてるらしいよ。どっちもでかい取引先だって」
「しかも部長がどっちも見てるんでしょ? それ絶対キツいやつ」
「もう“自分で回す”んじゃなくて、“自分で守る”って感じじゃん」
(――守る)
その言葉がやけに胸に引っかかった。
私もその案件のひとつにサポートで関わっていた。
たしかに忙しくはあるけれど、前よりきついわけじゃない。
でも崇雅は、複数の担当者と並走して、すべての流れを把握しようとしていた。
あの人らしいやり方だと思う。
(……でも、それが私との時間を削ってる原因なんだって)
ちゃんとわかっている。
だからこそ、責めることなんてできない。
——金曜日、20時前。
私は資料を印刷していたが、
タイミング悪く紙詰まりに遭遇して、困っていた。
コピー機の前で苦戦しているとー
「……まだいたのか」
振り向くと、崇雅が立っていた。
スーツの上着を片手に持ち、ネクタイも少し緩めている。
明らかに疲労が滲んだ表情。
「すみません、もう少しだけ……。今詰まっちゃって」
「ああ、いい」
そのまま無言で機械に手を伸ばし、慣れた動きで紙詰まりを解消してくれた。
私が何か言おうとしたその瞬間――
「……来週以降、しばらく時間は取れないかもしれない。会議が立て込んでる」
たったそれだけ。
必要なことだけを、淡々と。
「……わかりました。無理なさらないでくださいね」
そう返したけれど、
本当はもっと、何か言いたかった。
「少しくらい、こっちを向いてほしい」
「忙しくても、ほんの一言でも、気にしてるって伝えてほしい」
でも――言えなかった。
私たちはまだ、恋人って呼べるほど、近くはないから。
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