アンズトレイル

ふみ

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「な、何してるんですかっ」
 涙で霞む視界でもよく見えてしまう土下座。あんなにかっこよくてモデルのような人が、土下座なんかしていいはずがない。慌てて杏さんの肩に手を置き、体を起こそうとするも動いてはくれない。
「あんちゃんの気持ちも考えずに、自己中になってすみませんでした」
「いや、ですから、土下座なんかしないでください」
「ううん。あんちゃんを傷付けたんだもの。罵倒でも暴力でも何でもしていいよ。気が済むまで何をしても動かないから」
 まるで岩のようにビクともしない杏さん。やまないと思っていた涙もいつの間にか引き、怒りや不安はとうに消えた。胸の中にあるのはただ動揺だけ。
「そんなひどいことしませんから。その、私も突然怒りだしてすみませんでした」
 そう口にしてからハンカチで顔を拭った。
「あんちゃんは悪くないって。ふざけた私が全面的に悪いの。だからお願い。嫌いにならないで。お願い、お願い」
 月明かりに照らされた杏さんの背中。表情はもちろん見えないものの、不安そうな声は今にも泣きだしてしまいそう。さっきまで楽しそうにはしゃいでいたのに、どうして今度は涙なんか。私よりも精神的に不安定、なのだろうか。
「お願い、嫌わないで。何でもする。あんちゃんのお願いをなんでも聞くから」
「嫌ってなんかいませんよ。とりあえず顔を上げてください。それから話しませんか」
 杏さんに触れていた手を離し、きれいに並べられた両手の前に膝を突く。なるべく優しい声色をしたおかげか、杏さんはすぐに顔を見せてくれた。
 潤んだ瞳と目が合う。それだけでふつふつと罪悪感が心に浮かび上がってきた。これが杏さんの涙の破壊力。とっさに目をそらしてしまう。
「許して、くれるの?」
「そもそも怒ってなんかいませんよ。ああ、いや、少しだけ怒ってましたが」
「やっぱり怒ってたんだ」
 再び腰を曲げようとする杏さん。すかさず両肩に手を置いて力を込める。
「もう怒ってません。ちょっとだけ不安定になっただけなので」
「ほんとに?」
 首をかしげ上目遣い。なぜかほんの少し胸が苦しくなる。
「はい」
「笑ってないのに?」
 頬を膨らませ目をそらす。不機嫌になってもかわいいだなんてずるい。杏さんのような人種は何をしてもかわいいようだ。
「ああ、えっと、これでどうですか」
 口角を思いっきり上げて目を細める。今までここまで笑ってみせたことはきっとない。それと露骨な作り笑いも初めて。
「そっか……うん。じゃあ、わかった」
 杏さんが頷く。見つめていると、床に手を突いてそのまま立ち上がった。こちらを見下ろす顔には先ほどまでの弱さは感じない。いつもどおり、妙な自信に満ちた整った顔があるだけだった。
「ほんとにごめんね。立てる?」
 差し出された手をつかみ、そっと立ち上がった。
「もうこんなことしないから。ほんとに嫌わないで」
「嫌いませんよ。むしろ私が嫌われないか心配です」
「あんちゃんが?」
「はい。あんな、子どもみたいに怒ってしまったので」
 フラッシュバックするぼやけた景色。突然泣きながら怒るなんて、恥ずかしい姿をさらしてしまった。できるだけ早く忘れよう。
「怒るのっていいことじゃない?」
「そう、ですね」
 杏さんの言葉を飲み込めないものの、とりあえず頷いてみせた。
「怒る時に怒らないとさ、心にモヤモヤがたまって爆発しちゃうよ。人間なんだから、怒って泣いて笑うのが普通じゃないかな」
「それは……どうですかね。よく分かりません」
「あんちゃんみたいに優しい子は怒り慣れてないから難しいとは思うけどね。でもさ、怒りにもちゃんと向き合った方がいいよ」
「向き合う?」
 聞いたことのない持論に思わず聞き返してしまった。杏さんは月明かりを浴びて優しく微笑んでいる。
「そう。あんちゃんってさ、何か理不尽なことが起こっても、まずは自分が悪いんじゃないかって疑ってない?」
「言われてみれば、まあ」
「その考えは悪くないけどさ、あんまり考え込むと怒るタイミングを逃しちゃうんだよ。怒りの瞬発力を鍛えた方がいいと思うから、今度からとりあえず怒ってみて。それから自分が悪いなら謝ればいいと思うし」
「直情的でいいんですか?」
「あんちゃんみたいに考え過ぎな人はね。騙されたと思って試してみて」
 杏さんがウインクを残してくれた。少しぐらい直情的に、か。私もきちんと怒れていれば、何か変わっていたのだろうか。それ以上は無意味と首を振って考えるのをやめた。
「ねえ」
「はい?」
「ほんとに嫌ってない?」
「嫌ってませんよ」
 何回聞くんですか。そう口にしかけるも、杏さんの不安げな表情を見てすぐに飲み込んだ。
「それならいいけどさ。ごめんね、初めての友だちをなくしたり嫌われるのがすごく怖くて、不安でしょうがないの」
 杏さんが膝についたほこりを払い、背中を丸めた。
「そんな簡単に嫌ったりなんかしませんよ」
「うん……彼と付き合い始めた頃からさ、誰かに嫌われるのがものすごく怖くなっちゃって。精神的に不安定でごめんね」
「いえ。自殺しようとしている私の方が不安定だと思いますし」
「たしかに。それもそうか」
 妙に納得されてしまった。今のは否定してほしかったけれど、杏さんが元気になれたのならいいか。
「そういえばどこに行ってたんですか?」
「当直室を見てきたの。今はもう警備室として使ってるけれど」
「なるほど――え?」
 安堵したのも束の間。ここにはいないはずの名前に声が上ずった。
「肝試しの事件の後、警備員が常駐するようになったみたい。校舎に入ってすぐ、警備員の後姿を見て驚いたよ」
「驚いたって、そんな、大丈夫だったんですか」
「多分」
 あっけらかんと答えた杏さん。私が心配性なだけだろうか。
「こっそり後をつけたら、そのまま外に行っちゃった。校舎に戻るまで時間がかかるだろうし、おじいちゃんだったから大丈夫だよ」
「そうでしょうか」
「そうそう。だから今のうちに中庭へ急ごう。そこから行けるから」
 杏さんが目の前のガラス戸を開けて中庭へ。もう一メートルと離れたくない。慌てて杏さんを追った。
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