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「ほんと? 私もあんちゃんとならどこでもいい」
杏さんの屈託のない笑顔が恥ずかしくなって目をそらしてしまった。
「あんちゃんってさ、話してるだけで笑顔になるってすごい才能だよね」
「そんな、大袈裟ですって」
「ほんとだって。それにイメチェンさえすれば絶対モテるよ。私が保証するから」
悪い気はしないものの、どう返事をしていいのか困る。もっと早く杏さんと出会っていれば変わっていたのだろうか。まあ、何も変わらないとは思うけれど。
「確か去年、一度だけコンタクトにしたんだよね、写真とか撮らなかったの?」
三度出たコンタクトの話題。否応にも脳裏をかすめたいじめの記憶から逃げるよう、頭を振ってから口を開いた。
「写真はないんです。すみません」
「そっか。コンタクトにした時、何か言われた?」
興味津々な杏さんに目を丸くしてしまった。昨夜話したのをもう忘れてしまったのだろうか。期待と不安にまみれて登校したあの日、忘れもしないあの一言。癒えない傷をえぐって何がしたいのだろう。
「あの、昨日も話しましたよ」
「それじゃなくてさ」
杏さんが手すり上で頬づえをついた。
「他の人には何か言われなかったの? 友だちとかクラスメイトとか、先生とか」
真意を知り、一瞬芽生えた怒りは霧散した。ただの興味本位、私を知りたいと思っているだけか。
胸のしこりのようなものがすとんと落ち、あの日の記憶が蘇る。ずっと忘れようとしていた記憶の中で、唯一嬉しいできごとにカテゴライズされたあの思い出。靴箱で言われたあの一言。
「知らない人に、一言だけ言われました」
「不審者に声をかけられたの?」
「同じ学校の生徒です。誰かは詳しく知りませんが」
「そういうことね。で、何て?」
「えっと、その」
口にする言葉は頭の中に浮かんでいる。けれども口から出てこない。恥ずかしさとも卑下とも呼べる何かが抑え込んでいる。すっかり冷えきった頬に熱が宿るのが、触らずとも分かってしまった。
「もったいぶらないで。ねえ、教えて」
「……あんなかわいい子、いたっけと」
すぐに腕の中に頭を埋めた。恥ずかしい恥ずかしい。これじゃあまるで自慢みたいだ。こんなことを話して何になる。杏さんもきっと、だから何? と首をかしげているに違いない。
早めに謝れば許してくれるだろうか。今からコンビニへ走ってチョコレートを買ってこよう。それを渡しながら謝れば――。
「めっちゃいいじゃん!」
予想もしないテンションの高さ。声に驚いて顔を上げれば、先ほどよりも輝く目と、にんまりと笑う口元。それらを連れて杏さんが距離を縮めてきた。
「それって誰に? 男の子? 女の子?」
「え、あ、男の子です」
「ほうほうほう。なるほどね。あんちゃんも隅に置けないなあ」
にんまりが徐々に崩れてニヤニヤ顔へと。見続けているだけで恥ずかしさが倍増されていく。
「その人とはどうなったの? 今の彼氏?」
「ちが、何もないですよ。すれ違いざまに言われただけです」
「すれ違いざまねえ。その人もしっかり言えばいいのに。こう肩をつかんで、かわいいから付き合ってくださいってさ」
杏さんに両肩をつかまれた。もちろん恋愛対象ではないものの、何もかもが完璧な杏さんに言われるとつい口元が緩んでしまう。
あの日もこうだったのだろうか。すれ違った彼の声が背後から聞こえ、振り返って目が合ったあの瞬間。彼の横にいた女性とも目が、合って……。
「あ、ああ」
胸の奥に仕舞った記憶に色が戻る。まるで五感すらも感じるように鮮明に、脳裏をかすめていった。振り返った先にいたのは彼と、もう一人。話したこともないのに、こちらをにらんでいた女がいた。
「あんちゃん?」
「もう一人、もう一人いたんです」
「誰?」
「私に声をかけた人の横に、いたんです。私をいじめたあの女が」
忘れもしない。そう思っていたはずなのに、記憶の片隅にいた彼女に気付けなかった。あの日、あの場所にいたんだ。彼と一緒にいたということは。そう考えることで初めて、あの発言の理由が見えてきた。
「確かその子が、コンタクトに文句をつけていじめてきたんだよね」
「はい」
「それってただの八つ当たりじゃないの? 彼氏が自分以外を褒めたから、許せなくてあんちゃんをいじめたっていう」
眉間にしわを寄せて完全に呆れる杏さん。何気ない一言から始まったいじめは、ふたを開けてみればただの八つ当たり。そんな理由で死ぬんだ、私。
「嫉妬でひどい目に遭ったね。やっぱりあんちゃん悪くないよ」
頷き、広がり続ける闇をぼんやり眺めた。レンズを通さずに見る山はぼやけ、空との境界線もはっきりしない。色の濃淡すらも分からないけれど、なぜか明るく見えた。
ホテルは森に囲まれ明かりはほとんど見えない。それでも見ているだけで穏やかになれる。心の持ちようなのか、それとも諦めか。答えを見付ける気はないから、どうでもいいけれど。
「私もあんちゃんみたいな青春したかったなあ。他には何かないの? キュンキュンする話ないの?」
変なスイッチが入った杏さんに詰め寄られ、そのまま初めての恋バナへと発展してしまった。
お互いに憧れのシチュエーションを語らい、好みのタイプを発表。頬の火照りが全身へと飛び火し、妙な冷や汗をかき始めたところで杏さんのくしゃみが飛び出した。
「さっぶ。そろそろ戻ろうか」
「はい」
これ幸いと首を大きく振った。これ以上根掘り葉掘り聞かれたら、とんでもないことを口走ってしまいそう。杏さんに続いて部屋に入ると、テレビの音が耳に入った。話している間、ずっとついていたのだろうか。
『先ほどからお伝えしていますように、昨日午後八時頃、静岡市のアパートから切断されたとみられる遺体の一部が見付かり、警察が殺人事件とみて捜査しています』
原稿を読むアナウンサーの映像が中継へと切り替わる。いわゆる現場となったアパート。マイクを持ったレポーターが詳しい場所や時間を説明している。
「あ、え?」
驚愕と疑問が続けて口から漏れた。レポーターの背景に見覚えがある。いや、それだけじゃない。よく見ればそっくりだ。昨日寄ったコンビニがそのまま映し出されている。
杏さんの屈託のない笑顔が恥ずかしくなって目をそらしてしまった。
「あんちゃんってさ、話してるだけで笑顔になるってすごい才能だよね」
「そんな、大袈裟ですって」
「ほんとだって。それにイメチェンさえすれば絶対モテるよ。私が保証するから」
悪い気はしないものの、どう返事をしていいのか困る。もっと早く杏さんと出会っていれば変わっていたのだろうか。まあ、何も変わらないとは思うけれど。
「確か去年、一度だけコンタクトにしたんだよね、写真とか撮らなかったの?」
三度出たコンタクトの話題。否応にも脳裏をかすめたいじめの記憶から逃げるよう、頭を振ってから口を開いた。
「写真はないんです。すみません」
「そっか。コンタクトにした時、何か言われた?」
興味津々な杏さんに目を丸くしてしまった。昨夜話したのをもう忘れてしまったのだろうか。期待と不安にまみれて登校したあの日、忘れもしないあの一言。癒えない傷をえぐって何がしたいのだろう。
「あの、昨日も話しましたよ」
「それじゃなくてさ」
杏さんが手すり上で頬づえをついた。
「他の人には何か言われなかったの? 友だちとかクラスメイトとか、先生とか」
真意を知り、一瞬芽生えた怒りは霧散した。ただの興味本位、私を知りたいと思っているだけか。
胸のしこりのようなものがすとんと落ち、あの日の記憶が蘇る。ずっと忘れようとしていた記憶の中で、唯一嬉しいできごとにカテゴライズされたあの思い出。靴箱で言われたあの一言。
「知らない人に、一言だけ言われました」
「不審者に声をかけられたの?」
「同じ学校の生徒です。誰かは詳しく知りませんが」
「そういうことね。で、何て?」
「えっと、その」
口にする言葉は頭の中に浮かんでいる。けれども口から出てこない。恥ずかしさとも卑下とも呼べる何かが抑え込んでいる。すっかり冷えきった頬に熱が宿るのが、触らずとも分かってしまった。
「もったいぶらないで。ねえ、教えて」
「……あんなかわいい子、いたっけと」
すぐに腕の中に頭を埋めた。恥ずかしい恥ずかしい。これじゃあまるで自慢みたいだ。こんなことを話して何になる。杏さんもきっと、だから何? と首をかしげているに違いない。
早めに謝れば許してくれるだろうか。今からコンビニへ走ってチョコレートを買ってこよう。それを渡しながら謝れば――。
「めっちゃいいじゃん!」
予想もしないテンションの高さ。声に驚いて顔を上げれば、先ほどよりも輝く目と、にんまりと笑う口元。それらを連れて杏さんが距離を縮めてきた。
「それって誰に? 男の子? 女の子?」
「え、あ、男の子です」
「ほうほうほう。なるほどね。あんちゃんも隅に置けないなあ」
にんまりが徐々に崩れてニヤニヤ顔へと。見続けているだけで恥ずかしさが倍増されていく。
「その人とはどうなったの? 今の彼氏?」
「ちが、何もないですよ。すれ違いざまに言われただけです」
「すれ違いざまねえ。その人もしっかり言えばいいのに。こう肩をつかんで、かわいいから付き合ってくださいってさ」
杏さんに両肩をつかまれた。もちろん恋愛対象ではないものの、何もかもが完璧な杏さんに言われるとつい口元が緩んでしまう。
あの日もこうだったのだろうか。すれ違った彼の声が背後から聞こえ、振り返って目が合ったあの瞬間。彼の横にいた女性とも目が、合って……。
「あ、ああ」
胸の奥に仕舞った記憶に色が戻る。まるで五感すらも感じるように鮮明に、脳裏をかすめていった。振り返った先にいたのは彼と、もう一人。話したこともないのに、こちらをにらんでいた女がいた。
「あんちゃん?」
「もう一人、もう一人いたんです」
「誰?」
「私に声をかけた人の横に、いたんです。私をいじめたあの女が」
忘れもしない。そう思っていたはずなのに、記憶の片隅にいた彼女に気付けなかった。あの日、あの場所にいたんだ。彼と一緒にいたということは。そう考えることで初めて、あの発言の理由が見えてきた。
「確かその子が、コンタクトに文句をつけていじめてきたんだよね」
「はい」
「それってただの八つ当たりじゃないの? 彼氏が自分以外を褒めたから、許せなくてあんちゃんをいじめたっていう」
眉間にしわを寄せて完全に呆れる杏さん。何気ない一言から始まったいじめは、ふたを開けてみればただの八つ当たり。そんな理由で死ぬんだ、私。
「嫉妬でひどい目に遭ったね。やっぱりあんちゃん悪くないよ」
頷き、広がり続ける闇をぼんやり眺めた。レンズを通さずに見る山はぼやけ、空との境界線もはっきりしない。色の濃淡すらも分からないけれど、なぜか明るく見えた。
ホテルは森に囲まれ明かりはほとんど見えない。それでも見ているだけで穏やかになれる。心の持ちようなのか、それとも諦めか。答えを見付ける気はないから、どうでもいいけれど。
「私もあんちゃんみたいな青春したかったなあ。他には何かないの? キュンキュンする話ないの?」
変なスイッチが入った杏さんに詰め寄られ、そのまま初めての恋バナへと発展してしまった。
お互いに憧れのシチュエーションを語らい、好みのタイプを発表。頬の火照りが全身へと飛び火し、妙な冷や汗をかき始めたところで杏さんのくしゃみが飛び出した。
「さっぶ。そろそろ戻ろうか」
「はい」
これ幸いと首を大きく振った。これ以上根掘り葉掘り聞かれたら、とんでもないことを口走ってしまいそう。杏さんに続いて部屋に入ると、テレビの音が耳に入った。話している間、ずっとついていたのだろうか。
『先ほどからお伝えしていますように、昨日午後八時頃、静岡市のアパートから切断されたとみられる遺体の一部が見付かり、警察が殺人事件とみて捜査しています』
原稿を読むアナウンサーの映像が中継へと切り替わる。いわゆる現場となったアパート。マイクを持ったレポーターが詳しい場所や時間を説明している。
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