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――杏がいないと心配で夜も寝られないの。父さんも心配しているわ。お願い、どこへだって迎えに行くから。
心に芽生えた後悔と温かい感情。単純な自分が嫌になる。ああ、やっぱり親子なんだ。きちんと話せば分かり合えるだろうか。そうなればきっといい方向に変わっていく。まるで映画の大どんでん返しのように。
――そうすれば警察に連絡する面倒はしなくて済むもの。
湧き上がっていたはずの涙が、すっとどこかへ消えた。
「警察に、伝えてないの?」
――連絡しようかどうか迷ったのよ? だけど、どうせすぐ帰ってくるだろうと思って。
明るい声色に、全身の力が抜けていく。
――家出のことがご近所さんに知られたら笑い者よ。恥ずかしいったらありゃしない。ねえ、どうして家出なんかしたの。そんなばかみたいなことはさっさとやめて帰ってきなさい。
感情だったものが胸の中で渦巻く。この数分で芽生えたものが一つになった。ああ、やっぱり、そうか。
「言いたいことはそれだけ?」
――何よその言い方。迎えに行くって言ってんの。早く場所を教えなさい。
「もういい」
風の音にも負けそうな呟き。届いたかなんてどうでもよかった。親だと思っていた人は最初から自分のことしか考えていない。それだけ。それが分かっただけ有意義だった。
スマホの設定でバイブレーションを切り、マナーモードにしてポケットに突っ込んだ。これでしばらくは大丈夫。いや、警察に連絡されてGPSで追跡されたらどうしよう。
「いや、ないか」
そんな面倒なことはしないだろう。世間体が一番なのだから、ただ心配する素振りで終わるはず。
「電話、終わった?」
ガラス戸が音を立て開いた。その隙間からひょっこりと顔を覗かす、夜にしか見られない髪を下ろした杏さん。お風呂上がりの桃色のTシャツとハーフパンツが夜の闇に映えて見える。
「聞いてたんですか?」
「ううん」
杏さんが首を振ってベランダの手すりにもたれた。長い髪が穏やかな風に小さく揺れている。
「窓ガラス越しに話してる姿が見えてね。邪魔しちゃ悪いと思って待ってたの」
「そうでしたか」
心の拠りどころにしている穏やかな顔を見ても、すぐには癒えそうになかった。
「誰と話してたの?」
軽やかな風のような声。ただの興味として聞いているのだろう。けれどあんな話をしてもきっと困惑するだけ。言わぬが花。精いっぱい笑ってみせた方がいいに決まっている。
「間違い電話でした。違うって言ってもしつこくて」
苦笑いに加えて肩もすくめた。今できる最高の演技を披露したものの杏さんは目を細めている。
「あんちゃんさ」
「はい」
「うそをつく時、左手を握る癖があるって気付いてる?」
とっさに組んでいた腕へ目をやる。けれど左手は腕の中にすっぽり隠れていた。ということは、つまり。
「もしかして、鎌をかけました?」
にんまりと笑う杏さん。やられた。
「ほんとは誰からだったの?」
「……母です」
そっぽを向いた。視界の隅で杏さんが目を丸くしている。
「何か言われた?」
「早く帰ってきてと言ってました」
「やっぱり心配してくれたんだ」
「いえ。娘が家出したと近所に知られたら恥ずかしいから、早く帰ってこいと」
嬉しそうに開いていた口が真一文字に結ばれる。やっぱりこうなった。杏さんとの語らいが汚れた。うそだと気付かれても口にするんじゃなった。
「そっか」
それだけ口にし、杏さんは再び口を閉じだ。互いに話題を振ることもせず、目前に広がる深い闇を見続ける。そうしてしばらくたった後、杏さんがちらと視線を飛ばしてきた。
「あんちゃんのお母さんってどんな人?」
「どんなって、それは」
言い淀むくらいに、お母さんについて知らない自分に気が付いた。十七年も一緒にいたのに、好きなものも嫌いなものも知らない。何かに熱中する姿も見たことないし、悲しんで涙する姿も見覚えはない。
記憶にあるのはいつも怒声を飛ばし、その鬱憤をお父さんにぶつける姿だけ。世間一般のお母さんもこうなのだろうか。映画に出てくる優しげな母親を見るたびにそう思っていた。
「私のお母さんはさ」
杏さんが後ろ手を組み、背筋を伸ばした。
「子どもより仕事が好きで、休みの日も資料作りに精を出すような人だったの。お父さんも似たような感じだけど」
空を見上げる杏さん。愁いを帯びた瞳から苦労が見て取れる。
「お小遣いをくれたり、ペットを飼ってくれたりしたの。だけど正直もっと遊んでほしかった。もっと構ってほしかった。大人になった今じゃあ、何を言っても遅いけどね」
痛々しい笑みに胸が痛む。私もかつて感じていた寂しさはこの痛みだっただろうか。この数日間で得た充実感で薄れた痛みを思い出そうとしても、ぽっかり空いた穴には何も残っていない。
「私も、大体同じです。学校の成績にしか興味がなくて、まともに話したことは一度もなくて」
「寂しいって思う?」
「ちょっと前まではそう思ってました。でももう、いいんです」
「お母さんには会わないつもり?」
「はい」
特に考えずに返してしまった。もしかして最後の確認だったのだろうか。
自殺する気は変わっていないのかという、問い。
そんなもの、初めから何も変わっていない。何度も揺れて迷いそうになったけれど、それをゴールにした時点でもう逃げられない。いや、逃げられる上で私が決めた。何カ月もかけてそうした方がいいと結論付けた。誰も助けてくれないこの先を、一人でなんか歩みたくなかったから。
「そっか。いつかあんちゃんと遊園地に行きたかったんだけどね」
「遊園地?」
腕に乗せていた額を上げた。杏さんが残念そうに口を尖らしている。
「遊園地じゃなくても、水族館とか動物園でいいよ。あんちゃんはどこに行きたい?」
「私は……杏さんと一緒ならどこへでも」
心に芽生えた後悔と温かい感情。単純な自分が嫌になる。ああ、やっぱり親子なんだ。きちんと話せば分かり合えるだろうか。そうなればきっといい方向に変わっていく。まるで映画の大どんでん返しのように。
――そうすれば警察に連絡する面倒はしなくて済むもの。
湧き上がっていたはずの涙が、すっとどこかへ消えた。
「警察に、伝えてないの?」
――連絡しようかどうか迷ったのよ? だけど、どうせすぐ帰ってくるだろうと思って。
明るい声色に、全身の力が抜けていく。
――家出のことがご近所さんに知られたら笑い者よ。恥ずかしいったらありゃしない。ねえ、どうして家出なんかしたの。そんなばかみたいなことはさっさとやめて帰ってきなさい。
感情だったものが胸の中で渦巻く。この数分で芽生えたものが一つになった。ああ、やっぱり、そうか。
「言いたいことはそれだけ?」
――何よその言い方。迎えに行くって言ってんの。早く場所を教えなさい。
「もういい」
風の音にも負けそうな呟き。届いたかなんてどうでもよかった。親だと思っていた人は最初から自分のことしか考えていない。それだけ。それが分かっただけ有意義だった。
スマホの設定でバイブレーションを切り、マナーモードにしてポケットに突っ込んだ。これでしばらくは大丈夫。いや、警察に連絡されてGPSで追跡されたらどうしよう。
「いや、ないか」
そんな面倒なことはしないだろう。世間体が一番なのだから、ただ心配する素振りで終わるはず。
「電話、終わった?」
ガラス戸が音を立て開いた。その隙間からひょっこりと顔を覗かす、夜にしか見られない髪を下ろした杏さん。お風呂上がりの桃色のTシャツとハーフパンツが夜の闇に映えて見える。
「聞いてたんですか?」
「ううん」
杏さんが首を振ってベランダの手すりにもたれた。長い髪が穏やかな風に小さく揺れている。
「窓ガラス越しに話してる姿が見えてね。邪魔しちゃ悪いと思って待ってたの」
「そうでしたか」
心の拠りどころにしている穏やかな顔を見ても、すぐには癒えそうになかった。
「誰と話してたの?」
軽やかな風のような声。ただの興味として聞いているのだろう。けれどあんな話をしてもきっと困惑するだけ。言わぬが花。精いっぱい笑ってみせた方がいいに決まっている。
「間違い電話でした。違うって言ってもしつこくて」
苦笑いに加えて肩もすくめた。今できる最高の演技を披露したものの杏さんは目を細めている。
「あんちゃんさ」
「はい」
「うそをつく時、左手を握る癖があるって気付いてる?」
とっさに組んでいた腕へ目をやる。けれど左手は腕の中にすっぽり隠れていた。ということは、つまり。
「もしかして、鎌をかけました?」
にんまりと笑う杏さん。やられた。
「ほんとは誰からだったの?」
「……母です」
そっぽを向いた。視界の隅で杏さんが目を丸くしている。
「何か言われた?」
「早く帰ってきてと言ってました」
「やっぱり心配してくれたんだ」
「いえ。娘が家出したと近所に知られたら恥ずかしいから、早く帰ってこいと」
嬉しそうに開いていた口が真一文字に結ばれる。やっぱりこうなった。杏さんとの語らいが汚れた。うそだと気付かれても口にするんじゃなった。
「そっか」
それだけ口にし、杏さんは再び口を閉じだ。互いに話題を振ることもせず、目前に広がる深い闇を見続ける。そうしてしばらくたった後、杏さんがちらと視線を飛ばしてきた。
「あんちゃんのお母さんってどんな人?」
「どんなって、それは」
言い淀むくらいに、お母さんについて知らない自分に気が付いた。十七年も一緒にいたのに、好きなものも嫌いなものも知らない。何かに熱中する姿も見たことないし、悲しんで涙する姿も見覚えはない。
記憶にあるのはいつも怒声を飛ばし、その鬱憤をお父さんにぶつける姿だけ。世間一般のお母さんもこうなのだろうか。映画に出てくる優しげな母親を見るたびにそう思っていた。
「私のお母さんはさ」
杏さんが後ろ手を組み、背筋を伸ばした。
「子どもより仕事が好きで、休みの日も資料作りに精を出すような人だったの。お父さんも似たような感じだけど」
空を見上げる杏さん。愁いを帯びた瞳から苦労が見て取れる。
「お小遣いをくれたり、ペットを飼ってくれたりしたの。だけど正直もっと遊んでほしかった。もっと構ってほしかった。大人になった今じゃあ、何を言っても遅いけどね」
痛々しい笑みに胸が痛む。私もかつて感じていた寂しさはこの痛みだっただろうか。この数日間で得た充実感で薄れた痛みを思い出そうとしても、ぽっかり空いた穴には何も残っていない。
「私も、大体同じです。学校の成績にしか興味がなくて、まともに話したことは一度もなくて」
「寂しいって思う?」
「ちょっと前まではそう思ってました。でももう、いいんです」
「お母さんには会わないつもり?」
「はい」
特に考えずに返してしまった。もしかして最後の確認だったのだろうか。
自殺する気は変わっていないのかという、問い。
そんなもの、初めから何も変わっていない。何度も揺れて迷いそうになったけれど、それをゴールにした時点でもう逃げられない。いや、逃げられる上で私が決めた。何カ月もかけてそうした方がいいと結論付けた。誰も助けてくれないこの先を、一人でなんか歩みたくなかったから。
「そっか。いつかあんちゃんと遊園地に行きたかったんだけどね」
「遊園地?」
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