アンズトレイル

ふみ

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 人が群がって騒がしかった建物付近とは違い、目と耳に訴えるのは自然のものだけ。
 壁のようにそびえる木々と私たちを歓迎するように一段と大きな声で鳴く蝉たち。生命にあふれた場所であるはずなのに、ひと気がないだけでえも言われぬ恐怖に包まれた。
 先頭を行く杏さんとそれを追う私。お互いに無言でしばらく歩く。誰ともすれ違わない。そもそもこの道はどこに通じているんだろう。散策コースなのだから、一応のゴールはありそうだけど。
「この辺でいいかな」
 小さな音も耳でよく拾える。杏さんが振り返った。
「この辺とは?」
「適当なところで道を外れて、死に場所を探さないとね」
 返事はせず木々の向こうを見た。木と木の間、木漏れ日の先に小さな空間がある。
「もっと奥に行けば、誰にも見付からないんじゃない? 行ってみようよ」
 まるで遊び場を見付けた子どものよう。地を這う太い根と苔にまみれた石を踏み越え、奥へと行ってしまった。軽い足取りを見失ってしまいそう。ひと気が完全にないことを確かめて森の中へ踏み込んだ。
 平坦だったけもの道とは大きく違い、ごつごつとした岩や急な傾斜、躓きそうな根だらけ。足を取られながらも、リュックの上で揺れるポニーテールを必死に追いかけた。杏さんはペースを落とさずに奥へ進んでいく。それこそ死に急ぐように、ひたすらに足を動かしている。
「ここなんかいいんじゃない? あれ、あんちゃん大丈夫?」
「な、なんとか」
 息も絶え絶え、足の裏と太ももに痛みを感じ始めた頃。ようやく杏さんが足を止めた。苔だらけの岩に杏さんが座ったのを確認してから、そばの木に手を当て体重をかける。
 滝のような汗は足を止めても止まらない。それに脳が疲労に気付いた。気にならない程度だったふくらはぎの痛みが増して顔が歪む。今から死ぬのに、どうして疲れ果てているのだろう私は。
「こんな場所もあるんだねえ」
 のほほんとした声に脱力し、その場で腰を下ろした。木の根がお尻に当たって妙な感じ。なんとかバランスの取れる位置を探しだして、今いる場所に目をやった。
 薄暗い樹海の中の小さな陽だまり。まるでここだけを避けているかのように木が生えておらず、地面には苔がびっしり敷き詰められている。休憩場所にはもってこい。死に場所としては、分からない。
「ちょっと待ってね。今出してあげるから」
 息を整えて汗を拭っていると、聞き捨てならないせりふが聞こえた。やっぱり彼氏さんを連れてきたんだ。また吐いてしまったらどうしよう。
 ちらと杏さんに視線を飛ばす。何も知らずに見ればリュックの中からお弁当を取り出しそう。そんな甘い予想が当たりますようにと見守るも、中から出てきたのは彼氏さんの頭部。こちらからは後頭部しか見えないのが幸いし、胃から込み上げてくるものはなかった。
「どうしてこうなっちゃったのかな」
 独り言、だろうか。木漏れ日にこぼしたその言葉に返事が欲しいのか。彼氏さんを膝の上に置いた杏さんを見つめていると、目が合った。
「死ぬ前になんだけどさ、ちょっとだけ話を聞いてくれる?」
「え、ああ、はい」
 ぎこちなく頷くと柔らかい笑みが返ってきた。胸に走る痛みに気付かないふりをして、杏さんの話に耳を傾けた。
「彼とは結婚する話も出てたんだ」
「そうだったんですか?」
「うん。だけど浮気というか、騙されたというか」
 まばたきとともに首をかしげる。杏さんが頬をかいて口を噤んだ後、天を仰いで口を開いた。
「彼に何度もお金を貸していたの。それが支え合うことだって信じていた私も悪いけれど、給料が入るたびに半分くらいは渡してさ」
「半分、ですか」
「そう。半年くらい続いた後だったかな。彼が起業したいって言いだしたんだ。成功したらちゃんと結婚して私を支えるんだって」
 杏さんは彼氏さんと見つめ合っている。どんな表情を思い描いているのだろう。愛していた笑顔か、冷たくなった姿をそのまま見ているのか。
「そのためにお金が必要って言われたの。いくらだったと思う?」
「えっと、分かりません」
「五百万。しかも現金で」
「貸したんですか?」
 すとんきょうな声は蝉の合唱にすぐにかき消された。何度もお金を借りた挙句、五百万もの大金を援助してほしいという彼氏さん。詐欺の臭いがぷんぷんする。怪し過ぎる。
「悩んだけれど、結婚するのに必要って言われて貸しちゃった」
「それで、どうなったんですか」
「お金を降ろしてうちに帰ったら、彼が電話をしていたの。目をつむるとすぐに思い出せる」
 杏さんが彼氏さんから目をそらした。
「部屋のドアを開けようとしたら中から声が聞こえてたの。私をばか女って呼んでて、金さえ手に入ったらそっちに戻るから、二人で幸せになろうだって」
 まるで人ごとのよう。淡々と語る柔らかい表情の裏にあるものに触れていいのか分からず、少しだけ開いた口をすぐに閉じた。
「その後はよく覚えてないけど、気付いたら彼が死んでて、死体を見たら笑いと涙が止まらなくてさ」
「笑い?」
「うん」
 杏さんが彼氏さんを持ち上げ、自身の顔と同じ高さまで持ち上げた。
「両親が引いたレールを歩いたのに間違えて、自分で決めた最愛の人も間違ってた。なんだかもう、生きるのがばかばかしくなって、すぐに死のうとしたんだよね」
「でも、ここまで来たんですよね」
「そう」
 杏さんがこちらへ目をやった。
「彼を運んでいる時にあんちゃんと出会ったんだよ。ただの偶然がここまで続くなんてすごいよね。あの時死ななくて、ほんとよかった」
 その命もここで潰えてしまう。そのどうしようもない運命に押し潰されたように口を閉ざした。
「空気が澄んでて気持ちいいねえ」
 持ち上げていた彼氏さんに頬ずりする杏さん。引きつる口元をハンカチで覆い、リュックからペットボトルを取り出した。
 喉の渇きと大自然のど真ん中。その二つがただの水を何倍にもおいしくする。恐らくこれが最後に口にするもの。もっとちゃんとしたものを持ってこればよかった。
 例えば、今まで食べた中で一番おいしかったもの。何だろう。杏さんの足元の苔に目をやりながら、思い出の中に深く潜り込んでいく。
 映画館で食べたポップコーン。お母さんの手料理。たまの外出で食べたファストフード。他にもお菓子や飲み物が浮かぶけれど、どれも一番ではない。思い返してみればつい最近、一番を見付けたような……ああ、そうか。
 杏さんと一緒に食べた料理。その全てが一番だった。コンビニで買ってくれたお菓子。口いっぱいに頬張ったとんかつ。海水浴場での飲み食い。苦手を克服したハンバーグ。
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