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しおりを挟むいつしか閉じていたまぶたの裏に鮮明に描いていく。その思い出に映る杏さんを見るたびに胸が締め付けられる。諦めたはずの心が何かを訴えている。
何もできなくて諦めたはずなのに、私は何がしたいの。どうしたいの。杏さんにどうあってほしいの。
ぐちゃぐちゃになった感情は、ついには外へと流れだしてしまった。しゃくり上げる声も震える肩も、杏さんには見せてはいけない。膝を抱えて顔を埋める。私のわがままで杏さんの決意を邪魔していいわけがない。けれど、けれど。
「あんちゃん?」
木漏れ日のように降り注いだ暖かな声。意識を外へ向ければ、すぐそこに杏さんの気配を感じる。こちらに目をやる杏さんの表情は簡単に分かった。
心配そうにこちらを見下ろす顔。それを想像するだけで涙が止まらない。胸の痛みが増していく。どうしたらこの痛みはやむのだろう。どうすれば涙は止まるのだろう。
答えのなかった痛みから逃げるように、顔を上げた。想像が現実のものとなった瞬間、本音があふれるのを抑えきれなかった。
「嫌、です。駄目です。駄目、どうして」
意味のない拒絶が呼吸するように口から漏れる。死んでしまうのが嫌。別れるのは嫌。いなくなるのも嫌。
どうして二度と会えなくなってしまうんですか。そう告げたとしても杏さんはきっと首を横に振る。それを知っているからこそ、これ以上は何も言えなかった。
「あんちゃん落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」
涙でぼやける視界の中、杏さんが困ったように目を泳がせている。そんな顔を見たかったわけじゃない。ずっと笑っていてほしかっただけなのに。
「もしかして怖くなった?」
杏さんがしゃがみ込んで手を握ってくれた。違う、そうじゃない。自分の命なんかいらない。ただ杏さんが生きていてくれれば――。
「すごく、怖いです」
「うん、うん。怖いよね。死んじゃうもんね」
頭を撫でてくれる優しい手。涙も鼻水も拭わずに、しゃくり上げながら頷いた。この姿に杏さんは心打たれるだろうか。心許ない最後のチャンスに杏さんは心揺さぶられるだろか。
私が死ぬのをやめた時、杏さんも生き続けてくれるかもしれないという一種の賭け。誰かと死ぬという連帯感を失った時、杏さんがどう動くかは分からない。しかしとっさにひらめいた最後のチャンスに賭けるしかなかった。これで駄目ならもう、命を委ねるしかない。
「死にたく、ないです。怖いです」
「……そう」
手の動きとは違い、どこか寂しげな声色にどきりと胸が鳴る。今のはどちらだろう。死ねなかった諦めか、それとも一人で死ぬ決意か。歯を食いしばって恐怖を抑え込み、杏さんの顔へ目を向けた。
「それなら私、一人で死ぬね」
視界が急に遠退く。見えていたはずの杏さんが焼き焦げるように黒く染まっていく。杏さんが振り返った先、岩に敷かれたハンカチの上で佇む彼氏さんが見えた。
そんな、嫌、違う。どうして生きると言ってくれないの。どうして離れていってしまうの。耳のそばで聞こえるような鼓動と、言葉すら選べないほどの衝撃。口から出るのは荒い呼吸だけだった。
「あんちゃん」
頬に添えられた手によって杏さんと目が合った。
「今までありがとう。私のわがままについてきてくれて、すごく嬉しかった」
「あ、や、そんな」
首を振ろうとしても顔の皮が揺れ動くだけ。目を細める杏さんに、まるで何をしても無駄と言われているよう。
「できるのなら最後まで一緒にいたかったけど、親友に無理強いはできないもんね」
今、確かに聞こえた。私に対して使われることのなかった言葉。けれど胸に宿った温かいものを標にゆっくりと口を開いた。
「親友?」
「ええ」
杏さんの表情が和らいだ。
「一方通行だけど、私はあんちゃんと一緒にいてすごく楽しかった。だから親友。誰よりも大好きで、初めてで、一番の親友」
幾度となく見てきた柔らかい表情に、余計な思考は全て消し飛んだ。
杏さんが頑固だから聞いてくれない。
死にゆく私がそれを言うのはお門違い。
うそに全てを賭けよう。
そんなのいらなかった。親友に画策もうそもつく必要なんかない。ただ伝えればいい。心の真ん中にあった想いを。
「死なないで、死なないでください。杏さん!」
地面に膝を突いていた杏さんに抱き着いた。バランスを崩して尻餅をついた杏さんをつかみ、さらに強く力を込める。
「ちょっとあんちゃん、待って、落ち着いて」
「死んじゃ駄目なんです。死んでほしくないんです! お願いします、お願いします、お願いします!」
華奢な胴体へ抱き着いた。呪文のように何度も何度も懇願し現実が変わるよう、心の底から祈った。側から見ればみっともない光景なのだろう。高校生にもなって泣きじゃくって、涙も鼻水も流したまま抱き着いて。
けれどそんなこと気にならない。プライドも尊厳も何もかもいらない。全てを失っても杏さんを生かしたい。生きていてほしい。私より一秒でも長く生きて笑っていてほしい。
他人に死んでほしくないなんて初めて。でもそうしてもらうために私は今ここにいる。そのために生まれてきたと確信できるほど、杏さんと離れたくなかった。
「私なんか、生きていても仕方ないよ」
「そんなことありません。杏さんがいないと駄目なんです。私、杏さんに出会えて本当に幸せだったんです」
「嬉しいけど……彼が私の全てなの。私の世界そのものだったから」
後ろ手を突いていた杏さんが姿勢を正した。胴に抱き着く私に手を当て、まるで子どもをあやしてるよう。けれどもただ宥められるわけにはいかなかった。
「彼氏さんを愛する気持ちは否定しません。だけどそんな狭い世界に閉じこもるのは、違うと思います」
抱き着いていた腕を解き、苔だらけの地面に座り直した。涙を拭い鼻水をすする。猫背をしゃんと伸ばしても杏さんより低い目線。
こちらを見下ろす杏さんは鋭い視線で私を射抜いている。怖い。嫌われるのが怖い。だけども親友としての役割を放棄する方がよっぽど怖かった。
「杏さんが生きる世界はもっと広いはずです。現に杏さんが私の世界を広げてくれたんです」
黒く濁った眼から逃げすに告げる。杏さんは答えてくれない。
「人との関わり方や、誰かと一緒にいる楽しさを教えてくれたんです。それこそ私の世界を作ってくれたんですよ。ずっと孤独だと思っていた私に、独りじゃないって言ってくれたじゃないですか」
杏さんが一瞬だけ目を見開き、すぐに顔を背けた。けれどもすぐに険しい顔つきでこちらに目をやった。
「その言葉は嬉しいけれど、これから死ぬあんちゃんに、私の生き死になんて関係ないでしょ?」
視線に込められた敵意にたじろぐ。言葉の裏に隠された真意を汲み取り過ぎて胸が締め付けられる。けれどもまだ伝えたいことを口にしていない。それまではどんな痛みだって耐えられる。
「つい三日前に出会った赤の他人が死ぬ。それだけよ。私がどうなろうがあんちゃんには何の影響も――」
「私が悲しみます!」
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