アンズトレイル

ふみ

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 見慣れた景色に吐き気を催す。胃からの波状攻撃も今ので何回目だろう。きっとこの気持ち悪さは今日中続く。そう考えるだけでまた吐き気に襲われてしまう。
「杏、大丈夫?」
「多分」
「無理しないでいいよ。今日は帰ろうか?」
 隣に座るお父さんがハンドルから手を離し、私の肩に手を置いてくれた。
「ううん。行きたい。行かなきゃ」
「杏さんのために?」
「それもあるけど、教えてもらったことをやってみたくて」
 お父さんが首をかしげる。その姿が杏さんと重なって見えて、ほんの少しだけ気が楽になった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。何かあったら連絡して。母さんでもいいし」
「うん。できたらするね」
 教科書の詰まったリュックを背負い、小さく手を振って車から降りた。九月になろうとも日差しの強さは相変わらず。蝉もまだ夏を楽しんでいるように鳴き続けている。校門までの十メートルちょっと。汗が滲みませんようにと祈りつつ足を踏み出した。
 街路樹の影を踏みながら少しずつ進んでいく。目のやり場がわからず、前を向いたり俯いたり、時折反対側の歩道に視線を向けたり。
 一人寂しく歩く私とは違って、同じ制服を身に纏った大小さまざまな集団が同じ方向へ歩いている。夏休みが明けてもこの光景は変わらない。見覚えのある先輩、クラスメイト、日に焼けた子もちらほら。
 誰もがそれぞれの夏を謳歌してきたのだろう。私もその一人になれるだろうか。杏さんとの旅は無駄ではなかったと、証明できるだろうか。
 レンガ造りの校門をくぐり。そびえたつ校舎を見上げた。ここに来ることはもうないと思っていたのに。そう固く決意しても世界は何も変わらずそこにあり続ける。太陽も校舎も、私を追い越していく生徒たちも。
 以前ならそれが悲しく感じられた。でも今は違う。そんな私のちっぽけさが何だか心強い。杏さんのように大それたことはできなくても、私のためだけに動けばいい。私が杏さんに釣り合うようになるために。
 額の汗を拭い、リュックの肩紐を縋るように強く握りしめる。それから教室を目指した。外と大して変わらない生ぬるい風を廊下で浴びながら、階段を上る。二年三組と記されたプレートが掲げられた教室へ入った。
 中に入ると数人がこちらへ目をやった。けれど会釈や挨拶をするわけでもない。ちらと視線が交差し、再び各々が友だちとの会話に戻っていった。いつものことだ。私もさっさと座ろう。
 等間隔に並べられた机をジグザグに進み、窓際の席にリュックを置いた。とりあえずは教科書を机に戻そう。朝の全体集会までにはきっと――。
「あれ、ダイアンもう来てたの?」
 リュックへ向けていた視線が弧を描く。振り返れば彼女がいた。まるで汚物を見るような目。一カ月前と何も変わっていない。それは胸に秘める恐怖も同じだった。
 心臓が痛い。締め付けられているようにじんじんと痛む。忘れていた吐き気が喉元までやってきた。微かに震えだした手を握り締めても震えは止まらない。
「そこどいて。集会あるまでだべるから」
 手で払うようなジェスチャー。ここは私の席だ。どうしてどかないといけないの。別の席でやってよ。即座に反論は思い付くも口からは何の音も発せない。ただ空気が漏れるだけ。
「てか夏休み明けてもださいとか何なの? メイクも髪もいじらないとかマジブスじゃん」
 骨かと思うくらい細い腕が伸び、私の髪へと触れる。触らないで。杏さんの健康的な腕を見習ってほしい。高校生でそこまでがっつりメイクしている方がおかしいってどうして気付かないの。
 そんな強気な想いも視線も、全て薄汚れた床へと落ちていく。
 怖い。何を言っても言い返されてしまいそう。何をしても無駄になる。暗い思考の先、最終的にはまたあの地へ向かう私の背中が見えた。誰もいない森の中で独り、首を吊って――ああ、違う。駄目。ロープを結った輪に首を入れた向こうに見えてしまった。
 杏さんが最後に見せた、ぎこちない笑みを。
「聞いてんの? なあ、無視すんな。ダイアンのくせに調子乗んなよ? お前なんか死んでも」
「うるさい」
 音が、止んだ。すぐそばで話していたクラスメイトも外から聞こえる蝉の声すらも。全てが静寂に包まれたように何も聞こえなくなった。
「あ? 今なんつった?」
 彼女が眉間にしわを寄せ、すごみが増す。けれども杏さんの睨みに比べたらどうということはない。私はこんなものに恐れていたんだ。徐々に呆れが怒りへと変貌していく。
「うるさいって言ったの。毎日飽きもせず話しかけてきて暇なの?」
 ずっと髪に触れていた手を振り払う。すると思いの外簡単に払い除けられた。
「ダイアンのくせに、お前、ふざけんなよ。誰にもの言って」
「お前だよ」
 今となっては滑稽にも思えるすごみを続ける彼女。杏さんの表情を思い出し、眉間にしわを寄せて一歩踏み込めば後退った。
 恐らく生まれて初めて使ったお前という単語。かつて見たクライムアクションのせりふを頭に並べることで、ようやく口にできた反撃。今なら続きもすらすらと言えそうだ。
「人をいじめて何が楽しいの。悪いことだってわかってる? 私が警察に相談したらどうなるかわかってるんだよね?」
「警察なんて、そんな、証拠もないのに」
「証拠なら全部あるよ。話す時は全部録音してるから、今ここで流そうか?」
 スマホを掲げたことで、明らかに彼女が動揺している。どうなるかわかっているらしい。
「今のご時世でさ、テレビでもネットでもいじめ加害者がどうなったか知ってるよね」
「それ、は」
 わかりやすく目を泳がせてくれた。そのしぐさに罪悪感が生まれる。けれどもこの優しさは自分を傷付けるだけ。今は怒っていい。自分に素直になっていい。言いたいことを言ってから考えればいい。
「知らないならどうなるか試してみようよ。まずは学校の皆に知ってもらう? ちょうどこの後、全校集会があるから流してみようか。そうだ、まずは彼氏さんに聞いてもらう?」
 彼氏という単語に彼女が食い付いた。俯きがちだった視線が釣り上がり、涙目でこちらを見ている。
「待って、彼は関係ないでしょ」
「関係ないなら聞かせてあげてもいいよね」
「駄目、待って、お願い」
「私がそう頼んだら、いじめるのやめた?」
 まるで立場が逆転したよう。涙目の彼女と見下すような目をする私。いけない。これ以上は彼女と同じになってしまう。すでに遅いような気もするけれど、ここらが潮時だろう。
「もう関わらないで」
 机に出しっぱなしだったリュックと教科書を仕舞い、教室を後にした。体育館でまた絡まれたらどうしよう。まあその時はその時か。影も形もない録音データをちらつかせればおとなしくなるかな。
 しんと静まり返っていた蝉の声が息を吹き返したようによく聞こえる。どこまでも広がる空と、目も開けられないほどの眩しさを放つ太陽。汗だか冷や汗だかわからないものが背中を駆けていく。
 もうすぐ夏も終わる。決して無駄じゃなかった宝物のような夏が終わり、季節が移ろいでいく。
 杏さんに会うまで何度夏を経験すればいいのだろう。軽やかな風が吹く窓辺に問いかけても、答えるものはいなかった。
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