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第15話 茶会の逆転
茶会の招待状は、朝の光の中でやけに白く見えた。
厚みのある上等な紙。控えめな金の縁取り。差出人はロザリンド侯爵夫人――王都の慈善事業をいくつも取りまとめる、年長の貴婦人だ。
『昨夜は慌ただしくご挨拶も十分にできませんでしたので、明後日の午後、ささやかな茶会へお越しくださいませ』
文面だけ見れば、ごく礼儀正しい招きだ。
けれど今の私にとって、社交界の“ささやかな”は、あまり信用できる言葉ではない。
私は書状を机へ置き、小さく息を吐いた。
「嫌そうな顔だな」
記録室の机で書類を読んでいたアルヴェインが言う。
「嬉しそうに見える方が不自然でしょう」
「そうだな」
彼はあっさり頷いた。
「で、行くのか」
行くのか。
いつも通り、決めるのは私だという聞き方だった。
「……閣下なら、どうなさいますか」
私が問うと、彼は視線だけを上げる。
「参考にならん」
「なぜです」
「私は嫌なら潰す」
「大変参考にならないですね」
思わず返すと、彼はほんのわずかに口元を動かした。
笑った、というほどではない。けれど、冷たい石みたいな顔が一瞬だけ人間じみる、その程度の変化だった。
「君はどうしたい」
改めて問われる。
私は招待状を見下ろす。
正直に言えば、行きたくはない。茶会など、噂と視線の濃縮液みたいなものだ。しかも、今の私は面白い的でしかないだろう。
けれど同時に、分かってもいる。
ここで避ければ、“やはり人前に出られないような後ろ暗さがあるのだ”と、都合よく解釈されるだけだと。
「……行くべきなのでしょうね」
「質問に答えろ」
アルヴェインは手元のペンを置いた。
「行く“べき”ではなく、行きたいのか、行きたくないのかだ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
そう問われることに、まだ慣れていない。
家のためにどうか。場が収まるか。誰かが困らないか。
そういう基準ならすぐに答えられるのに、自分がどうしたいかとなると、途端に輪郭が曖昧になる。
「……怖いです」
結局、最初に出たのはそれだった。
「でも、行きたくないわけではありません」
アルヴェインは少しだけ目を細める。
「なら行け」
「簡単に仰いますね」
「簡単だ」
彼は淡々としている。
「今回は勝つ必要もない。一つだけ、間違いを正せばいい」
「間違いを」
「妹君を断罪するな。君への断罪の穴だけを示せ」
一拍。
「それなら、今の君にもできる」
今の君にも。
その言い方は不思議だった。
無条件に大丈夫だとは言わない。足りないところがある前提で、それでも届く範囲を示してくる。
私は小さく息を吐き、それから頷いた。
「……参ります」
「結構」
その“結構”は、いつものように短いのに、少しだけ背中を押した。
茶会の会場は、侯爵家の南向きの温室だった。
昼の柔らかな光が硝子越しに降り注ぎ、春先の花が白い卓布の上にまで香りを落としている。華やかだが、夜会ほど逃げ場がない。昼の茶会は、笑顔の形をした観察と値踏みが正面から飛んでくるからだ。
案の定、私が侍女に案内されて温室へ入った瞬間、いくつもの視線が止まった。
扇の陰の囁き。
一瞬で整え直される微笑み。
あからさまではないのに、こちらが“話題の中心”だとはっきり分かる空気。
「リュシエンヌ嬢」
ロザリンド侯爵夫人が、席の奥から穏やかに手を差し伸べた。
「よくいらしてくださったわ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
礼を取る。声が震えていないことに、自分で少し驚いた。
侯爵夫人は年齢を重ねた美しさのある人だった。派手ではないが、周囲が自然と彼女の言葉を待つ種類の存在感を持っている。
彼女は私を正面の席へ導きながら、わずかに目を細めた。
「昨夜は随分働いていらしたわね」
「お見苦しくなかったなら幸いです」
「逆よ」
侯爵夫人はさらりと言った。
「見ていて気持ちがよかったわ」
その一言で、周囲の空気がほんの少しだけ動いた。
私はすぐには返せなかった。
こんなふうに、最初から“働いていた側”として置かれるとは思っていなかったからだ。
席につくと、見知った顔がいくつかあることに気づく。
マルシェ伯爵未亡人もいた。前より少しだけ居心地悪そうにしている。私と目が合うと、扇を持つ手がわずかに止まった。
他にも、母と親しい伯爵夫人、フィオナを可愛がっていた年若い子爵夫人、基金関係で顔を合わせたことのある婦人たち。
揃っている。
わざとだろう。
この茶会は、ただの親睦ではない。
社交界の“空気”が、どちらへ傾き始めるかを見るための場だ。
茶が配られ、菓子皿が回り、最初の十分ほどは無難な天気と花の話が続いた。
その無難さの方が、かえって緊張する。誰もが、どこで本題へ触れるかを測っているのが分かるからだ。
最初に切り込んだのは、案の定、母と親しい伯爵夫人だった。
「昨今は、若い方々も色々と大変ですわね」
微笑みながら、ちらりと私を見る。
「少し行き違いがあるだけで、随分大きな話になってしまうのでしょう?」
行き違い。
ずいぶん優しく包んだ言い方だ。
だが、ここで感情的に否定した方が負けるのも分かる。
「ええ」
私はカップを置いて答えた。
「少なくとも、“行き違い”の前提で済ませられることばかりではないようです」
伯爵夫人の笑みがほんの少しだけ固まる。
「まあ、そうなの?」
「昨夜の段階で、監察府で確認中のことがいくつもございましたから」
私はあくまで穏やかに言う。
「ですので、今のところ私から申し上げられるのは、断定されていたほど単純な話ではない、ということだけです」
攻撃してはいない。
でも、曖昧に飲み込んでもいない。
その中間の位置へ、どうにか立てた気がした。
温室の空気が少しだけ変わる。
今度は若い子爵夫人が、気遣わしげな顔で口を開いた。
「でも、フィオナ様は本当にお可哀想でしたわ。あの夜も、とても怯えていらして」
そこだけは譲れないと言いたげな声音だった。
「わたくし、ああいうお顔を見ると、どうしても……」
侯爵夫人が彼女をたしなめるより先に、私は口を開いた。
「ええ。怯えていたのでしょう」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「ただ、“怯えていた”ことと、“何があったか”は、同じではありません」
子爵夫人が瞬く。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向くのが分かった。
「少なくとも」
私は続けた。
「私を断罪なさった方々の中で、“その瞬間”を見たと断言できる方は、今のところいらっしゃいません」
その一言は、思っていた以上によく通った。
温室が静まる。
カップの触れ合う音まで止まったように感じた。
「……まあ」
誰かが小さく息を呑む。
私は自分の心臓が少し速くなっているのを感じながら、それでも視線を逸らさなかった。
「階段の件にしても、見たとされていたのは悲鳴の後のことです。手紙の件も、現在確認が続いております」
少しだけ間を置く。
「ですから私は、妹を責めたいわけではありません。ただ、私がやったと断定できるほどの材料は、まだどなたの手にもない――そう申し上げたいのです」
妹を責めたいわけではない。
その一言を先に置いたことで、場の空気がわずかに変わるのが分かった。
感情で潰しにかかっているのではないと伝わったのだろう。
侯爵夫人が、そこで初めてはっきりと頷く。
「それは大事なことね」
彼女は周囲を見回した。
「わたくしたちは、泣いていた方の顔は覚えていても、その前後の順番までは曖昧なことが多いもの」
その言葉に、マルシェ伯爵未亡人が目を伏せた。
数秒の沈黙のあと、彼女は扇を閉じ、やや硬い声音で口を開く。
「……少なくとも、わたくしは」
皆の視線が彼女へ集まる。
「あの時、“突き飛ばす瞬間”を見たわけではありませんでしたわ」
それは小さい声だったが、静かな温室では十分すぎるほど届いた。
「悲鳴のあとで、フィオナ嬢が涙ぐんでいて、そばに姉君がいらした。それで、つい……印象で話してしまったのです」
場が、目に見えない形で揺れた。
否定でも擁護でもない。
ただ、ひとつの土台が崩れた音だった。
私はそこで追撃しなかった。
ここで誰かを責めれば、また別の空気に流される。必要なのは勝ち誇ることではなく、“今までの見え方だけでは足りない”と周囲に理解させることだ。
「ありがとうございます、伯爵未亡人」
私は静かに言った。
「それを今、おっしゃっていただけただけで十分です」
未亡人は少しだけ目を見開いた。
責められると思っていたのだろう。
けれど私は、それ以上を望まなかった。
すると今度は、向かいの伯爵夫人が眉を寄せる。
「でも、監察府が確認中だからといって、全てがひっくり返るわけではありませんでしょう?」
「もちろんです」
私は頷く。
「ですから私も、まだ何も片づいたとは思っておりません」
一拍置いて、
「ただ、“もう決まったこと”のように扱われるのは違うと、そう申し上げているだけです」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
もう決まったことではない。
処分停止命令を受け取った日のことを思い出す。
あの時アルヴェインは、まだ追放されていないのだと、ただ事実として言った。
その事実を、今の私は初めて人前で使っている。
侯爵夫人がカップを置き、ゆるやかに話題を引き取った。
「少なくとも、昨夜わたくしが見た限りでは」
彼女は周囲へ向かって言う。
「リュシエンヌ嬢は、逃げて隠れる方ではなく、仕事をきちんとする方でしたわ」
視線がこちらへ向く。
「寄付札の取り違えも、この方が止めてくださったのよ」
そこまで言われるとは思わず、私は少しだけ息を止めた。
数人の婦人が小さく目を見開く。
マルシェ伯爵未亡人でさえ、ほんの少しだけ意外そうな顔をした。
「まあ」
「それは助かったでしょうね」
「公爵閣下の随員として?」
囁きの質が変わる。
面白がるものから、測り直すものへ。
私はその変化を肌で感じながら、カップへ手を伸ばした。
指先が少し冷えている。
でも、震えてはいなかった。
茶会の後半は、露骨な攻撃が減った代わりに、確認するような視線が増えた。
誰も私に味方したわけではない。
けれど少なくとも、“可哀想な妹をいじめた悪女”だけではなくなった。
それで十分だった。
辞去の挨拶を済ませた後、侯爵夫人が一人だけ私を引き留めた。
「上出来だったわ」
彼女は小さく笑う。
「勝とうとしなかったのが良かったのね」
「……そのつもりでした」
「つもり、ではなく、実際そうなっていたわ」
彼女は扇の先で、軽く私の肩口を示す。
「公爵閣下は、いい場を用意なさるのね」
「場、ですか」
「ええ。庇い立てして黙らせるのではなく、あなたが自分で立てる場を」
一拍。
「それは、簡単なようで難しいのよ」
私はすぐには答えられなかった。
温室を出て、侯爵家の回廊を歩く。
外の空気は少しだけ冷たく、頬の熱を冷ましてくれる気がした。
勝ったわけではない。
何も決着していない。
でも、“もう決まったことではない”と、人前で一度ちゃんと言えた。
その事実だけで、胸の奥の空気が少し違う。
玄関先には、すでに公爵家の馬車が待っていた。
私は一度だけ深く息を吸い、それから歩み寄る。
扉の前に立つアルヴェインの姿を見た瞬間、不思議なことに、肩の力が少しだけ抜けた。
「お帰りなさいませ、とは申しませんのね」
私が言うと、彼はわずかに眉を動かした。
「君の家ではないからな」
「……ずいぶん現実的ですね」
「事実だ」
相変わらずだ。
でも、その相変わらずさが今は妙に落ち着く。
「どうだった」
問われて、私は少しだけ考える。
「疲れました」
「そうだろうな」
「でも」
言いながら、自分でも少し驚く。
「思っていたより、息ができました」
アルヴェインは短く頷く。
「上出来だ」
その一言は、侯爵夫人の言葉よりも、なぜかずっと深く残った。
私は何か返そうとして、でもうまく言葉にならず、小さく視線を落とす。
その時だった。
「閣下」
公爵家の下役が足早に近づいてきた。
「少々」
彼は私の前で一度口をつぐみ、アルヴェインへ目配せする。
「構わん。言え」
「……本日、フィオナ嬢から取次ぎの願いが二度ございました」
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
「一度は書状で、もう一度は直接、屋敷への訪問を申し出ております」
「断ったか」
「はい。ですが、まだ諦めていないかと」
私は何も言えなかった。
フィオナが、アルヴェインへ。
なぜ。
いや、考えれば理由は分かる。私を揺らしても足りないなら、今度はこの人に近づくつもりなのだ。
けれど、そう頭で分かることと、胸の奥がざわつかないことは別だった。
アルヴェインはそれを気にした様子もなく、下役へ短く命じる。
「今後も通すな」
「はっ」
下役が下がる。
私はまだ、言葉を探せないままでいた。
「……驚いたか」
アルヴェインが問う。
「ええ」
私は正直に答える。
「少し」
「そうか」
それだけだった。
事情を説明しない。
安心させるようなことも言わない。
でも、その“そうか”の後ろに、何をするかはもう決めているという静けさがあった。
馬車の扉が開く。
私はそこへ乗り込みながら、胸の奥のざわつきをどうにか押し込めた。
今日、空気は少し変わった。
でも同時に、フィオナもまた次の手を打ってきている。
逆転は始まったばかりだ。
そう思い知らされるには、十分すぎる報告だった。
厚みのある上等な紙。控えめな金の縁取り。差出人はロザリンド侯爵夫人――王都の慈善事業をいくつも取りまとめる、年長の貴婦人だ。
『昨夜は慌ただしくご挨拶も十分にできませんでしたので、明後日の午後、ささやかな茶会へお越しくださいませ』
文面だけ見れば、ごく礼儀正しい招きだ。
けれど今の私にとって、社交界の“ささやかな”は、あまり信用できる言葉ではない。
私は書状を机へ置き、小さく息を吐いた。
「嫌そうな顔だな」
記録室の机で書類を読んでいたアルヴェインが言う。
「嬉しそうに見える方が不自然でしょう」
「そうだな」
彼はあっさり頷いた。
「で、行くのか」
行くのか。
いつも通り、決めるのは私だという聞き方だった。
「……閣下なら、どうなさいますか」
私が問うと、彼は視線だけを上げる。
「参考にならん」
「なぜです」
「私は嫌なら潰す」
「大変参考にならないですね」
思わず返すと、彼はほんのわずかに口元を動かした。
笑った、というほどではない。けれど、冷たい石みたいな顔が一瞬だけ人間じみる、その程度の変化だった。
「君はどうしたい」
改めて問われる。
私は招待状を見下ろす。
正直に言えば、行きたくはない。茶会など、噂と視線の濃縮液みたいなものだ。しかも、今の私は面白い的でしかないだろう。
けれど同時に、分かってもいる。
ここで避ければ、“やはり人前に出られないような後ろ暗さがあるのだ”と、都合よく解釈されるだけだと。
「……行くべきなのでしょうね」
「質問に答えろ」
アルヴェインは手元のペンを置いた。
「行く“べき”ではなく、行きたいのか、行きたくないのかだ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
そう問われることに、まだ慣れていない。
家のためにどうか。場が収まるか。誰かが困らないか。
そういう基準ならすぐに答えられるのに、自分がどうしたいかとなると、途端に輪郭が曖昧になる。
「……怖いです」
結局、最初に出たのはそれだった。
「でも、行きたくないわけではありません」
アルヴェインは少しだけ目を細める。
「なら行け」
「簡単に仰いますね」
「簡単だ」
彼は淡々としている。
「今回は勝つ必要もない。一つだけ、間違いを正せばいい」
「間違いを」
「妹君を断罪するな。君への断罪の穴だけを示せ」
一拍。
「それなら、今の君にもできる」
今の君にも。
その言い方は不思議だった。
無条件に大丈夫だとは言わない。足りないところがある前提で、それでも届く範囲を示してくる。
私は小さく息を吐き、それから頷いた。
「……参ります」
「結構」
その“結構”は、いつものように短いのに、少しだけ背中を押した。
茶会の会場は、侯爵家の南向きの温室だった。
昼の柔らかな光が硝子越しに降り注ぎ、春先の花が白い卓布の上にまで香りを落としている。華やかだが、夜会ほど逃げ場がない。昼の茶会は、笑顔の形をした観察と値踏みが正面から飛んでくるからだ。
案の定、私が侍女に案内されて温室へ入った瞬間、いくつもの視線が止まった。
扇の陰の囁き。
一瞬で整え直される微笑み。
あからさまではないのに、こちらが“話題の中心”だとはっきり分かる空気。
「リュシエンヌ嬢」
ロザリンド侯爵夫人が、席の奥から穏やかに手を差し伸べた。
「よくいらしてくださったわ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
礼を取る。声が震えていないことに、自分で少し驚いた。
侯爵夫人は年齢を重ねた美しさのある人だった。派手ではないが、周囲が自然と彼女の言葉を待つ種類の存在感を持っている。
彼女は私を正面の席へ導きながら、わずかに目を細めた。
「昨夜は随分働いていらしたわね」
「お見苦しくなかったなら幸いです」
「逆よ」
侯爵夫人はさらりと言った。
「見ていて気持ちがよかったわ」
その一言で、周囲の空気がほんの少しだけ動いた。
私はすぐには返せなかった。
こんなふうに、最初から“働いていた側”として置かれるとは思っていなかったからだ。
席につくと、見知った顔がいくつかあることに気づく。
マルシェ伯爵未亡人もいた。前より少しだけ居心地悪そうにしている。私と目が合うと、扇を持つ手がわずかに止まった。
他にも、母と親しい伯爵夫人、フィオナを可愛がっていた年若い子爵夫人、基金関係で顔を合わせたことのある婦人たち。
揃っている。
わざとだろう。
この茶会は、ただの親睦ではない。
社交界の“空気”が、どちらへ傾き始めるかを見るための場だ。
茶が配られ、菓子皿が回り、最初の十分ほどは無難な天気と花の話が続いた。
その無難さの方が、かえって緊張する。誰もが、どこで本題へ触れるかを測っているのが分かるからだ。
最初に切り込んだのは、案の定、母と親しい伯爵夫人だった。
「昨今は、若い方々も色々と大変ですわね」
微笑みながら、ちらりと私を見る。
「少し行き違いがあるだけで、随分大きな話になってしまうのでしょう?」
行き違い。
ずいぶん優しく包んだ言い方だ。
だが、ここで感情的に否定した方が負けるのも分かる。
「ええ」
私はカップを置いて答えた。
「少なくとも、“行き違い”の前提で済ませられることばかりではないようです」
伯爵夫人の笑みがほんの少しだけ固まる。
「まあ、そうなの?」
「昨夜の段階で、監察府で確認中のことがいくつもございましたから」
私はあくまで穏やかに言う。
「ですので、今のところ私から申し上げられるのは、断定されていたほど単純な話ではない、ということだけです」
攻撃してはいない。
でも、曖昧に飲み込んでもいない。
その中間の位置へ、どうにか立てた気がした。
温室の空気が少しだけ変わる。
今度は若い子爵夫人が、気遣わしげな顔で口を開いた。
「でも、フィオナ様は本当にお可哀想でしたわ。あの夜も、とても怯えていらして」
そこだけは譲れないと言いたげな声音だった。
「わたくし、ああいうお顔を見ると、どうしても……」
侯爵夫人が彼女をたしなめるより先に、私は口を開いた。
「ええ。怯えていたのでしょう」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「ただ、“怯えていた”ことと、“何があったか”は、同じではありません」
子爵夫人が瞬く。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向くのが分かった。
「少なくとも」
私は続けた。
「私を断罪なさった方々の中で、“その瞬間”を見たと断言できる方は、今のところいらっしゃいません」
その一言は、思っていた以上によく通った。
温室が静まる。
カップの触れ合う音まで止まったように感じた。
「……まあ」
誰かが小さく息を呑む。
私は自分の心臓が少し速くなっているのを感じながら、それでも視線を逸らさなかった。
「階段の件にしても、見たとされていたのは悲鳴の後のことです。手紙の件も、現在確認が続いております」
少しだけ間を置く。
「ですから私は、妹を責めたいわけではありません。ただ、私がやったと断定できるほどの材料は、まだどなたの手にもない――そう申し上げたいのです」
妹を責めたいわけではない。
その一言を先に置いたことで、場の空気がわずかに変わるのが分かった。
感情で潰しにかかっているのではないと伝わったのだろう。
侯爵夫人が、そこで初めてはっきりと頷く。
「それは大事なことね」
彼女は周囲を見回した。
「わたくしたちは、泣いていた方の顔は覚えていても、その前後の順番までは曖昧なことが多いもの」
その言葉に、マルシェ伯爵未亡人が目を伏せた。
数秒の沈黙のあと、彼女は扇を閉じ、やや硬い声音で口を開く。
「……少なくとも、わたくしは」
皆の視線が彼女へ集まる。
「あの時、“突き飛ばす瞬間”を見たわけではありませんでしたわ」
それは小さい声だったが、静かな温室では十分すぎるほど届いた。
「悲鳴のあとで、フィオナ嬢が涙ぐんでいて、そばに姉君がいらした。それで、つい……印象で話してしまったのです」
場が、目に見えない形で揺れた。
否定でも擁護でもない。
ただ、ひとつの土台が崩れた音だった。
私はそこで追撃しなかった。
ここで誰かを責めれば、また別の空気に流される。必要なのは勝ち誇ることではなく、“今までの見え方だけでは足りない”と周囲に理解させることだ。
「ありがとうございます、伯爵未亡人」
私は静かに言った。
「それを今、おっしゃっていただけただけで十分です」
未亡人は少しだけ目を見開いた。
責められると思っていたのだろう。
けれど私は、それ以上を望まなかった。
すると今度は、向かいの伯爵夫人が眉を寄せる。
「でも、監察府が確認中だからといって、全てがひっくり返るわけではありませんでしょう?」
「もちろんです」
私は頷く。
「ですから私も、まだ何も片づいたとは思っておりません」
一拍置いて、
「ただ、“もう決まったこと”のように扱われるのは違うと、そう申し上げているだけです」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
もう決まったことではない。
処分停止命令を受け取った日のことを思い出す。
あの時アルヴェインは、まだ追放されていないのだと、ただ事実として言った。
その事実を、今の私は初めて人前で使っている。
侯爵夫人がカップを置き、ゆるやかに話題を引き取った。
「少なくとも、昨夜わたくしが見た限りでは」
彼女は周囲へ向かって言う。
「リュシエンヌ嬢は、逃げて隠れる方ではなく、仕事をきちんとする方でしたわ」
視線がこちらへ向く。
「寄付札の取り違えも、この方が止めてくださったのよ」
そこまで言われるとは思わず、私は少しだけ息を止めた。
数人の婦人が小さく目を見開く。
マルシェ伯爵未亡人でさえ、ほんの少しだけ意外そうな顔をした。
「まあ」
「それは助かったでしょうね」
「公爵閣下の随員として?」
囁きの質が変わる。
面白がるものから、測り直すものへ。
私はその変化を肌で感じながら、カップへ手を伸ばした。
指先が少し冷えている。
でも、震えてはいなかった。
茶会の後半は、露骨な攻撃が減った代わりに、確認するような視線が増えた。
誰も私に味方したわけではない。
けれど少なくとも、“可哀想な妹をいじめた悪女”だけではなくなった。
それで十分だった。
辞去の挨拶を済ませた後、侯爵夫人が一人だけ私を引き留めた。
「上出来だったわ」
彼女は小さく笑う。
「勝とうとしなかったのが良かったのね」
「……そのつもりでした」
「つもり、ではなく、実際そうなっていたわ」
彼女は扇の先で、軽く私の肩口を示す。
「公爵閣下は、いい場を用意なさるのね」
「場、ですか」
「ええ。庇い立てして黙らせるのではなく、あなたが自分で立てる場を」
一拍。
「それは、簡単なようで難しいのよ」
私はすぐには答えられなかった。
温室を出て、侯爵家の回廊を歩く。
外の空気は少しだけ冷たく、頬の熱を冷ましてくれる気がした。
勝ったわけではない。
何も決着していない。
でも、“もう決まったことではない”と、人前で一度ちゃんと言えた。
その事実だけで、胸の奥の空気が少し違う。
玄関先には、すでに公爵家の馬車が待っていた。
私は一度だけ深く息を吸い、それから歩み寄る。
扉の前に立つアルヴェインの姿を見た瞬間、不思議なことに、肩の力が少しだけ抜けた。
「お帰りなさいませ、とは申しませんのね」
私が言うと、彼はわずかに眉を動かした。
「君の家ではないからな」
「……ずいぶん現実的ですね」
「事実だ」
相変わらずだ。
でも、その相変わらずさが今は妙に落ち着く。
「どうだった」
問われて、私は少しだけ考える。
「疲れました」
「そうだろうな」
「でも」
言いながら、自分でも少し驚く。
「思っていたより、息ができました」
アルヴェインは短く頷く。
「上出来だ」
その一言は、侯爵夫人の言葉よりも、なぜかずっと深く残った。
私は何か返そうとして、でもうまく言葉にならず、小さく視線を落とす。
その時だった。
「閣下」
公爵家の下役が足早に近づいてきた。
「少々」
彼は私の前で一度口をつぐみ、アルヴェインへ目配せする。
「構わん。言え」
「……本日、フィオナ嬢から取次ぎの願いが二度ございました」
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
「一度は書状で、もう一度は直接、屋敷への訪問を申し出ております」
「断ったか」
「はい。ですが、まだ諦めていないかと」
私は何も言えなかった。
フィオナが、アルヴェインへ。
なぜ。
いや、考えれば理由は分かる。私を揺らしても足りないなら、今度はこの人に近づくつもりなのだ。
けれど、そう頭で分かることと、胸の奥がざわつかないことは別だった。
アルヴェインはそれを気にした様子もなく、下役へ短く命じる。
「今後も通すな」
「はっ」
下役が下がる。
私はまだ、言葉を探せないままでいた。
「……驚いたか」
アルヴェインが問う。
「ええ」
私は正直に答える。
「少し」
「そうか」
それだけだった。
事情を説明しない。
安心させるようなことも言わない。
でも、その“そうか”の後ろに、何をするかはもう決めているという静けさがあった。
馬車の扉が開く。
私はそこへ乗り込みながら、胸の奥のざわつきをどうにか押し込めた。
今日、空気は少し変わった。
でも同時に、フィオナもまた次の手を打ってきている。
逆転は始まったばかりだ。
そう思い知らされるには、十分すぎる報告だった。
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