妹に悪女の罪を着せられ追放された私を、冷徹監察公爵だけが信じていました

れおぽん

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第33話 切られる名

 フィオナの証言が終わったあと、聴取室の空気は目に見えない形で変わっていた。

 誰も大きな声は出さない。
 けれど、視線の向きが違う。

 つい先ほどまでこの場にあったのは、“可哀想な妹が怯えている”という見え方だった。
 今は違う。
 姉が最後に引き受けることを前提にしていた妹が、公の場でそれを認めた。その事実が、場の芯を少しずらしてしまったのだ。

 私は扉の外の長椅子に座ったまま、静かに息を整えていた。

「顔色は悪いな」
 横でアルヴェインが言う。

「悪くないと仰ってくださる場面では」
「ない」
 即答だった。
「だが、立てる」
「……本当に、そういう言い方しかしませんね」
「足りるだろう」
「悔しいですが」
 私は小さく息を吐く。
「今は、足ります」

 それだけのやり取りで、少しだけ喉のつかえが下りる。

 扉の向こうで、呼び出しの声が響いた。

「次証言者、アーネスト・ヴァレール伯爵」

 胸の奥が小さく跳ねる。

 父だ。
 ついに来た、と思った。

 昔から、父は人前で崩れない。
 怒っても、困っても、まずは伯爵としての顔を先に出す人だ。だからこそ、家の中では母が空気を整え、私は帳面と文を整え、フィオナはただ守られる妹でいられた。

 その頂点に立っていたのが、父だった。

 私は扉を見つめる。
 中は見えない。だが、声は少しだけ届く。

「氏名を」
「アーネスト・ヴァレール」

 低い、抑えた声。
 やはり父は取り乱していない。

「提出済みの補足会計資料、個人手控え帳、家内支出記録について確認する」
 一拍。
「まず、この隠し帳簿は伯爵自身の筆跡に相違ないか」

 少しの沈黙。
 父がどう答えるか、私はもう分かっている気がした。

「……私のものだ」
 やはり、そこは否定しない。
 否定できないところは認める。その上で意味をずらす。それが父のやり方だ。

「記載された“基金穴埋め”“口止め”“母へ”の注記について説明を」
「家を回す上での内部メモだ」
 父の声は変わらない。
「大仰に解釈されているが、不正の意図ではない」
「では、何の意図だ」
「調整だ」
 一拍。
「伯爵家には、表へ出せぬ調整がある」

 私は思わず目を閉じたくなった。
 ああ、やっぱり、と心のどこかが冷える。

 父は最後まで、そこを変えない。
 罪ではなく調整。隠蔽ではなく家の運営。人を傷つけたことより先に、回したことの理屈を出す。

「確認する」
 審査役の声が落ちる。
「妹君関連の支出が、長女管理分の社交費へ混ぜられていた事実は」
「管理上の便宜だ」
「長女本人の了解は」
「家内の予算だ」
 父は即答した。
「いちいち娘一人に裁量を持たせていては、家は回らん」

 その一言が、胸の奥へ重く落ちた。

 いちいち娘一人に。
 裁量を持たせていては。

 私はようやく分かる。
 父にとって、私は本当に“使える場所へ置く駒”の一つだったのだ。重宝はされる。信頼もされる。だが、それは人としてではなく、家を回す機能としてだった。

「……聞くな」
 すぐ横で、アルヴェインの低い声がした。

 私ははっとして顔を上げる。
「え」
「今の言葉を、そのまま自分の価値にするな」
 一拍。
「伯爵の限界だ」

 その一言で、どうにか息が戻る。

 扉の向こうでは、審査役の声がさらに冷たくなっていた。

「では、長女の字や名を家内で便宜的に利用した件について」
「便宜的、というより当然の範囲だ」
 父が言う。
「娘は家の一部だ。長女が整えたものを家内で使うことの、何が問題なのか」
 場内に、小さなざわめきが起きるのが分かった。

 それは父にとって、きっと自然な論理なのだ。
 でも今、この場では、その自然さの方が異様に響く。

「問題を理解していないのか」
 審査役が問う。
「理解はしている」
 父の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「だが、家を守るために必要なことはある」
「その“必要”の中に、長女本人の不利益も含まれる」
「結果としてそうなった面はある」
 私はそこで、思わず手を握りしめた。

 結果として。
 父は今、そう言った。

 私が修道院送りにされかけたこと。
 悪女として断罪されたこと。
 名前と字を使われたこと。
 全部が、この人にとっては“結果としてそうなった面”なのだ。

 扉の向こうで、次の問いが落ちる。

「なら聞く。伯爵は、長女を守る意思があったか」
 長い沈黙。

 私は息を止めた。
 ここで、どう答える。
 父は。

「……家を守る意思はあった」
 その答えに、私は何も感じないはずだった。
 予想していた。分かっていた。そういう人だと知っていた。
 なのに、実際に公の場で言葉になると、胸のどこかがひどく静かに冷えていく。

「質問に答えろ」
 審査役の声は容赦がない。
「長女本人を守る意思があったか」
 また沈黙。

 そして、父は言った。

「長女一人を優先して、伯爵家全体を危うくするつもりはなかった」

 その瞬間、空気が凍った。

 私は扉を見ていた。
 見えないのに、父の顔がありありと浮かぶ。きっと、苦渋の決断のような顔をしているのだろう。苦しそうに見せながら、自分が最も損をしない言葉を選んだ顔で。

 でももう、それを“父なりの苦しさ”として受け取る場所には戻れなかった。

「……そうですか」
 気づけば、そう呟いていた。

 アルヴェインは何も言わない。
 ただ、その沈黙だけが今はありがたい。

 扉の向こうで、ざわめきが広がる。
 審査役がさらに追う。

「つまり伯爵は、長女の不利益を容認してでも、家を優先した」
「必要があった」
「長女の字と名も、その“必要”の内か」
「そうだ」

 その一言で、もう十分だった。

 私はようやく、父の中で何が優先順位の頂点にあるのかを、感情ではなく言葉で受け取った。
 家。
 伯爵家。
 形。
 体面。
 そして、そのために使える長女。

 私は長く、その構造の中で便利に使われてきたのだ。

「……立てるか」
 低い声がすぐ横で落ちる。

 私は顔を上げた。
 アルヴェインがこちらを見ている。

「ええ」
 声は少しだけ掠れたが、ちゃんと出た。
「大丈夫、ではありませんが」
「知っている」
「でも」
 一拍。
「やっと、全部つながりました」

 その時、扉が開いた。

 記録係が数枚の紙を抱えて出てくる。
 その隙間から一瞬だけ、中が見えた。

 父はまだ証言台に立っていた。
 母は青ざめ、フィオナは椅子の端で固まっている。
 そして、場の空気はもう“娘の誤解”ではなく、“家が何を優先したか”の方へ動いていた。

 記録係が紙を持って通り過ぎる。
 私はそこに目を落とした。

 父の証言要旨の一節が、まだ乾ききらないインクでこう記されている。

『長女一人を優先して伯爵家全体を危うくするつもりはなかった』

 目で読んだ瞬間、胸の奥の最後の何かが静かに切れた。

 期待、ではない。
 たぶんもっと前に終わっていた。
 これは、“どこかでまだ家族として見てほしかった気持ち”の切れる音に近かった。

「……閣下」
 私はその紙から目を離せずに言った。
「これで、もう本当に終わりですね」
「何が」
「家の中で分かり合えるのでは、という私の方の甘さが」
 自分で言って、自分の声の静けさに少し驚く。

 アルヴェインは短く頷いた。

「そうだな」
 一拍。
「だが、その分だけ前へ出た」

 慰めではない。
 けれど、今の私にはそれで十分だった。

 扉の向こうで、審査役の声がまた響く。

「確認する。伯爵は、必要なら長女の名も立場も切るということか」

 今度の沈黙は短かった。

「……家を守るためなら、やむを得ん」

 私は静かに息を吐いた。

 もう十分だ。
 これ以上、父の言葉で私の何かが削れることはない。

「次は」
 アルヴェインが言う。
「君ではない」
 私は顔を上げる。
「え」
「今、崩れているのは伯爵の体面だ」
 一拍。
「君は、もうその下敷きに戻るな」

 その言葉が、今までよりもずっと深く入った。

 私は小さく頷く。
「……はい」

 ちょうどその時、聴取室の中で一段大きなざわめきが起きた。
 何かが動いたのだと分かる。

 扉が再び開く。
 下役が顔を出し、短く告げた。

「伯爵夫人から、追加の申し出です」
 私とアルヴェインが同時にそちらを見る。
「“次の証言で、自分が話す内容を変えたい”と」

 私は一瞬、言葉を失った。

 母が。
 変える。

 それは、場が父の側から崩れ始めたということだった。
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