前妻を忘れられない公爵に嫁ぎましたが、私は代わりにはなりません

れおぽん

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第14話 奥方として初めて命じます



 庭先の空気を破ったのは、慌てた足音だった。

「イレーネ様!」

 若い侍女が半ば駆けるようにこちらへ来て、私たちの前で慌てて一礼する。息が上がっているのは、ただ走ってきたからだけではないらしい。

「どうしたの」
 イレーネがすぐに問い返すと、侍女は困り切った顔で答えた。

「厨房で、保存食の割り振りが……それから、今朝届くはずだった薪も足りなくて」
「薪が?」
「はい、北棟の方へ回す分が足りないそうで、料理場と洗濯場で言い分が――」

 そこまで聞いたところで、イレーネの表情がはっきりと変わった。
 先ほどまでの揺れや迷いが一気に引き、侍女頭の顔になる。

「旦那様、奥様、失礼いたします」
 彼女はすぐに頭を下げた。
「少々、場を収めてまいります」

「私も行きます」
 気づけば、そう言っていた。

 イレーネが目を上げる。
 ルイスも、グレンも、同じようにこちらを見た。

「奥様」
 イレーネの声には、昨日までほど露骨ではないものの、ためらいがあった。
「厨房は慌ただしい場所です。お気を煩わせる必要は――」

「先日の帳面の続きでしょう?」
 私は言った。
「保存食と外への支援、それから来客用の分がまだ噛み合っていない」
「ですが」
「見ないふりをして、あとで余計に悪くなる方が困るわ」

 言い切ってから、少しだけ胸が鳴る。
 ついこの前までの私なら、こんなふうに前へ出ることはためらっていたはずだ。

 けれど今は、それ以上に分かってしまっている。
 この家では“誰かがやるだろう”と思っていたことが、そのまま止まり続けているのだと。

 イレーネは返事をしかけて、しかしすぐには言葉を継がなかった。
 代わりにグレンが口を開く。

「行きましょう」

 短い一言だった。
 でもそれで十分だった。

 私たちは連れ立って厨房へ向かった。

 案の定、入口に近づくほど空気が熱くなっていく。
 竈の火のせいだけではない。中ではいくつもの声が重なり、普段なら抑えられているはずの苛立ちが、今日はあちこちから漏れていた。

「だから、その小麦は晩餐会用に取ってあると――」
「では北棟の分はどうするんです! このままでは火を落とせません!」
「薪が来ないのなら、乾燥棚を止めるしか」
「止めたら明日の仕込みが遅れるでしょう!」

 扉が開かれた瞬間、いくつもの視線がこちらへ集まった。

 料理長、女中頭、下働きの侍女たち、そして洗濯場から来たらしい女たちまでいる。
 皆が一斉に動きを止め、慌てて頭を下げた。

「旦那様、奥様……」
 料理長が苦い顔のまま一礼する。
「お見苦しいところを」

「事情を」
 グレンが言う。

 料理長が口を開くより先に、洗濯場の年嵩の女が前へ出た。

「申し訳ございません、旦那様。ですが薪の量が足りません。このままでは北棟の洗濯物も乾かせず、明日のリネンの交換に間に合わなくなります」
「厨房も同じです」
 料理長が続ける。
「今夜と明日の仕込み分、それから三日後の晩餐会の準備まで考えると、火を落とすわけにはいきません」

「届くはずだった薪は?」
 私が訊ねると、料理長が一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに答えた。

「いつもより積み荷が少なかったのです。どうやら北の集落向けに先に回されたようで」
「北へ?」
「はい。先日の調整分で、先に送るべきだと」
 そこで彼は言いにくそうに視線を逸らす。
「……奥様が決められた配分の流れと、薪の便の記録がうまく結びついておりませんでした」

 私は息を呑んだ。

 間違いではない。
 北へ回すべきものはあった。
 でも、その決定が屋敷全体の燃料配分とつながっていなかったのなら、現場はこうしてぶつかるしかない。

 帳面の上では筋が通っていても、家は数字だけでは回らない。
 火も、人手も、時間も全部つながっている。

「誰が北へ回す決定を?」
 イレーネが問う。
 女中頭が、恐る恐る手を挙げた。

「私です。支援先を止めるわけにはいかないと思いまして……ただ、洗濯場への割り振りを書き換えるのを」
「忘れたのではありません!」
 洗濯場の女が言葉を荒げる。
「誰にも伝わっていなかっただけです」
「伝える時間がなかったんです!」
「私たちだって急ぎの仕事があります!」

 再び空気が荒れかける。

 私は一歩前へ出た。

「待って」

 大きな声ではなかった。
 けれど、その場にいた全員がぴたりとこちらを見た。

 心臓がひどく鳴っている。
 でも、今ここでためらってはいけない。

「まず、足りないのはどれだけ?」
 私は料理長へ向き直る。
「薪の総量です。どのくらい不足しているの」
「通常より三割ほどです」
「今日中に追加で届く可能性は?」
「難しいかと」
「晩餐会の準備で、今日絶対に必要なのは」
「ソース用の煮込みと乾燥庫の維持です」
「洗濯場は?」
 今度は年嵩の女へ目を向ける。
「今夜から明日の朝までに乾かさないと困るものは」
「北棟の寝具と、客室用のリネンです」
「全部?」
「……全部です」
「本当に?」

 そこで彼女は少し詰まった。
 感情のまま押し切れなくなったのだと分かる。

「客室用を優先すれば、北棟の一部は明後日でも」
「なら、まずそれを分けましょう」

 私は近くの作業台へ歩き、置かれていた包み紙の裏へ簡単な線を引く。

「今日中に火が必要なもの」
「明朝まででよいもの」
「一日遅らせられるもの」

 三つに分けるだけで、頭の中の混線が少し整理される。

「厨房は、晩餐会の準備のうち今日しかできないものだけ残して。保存の利く下ごしらえは明日に回せる?」
「一部なら」
「洗濯場は客室用を最優先。北棟は今夜交換のない部屋を後回しにする」
「ですが」
「全部を守ろうとして全部を荒らすよりはいいでしょう」

 私がそう言うと、しばらく誰も反論しなかった。

 その沈黙を見て、私は続ける。

「それから、薪の追加便が無理でも代わりに回せるものがあるはずよ。倉庫に乾燥の甘い薪は?」
 料理長が「あります」と答える。
「厨房では使いにくいですが、洗濯場なら」
「では洗濯場へ。厨房は乾いた分を優先」
「客室用リネンが終わった後は」
「北棟へ。ただし交換の優先順位を決める」

 書きつけながら指示を出していくうち、胸の鼓動が少しだけ静まってきた。
 迷ってはいけない場面では、かえって体が勝手に動く。

 たぶん私は昔からそうだった。
 誰かが困っていて、誰も全体を見ていない時だけ、妙に冷静になる。

 違うのは今、その冷静さを家族の都合のためではなく、この家の今を立て直すために使っていることだった。

「奥様」
 料理長が慎重に口を開く。
「それを、誰の判断として通せば」
「私が」
 言いかけた声に、迷いが混じった。

 私が、命じる。

 その言葉の重さに、ほんの一瞬だけ足が止まる。
 私はこの家の女主人なのだろうか。
 形式の上ではそうだとしても、心から認められているわけではない。
 イレーネだって、ついこの前まで私を外側に置いていた。

 そんな私が、ここで命じていいのか。

 その一瞬の逡巡を、たぶんグレンは見逃さなかった。

「ユリアの指示に従ってください」

 低く、しかしはっきりとした声が厨房に落ちる。

 全員の視線がグレンへ向いた。
 彼はいつもの静かな顔のまま、言葉を重ねる。

「今の判断は妥当です。以後、今日の燃料配分についてはユリアの決定を優先してください」

 たったそれだけだった。
 なのにその場の空気が、明確に変わる。

 私一人の言葉ではまだ宙に浮いていたものが、グレンの一言で地に足をついた。

 私は一瞬だけ、彼を見た。
 彼は私を見返し、小さく頷く。

 それで十分だった。

「……では、書き直します」
 私は改めて紙に向き直る。
「厨房はこの順番で火を使って。洗濯場は客室用を最優先、その次に北棟。交換日を一日ずらす部屋は、私の方で後ほど確認します」
「かしこまりました」
 料理長が頭を下げる。
 今度ははっきりとした声音だった。

「女中頭」
「はい、奥様」
「支援分の追加便は、今後は必ず洗濯場と厨房にも共有して」
「承知しました」
「できないなら、あなた一人で抱え込まないで。誰かに言わなければ分からないから」
 少しだけ強く言うと、彼女は目を伏せて「はい」と答えた。

 その返事を聞きながら、私はふとアデルのことを思う。
 たぶんあの人も、こういう場面で一人で抱え込んでいたのだろうか。
 全部をきちんと繋げようとして、誰にも弱音を見せずに。

 だとしたら。
 今の私は、少しだけ違うやり方を選びたい。

 指示が一通り通ると、厨房と洗濯場の人々はようやく動き始めた。
 さっきまでぶつかっていた声が、今は確認と復唱に変わっていく。

「客室用から回します!」
「乾いた薪はこっちへ!」
「晩餐会の煮込みは鍋を小さくして対応を!」

 混乱がなくなったわけではない。
 でも、向く方向が揃っただけで、人はこんなにも働きやすくなるのだ。

 しばらくその様子を見届けてから、私はようやく小さく息を吐いた。

 その時、袖の端を控えめに引かれる気配がした。

 振り向くと、下働きの若い侍女が、おそるおそる顔を上げる。

「奥様」
「なあに」
「……助かりました」

 たったそれだけ言うと、彼女は真っ赤になってすぐ持ち場へ戻っていった。

 私はしばらく、その背中を見送る。

 助かった。
 また、その言葉だ。

 都合がよかった、ではなく。
 便利だ、でもなく。

 必要な時に手が届いたことへの、まっすぐな言葉。

 胸の奥が、じんわり熱くなる。

「奥様」

 振り返ると、イレーネがそこに立っていた。
 表情は相変わらずきちんとしている。けれど目の奥にあるものは、昨日までと少し違っていた。

「客室用リネンの確認を、後ほどお願いできますか」
「もちろん」
「……承知しました」

 それだけ言って、彼女は仕事の指示へ戻っていく。

 背筋の伸びた後ろ姿は変わらない。
 でも、今の“承知しました”は、ただの礼儀ではなかった気がした。

 私は紙を持ち直し、グレンの方へ向き直る。

「勝手をしました」
「いいえ」
 彼は静かに首を振る。
「必要なことでした」
「でも、私が命じるのは」
「あなたの役目です」
 その一言は、思った以上に深く落ちてきた。

 私は思わず言葉を失う。
 彼はそれ以上、甘やかすようなことは言わない。ただ事実として告げただけだった。

 あなたの役目です。

 その言葉は重かった。
 けれど押しつけではなかった。
 今ここで、私が実際に手を出し、判断し、場を動かしたあとだからこそ、初めて現実の重さを持って響く。

「……はい」
 ようやくそう返すと、グレンは短く頷いた。

 厨房の喧騒はまだ続いている。
 でもその音はもう、さっきまでのように人を追い詰める音ではなかった。

 私はそこでようやく、自分がこの家で初めて“立場を使った”のだと気づく。

 帳面を見せてもらった時とは違う。
 部屋を開けた時とも違う。

 今日の私は、ただ知ろうとしたのではなく、決めたのだ。
 この家の中で、何を先に守るかを。

 それはたぶん、もう他人の立場ではできないことだった。
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