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第18話 お前は家を助けるために嫁いだのだ
父が来た、と聞いた瞬間、指先が冷たくなった。
フェルマン子爵本人が、公爵家を訪ねてきている。
それだけの知らせなのに、胸の奥では昔から変わらない感覚が目を覚ます。
呼ばれたら行かなければならない。
まず機嫌を損ねないようにしなければならない。
話を荒立てずに済ませる方法を考えなければならない。
もうこの家の娘ではないはずなのに、身体だけは先にそう覚えているのが分かって、私は小さく息を吐いた。
「奥様、応接室へご案内いたします」
案内に立った執事の声は穏やかだった。
その穏やかさに少し救われながら、私は裾を整えて廊下を歩く。
公爵家の応接室は、実家のものよりずっと広く、静かで、重厚だ。
この部屋に入れば、少なくとも父は以前のように声を荒らげはしないだろう。そういう意味では安全な場所のはずなのに、扉の前へ立つと喉が少し乾いた。
扉が開かれる。
父はすでに席についていた。
いつもの外向きの顔だ。よそ行きの微笑みを浮かべ、上等な上着を着込み、いかにも礼儀正しい客の顔をしている。
けれどその目は、私を見るなりすぐに“娘を呼びつけた父”のものへ変わった。
「ユリア」
その声だけで、昔の自分が顔を出す。
問い返す前に、はい、と返事をしてしまいそうになる。
「お父様」
私はどうにかそれだけ言って、一礼した。
「急に呼び立てて悪いな」
父はそう言ったが、悪いと思っていないことは声で分かる。
「ただ、手紙では伝わりにくいこともある」
やはりそうだ。
返事を待てないから、自分で来たのだ。
私は勧められるまま向かいへ腰かけた。
部屋の隅には茶器が用意されていたが、どちらもほとんど手をつけていないらしい。父は本当に“話をしに”来たのだろう。
「お母様は?」
とりあえずそう訊くと、父は軽く手を振った。
「家だ。あれこれ気を揉んでいる」
「そうですか」
「お前のことも心配していたよ」
「……」
その言い回しが、ひどく空々しく聞こえた。
心配。
それは都合のよい言葉だ。
相手を気遣う顔をしながら、自分の望む方へ動かす時にとても便利な。
父は私の沈黙を気にした様子もなく、すぐに本題へ入った。
「手紙は読んだな」
「はい」
「なら話は早い。大したことではない」
父は指を組み、こちらを見た。
「公爵家との縁ができた今なら、通しやすい話がいくつかある。お前が少し口を利けば済む」
少し口を利けば。
昔からよく使われる言い方だった。
少し頭を下げれば。
少し我慢すれば。
少し気を利かせれば。
その“少し”がいつも、私の側へだけ積み重なる。
「お父様」
私は慎重に声を出す。
「私はまだこの家へ来て日も浅いのです」
「だからこそだ」
父は間髪入れずに言った。
「今なら頼みやすい。相手も、まだ新しい関係を無下にはできん」
私は唇を結ぶ。
相手。
その言い方に、グレンの顔は一切浮かんでいない。
父にとってアルヴェス公爵家は、人でも暮らしでもなく、“使える関係”なのだ。
「紹介してほしい商会が二つある」
父は淡々と続ける。
「融資の件で話を通したい先も一つ。お前が直接、旦那様へお願いするなり、宴の席で繋ぐなりすればいい」
「それは」
私は息を整える。
「私が決めてよいことではありません」
「馬鹿なことを言うな」
父の声音が少しだけ低くなった。
「お前はそのために嫁いだのだろう」
その一言で、胸の奥がひやりと冷えた。
分かっていた。
この人はそう思っていると。
最初から、そういう話だったと。
けれど、いざ口にされると、やはり違う。
薄々知っていることと、面と向かって言い渡されることの痛みは別物だ。
「家のために嫁ぐのは、お前も承知したはずだ」
父はさらに言う。
「ならば家を助けるところまでが役目だ。ここで妙な情を挟まれても困る」
「妙な情……」
「公爵夫人の立場に酔うなということだ」
私はすぐには言葉を返せなかった。
怒りがないわけではない。
情けなさもある。
でもそれ以上に、自分の足元が少し揺らいだような感覚があった。
この家のために嫁いだ。
そうだ。私は自分の意思だけでこの結婚を選んだわけではない。
家を救うため、押し出されるようにここへ来た。
ならば父の言うことは、筋としては通っているのではないか。
そう思いかける自分がまだいる。
それが苦しかった。
「返事をしろ」
父が言う。
「できるのか、できないのか」
できない、と言いたい。
でも喉がうまく開かない。
これまで何度、この問いに従ってきただろう。
家のために。
お前ならうまくやれる。
聞き分けのいい子なのだから。
そのたびに、自分の気持ちは後回しにしてきた。
今さら、それをやめると言うには、身体がまだ古い癖を覚えすぎている。
「……少し」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど弱かった。
「少し、考える時間をください」
父の顔がわずかに緩む。
断られたとは思っていない顔だった。
押せばまだ従う、と判断した時の顔だ。
「何を考える必要がある」
「私は」
次の言葉が続かない。
私は何を考える必要があるのだろう。
家族か、自分か。
義理か、線引きか。
そのどちらかを今ここで即座に選べない自分が、ひどく歯がゆかった。
父はそんな私を見て、小さく息を吐く。
「ユリア」
呼び方だけは昔と同じだ。
「お前は、元から家を助けるために育てた娘だ」
そこまで露骨な表現ではなかった。
けれど意味は、ほとんど同じだった。
「誰より聞き分けがよく、余計な我を出さない。だから今回も、お前が行くのが一番丸かった」
胸の奥が、しんと冷える。
そうか。
やはりそうだったのだ。
愛されていないと決めつけたくはなかった。
けれど、優先順位は最初からそこにあった。
兄ではなく、私。
跡取りではなく、都合よく動かせる方の子。
今さら確かめることではないのに、父の口から明瞭な形で言われると、さすがに少し息が詰まる。
「お父様」
声を出したつもりだったが、うまく響かなかった。
父は気づかないのか、気づいていて気にしないのか、そのまま続ける。
「お前はあちらの家に愛されるために行ったわけではない」
その言葉は、妙に真っ直ぐだった。
「役目を果たせ。それで十分だ」
その瞬間、応接室の空気がわずかに変わった。
扉の近くに立っていたグレンが、一歩だけ前へ出たのだ。
私はそこでようやく、彼が最初からこの場にいたことを強く意識した。
もちろん最初からいた。公爵家の応接室なのだから当然だ。
けれど父の言葉を受け止めるのに必死で、その存在が視界から薄れていたのだ。
「フェルマン子爵」
グレンの声は低く、静かだった。
「その件については、ユリアが決めることです」
父がそちらを見る。
表情に一瞬だけ外向きの笑みが戻る。
「もちろん、閣下のお立場をないがしろにするつもりはございません。ただ家族としてのお願いでして」
「家族であることと、決定権があることは別でしょう」
グレンは淡々と言う。
「今この家にいる彼女がどう関わるかは、彼女自身が決めるべきです」
父の口元がわずかに引きつる。
表立って反論しにくい言い方だった。
正論であり、礼も失していない。
だからこそ余計に、父には堪えただろう。
「……では」
父は私へ視線を戻す。
「考えた上で、きちんと返事をしなさい」
それは譲歩の形をしていたが、本質的には命令の延長だ。
それでも、これ以上ここで追い詰められずに済んだことに、私は少しだけ救われる。
「はい」
その返事しか出せなかった。
父は満足したように立ち上がる。
「今日はこれで失礼する」
外向きの顔に戻り、グレンへ向かって礼をする。
そして私には、ごく短く「よく考えろ」とだけ言い残した。
応接室の扉が閉まる。
足音が遠ざかるのを聞いた途端、私は椅子の背にもたれるように腰を落とした。
立っていられない、というほどではない。
けれど、きちんと背筋を保っているだけの力が、急になくなった。
グレンはすぐには慰めなかった。
代わりに、少し離れた位置へ立ったまま言う。
「今日中に返事をしなくていい」
その一言が、ひどく優しかった。
「……はい」
それだけ答えると、自分の声が少し掠れているのが分かる。
泣きたくはなかった。
少なくとも父の言葉のせいで、自分がぐらついたことをこれ以上見せたくなかった。
でも実際には、ぐらついたのだ。
私はまだ、家の論理から完全には自由ではない。
沈黙が落ちる。
静かな応接室に、自分の呼吸だけがやけに大きい。
その時、扉の外で控えめな気配がした。
完全に人払いされていたわけではなかったらしい。
振り向くと、半ば開いた扉の向こうにルイスが立っていた。
いつからいたのか分からない。
けれど表情を見る限り、少なくとも後半は聞いていたのだろう。
彼は少しだけ言いづらそうに、けれど目を逸らさずに言った。
「……姉も」
そこで一度言葉を切る。
「似たようなものだったのかもしれない」
その一言が、父に言われたどんな言葉よりも深く胸へ落ちた。
アデルも。
完璧に見えたあの人も。
誰かの期待の中で、役目を背負わされていたのかもしれない。
私は息を呑み、ルイスを見る。
彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、自分の中でようやく形になりかけたものを、そのまま零しただけという顔をしていた。
応接室の空気はまだ重い。
けれどその重さの中に、別の線が一本だけ通った気がした。
私だけではないのかもしれない。
この家で今解こうとしているものは。
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