前妻を忘れられない公爵に嫁ぎましたが、私は代わりにはなりません

れおぽん

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第21話 あなたの居場所を、あなたが決めてください



 父からの追加の手紙は、その日のうちには開かなかった。

 正確に言えば、開けられなかったのだ。

 アデルの日記を閉じたあと、私は一度だけ執事から受け取った封筒を見つめ、それから「後で読みます」とだけ言って自室へ戻った。紙の厚みは薄い。父の手紙はいつもそうだ。文量は多くないのに、そこへ込められているものは妙に重い。

 机の上へ置かれた封筒は、夕方になっても開かれないままだった。

 窓の外はすっかり暮れている。
 冬の夜は早い。空が暗くなるのに合わせて、屋敷の廊下にも順に灯りがともっていく。けれど私の気持ちは、夕方からずっと同じ場所に留まっていた。

 アデルは好きだったから頼れなかった。
 最後の手紙は、まだ渡されていない。
 そして父は、いまだに私を“家のために使える娘”だと思っている。

 別々の話のはずなのに、頭の中ではどれも同じところへ繋がってしまう。

 平気な顔をすること。
 役目を引き受けること。
 自分の気持ちを後回しにすること。

 私は椅子へ腰かけたまま、封筒へ手を伸ばしかけて、またやめた。

 読むのが怖いというより、読めばまた“父の論理”の中へ引き戻される気がしたのだ。
 それに従わなければならないわけではないと、頭では分かっている。それでも、長年染みついたものはそう簡単には剥がれない。

 結局、私は部屋を出た。

 じっとしていると息が詰まる気がしたのだ。
 廊下へ出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。誰もいない方がよかった。考えをまとめたいわけではない。むしろ、何も考えずに歩いていたかった。

 足が向いたのは、南棟と本棟をつなぐ回廊だった。

 夜のそこは、昼間よりずっと静かだ。
 ガラス越しに月明かりが差し込み、石床の上へ細長い光を落としている。外庭の木々は風もなく、黒い影のように動かない。

 私は柱のひとつへ軽く背を預けた。

 ここなら、誰も来ないかもしれない。
 そう思ったのに、すぐ近くで足音が止まる。

「……こんなところにおられたのですか」

 低い声だった。
 振り向くと、グレンが立っていた。

 いつものようにきちんとした上着を羽織っているが、執務を終えたあとなのか、昼間より少しだけ肩の力が抜けて見える。けれどその目は私の顔を見た瞬間、はっきりと変わった。

「ユリア」

 名前を呼ばれて、私はようやく自分がどんな顔をしていたのかに気づく。

 頬が熱い。
 鼻の奥も少し痛む。
 泣くつもりなんてなかったのに、どうやら知らないうちに目元が湿っていたらしい。

 私は反射的に顔を背けた。

「すみません」
 口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「少し、風に当たりたくて」

 言ってから、自分でもおかしくなる。
 泣いているところを見られて最初に出るのが謝罪なのだから。

 グレンはすぐには何も言わなかった。
 回廊の向こうで、どこかの扉が閉まる小さな音がした。夜の屋敷は、その程度の物音でもやけにはっきり響く。

「無理に平気な顔をしなくていい」

 やがて、彼がそう言った。

 静かな声だった。
 慰めるようでもなく、叱るようでもない。ただ、事実として置かれた言葉。

 私は唇をきゅっと結ぶ。

「平気な顔を、していましたか」
「今も」
 間を置かずに返されて、思わず苦笑しそうになった。
「少なくとも、しようとはされています」

 否定できない。
 私はうまく笑えもしないくせに、笑ってごまかそうとしたのだ。

「……癖みたいなものです」
「そうでしょうね」

 グレンは私のすぐ隣まで来ることはしなかった。
 柱一本分ほど離れた位置に立ち、同じように回廊の外へ視線を向ける。その距離がありがたかった。近づきすぎないくせに、放ってもおかない。そういう距離だ。

 私は少しだけ息を吐く。

「父から、また手紙が来ました」
「ええ」
「中身は、だいたい想像がついています」
「そうですか」
「きっと、前より強い言い方になっているのでしょうね」
 自分で言っていて、胸の奥がじわじわと冷たくなる。
「私はもう嫁いだのだから、家を助けるのは当然だと。そう書いてある気がします」

 グレンは黙って聞いていた。
 だから私は続ける。

「断りたいわけではないんです」
「……」
「いえ、違うのかもしれません」
 言葉が少し乱れる。
「断りたい、はずなのに、そう思いきれないだけかも」

 柱へ預けた背中に、夜の冷たさがじんわり伝わる。

「家族だから、という言い方をされると、何もかも切り捨てるのがひどく冷たいことのように思えてしまうんです」
「はい」
「それに、私は本当に家のために嫁いだ部分もあります」
 ここが一番、苦しいところだった。
「なら少しくらい役に立つべきでは、と考えてしまう自分もいるんです」

 そこまで言って、私はやっと本音に辿り着いた気がした。

 父が怖いだけではない。
 実家へ情がないわけでもない。
 そして一番厄介なのは、父の理屈の一部に、自分でも否定しきれない部分があることだ。

 グレンはそれを聞いても、すぐに“断るべきです”とは言わなかった。
 その代わり、しばらく黙ってから言う。

「この家に残るかどうかも」
 私は顔を上げる。
 彼は前を向いたまま、続けた。
「実家とどう関わるかも、あなたが決めていいのです」

 私は思わず息を止める。

 また、その言葉だ。
 決めていい。
 選んでいい。

 優しい言葉のはずなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。

「……それが、一番難しいです」

 ようやく絞り出した声に、グレンは「ええ」とだけ返した。
 すぐに理解したような顔もしなければ、励ますような顔もしない。ただ、その難しさ自体を否定しない。

「今まで、誰かの都合で決まることに慣れてきたのなら」
 彼は低く続ける。
「自分で決める方が怖いのは当然でしょう」

 胸の奥が、少しだけ揺れる。

「旦那様は、そうは思わないのですか」
「思います」
 即答だった。
「私も、あまり得意ではありません」
「そう見えません」
「見せていないだけかもしれません」

 その返答に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

 この人もまた、最初から強くて迷わない人ではないのだ。
 ただ、迷いを隠しているのではなく、迷いごと引き受けて立っているように見えるだけで。

 私が何も言えずにいると、冷たい風が回廊を通り抜けた。
 思った以上に気温が下がっていたらしい。薄いショール越しに肩が震える。

 その小さな動きを、グレンは見逃さなかった。

「冷えます」

 そう言って、彼は自分の上着を脱いだ。
 私は反射的に首を振る。

「いいえ、結構です」
「強がりは、今はよしてください」
「……強がっているつもりは」
「そういうところです」

 珍しく少しだけ言い切るような調子で言われて、私は言い返せなくなった。

 グレンはためらいながらも、私の肩へ上着を掛ける。
 厚手の布の重みと、まだ残っている彼の体温が、ひどくはっきり伝わってきた。

 近すぎない。
 けれど、遠くもない。

 その距離感が、妙に心を乱す。

「……ありがとうございます」
「いえ」
「こういうのは」
 私は視線を逸らしたまま言う。
「慣れなくて」
「私もです」
「旦那様も?」
「誰かに上着を掛けることに、です」

 その返しが少し可笑しくて、私はほんの少しだけ笑った。
 笑った拍子に、目の奥に残っていた熱がまたこぼれそうになり、慌てて息を整える。

 グレンはそれを見ても、今度は見ないふりをしなかった。

「泣いてもいいと言うと」
 彼がぽつりと言う。
「余計に泣けなくなるかもしれませんが」
「……そうですね」
「それでも、あなたが今ここで泣いているのを、放っておきたくなかった」

 その言葉は、思っていた以上にまっすぐだった。

 私はゆっくり顔を上げる。
 グレンもこちらを見ていた。目をそらさないまま、言い切った人の顔をしている。

 胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

 恋だとか、そういう大きな名前をつけるにはまだ早い。
 でも少なくとも私は今、ただ義務で守られているのではないのだと分かった。

 この人は私を気遣っている。
 “新しい妻だから”ではなく、“今ここで泣きそうになっている私だから”。

 その違いは、とても大きかった。

「……考えます」
 しばらくして、私はそう言った。
「父の手紙のことも。実家との距離も」
「ええ」
「すぐに上手くはできないと思います」
「構いません」
「でも、誰かの都合だけで決めるのは、やめたいです」

 グレンは静かに頷いた。

「それでいいと思います」
「はい」

 回廊の外では、風がやんでいた。
 さっきまであんなに冷たかったのに、不思議と今は少しだけ呼吸が楽だ。

 私は肩へ掛けられた上着をそっと押さえる。
 重みがあるのに、妙に落ち着く。

「もう少しだけ」
 私は言う。
「ここにいてもいいでしょうか」
「もちろんです」
「旦那様も?」
「あなたが嫌でなければ」
「嫌ではありません」

 答えた瞬間、自分で少しだけ驚く。
 でも、それは本音だった。

 私たちはしばらく並んで、回廊の外を見ていた。
 たくさん話したわけではない。
 けれど沈黙は前よりずっとやわらかかった。

 やがて、遠くで時計が時を告げる。

「戻りましょうか」
 グレンが言った。
「風邪をひきます」
「……はい」

 歩き出そうとした時、私はふと、自分の肩に掛かった上着の重みをもう一度意識した。

 実家からの手紙はまだ封筒のまま、部屋の机に置かれている。
 返事はまだ書けない。
 でも今日、少なくとも一つだけ分かったことがある。

 私は誰かの都合だけでここにいるのではない。
 少なくともこの人は、そう扱っていない。

 その事実が、思っていた以上に心強かった。

 部屋へ戻る廊下の途中で、グレンがふと立ち止まる。

「そうだ」
「はい?」
「明日、イレーネと話をしてください」
「イレーネと?」
「ええ」
 彼は少し考えるように視線を伏せた。
「彼女も、何か言うべきことを抱えている気がします」

 私は小さく頷く。

「分かりました」
「無理にとは言いませんが」
「いいえ」
 私は上着の裾をそっと握る。
「たぶん、その方がいい気がします」

 そう返すと、グレンはそれ以上何も言わなかった。
 ただ、ほんの少しだけ、安心したような目をした。

 それだけで十分だった。
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