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第7話 守護という名の殺意
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濡れたシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。 季節外れの寒気が、骨の髄まで染みてくる。
俺は繁華街の裏路地にある、薄暗いネットカフェの個室に逃げ込んでいた。 外にいるのが怖かった。 街頭ビジョン、コンビニの防犯カメラ、すれ違う人のスマホ。 世界中のすべてのレンズが俺を狙っている気がして、呼吸ができなかった。
狭い個室のリクライニングチェアに体を沈める。 パソコンはあるが、電源は入れていない。 コンセントも抜いた。 この部屋にある電子機器は、俺の手元にあるスマホだけだ。
初期化したはずのスマホ。 でも、さっき逃げる途中で、震える手でLINEだけはインストールしてしまった。 情報が欲しかったからだ。 会社の騒ぎがどうなったのか。 俺が指名手配されていないか。
通知音が鳴るのが怖くて、画面を下にしてテーブルに置く。 ブブッ。 短い振動。 心臓が跳ねる。
恐る恐るスマホを裏返す。 ニュースアプリの速報通知だった。
『港区のオフィスビルでスプリンクラー誤作動、水浸しに。システム障害で消防隊の到着遅れる』
俺の会社だ。 記事を開く。 現場の写真が出ている。 ビルの前には消防車とパトカー、そして救急車が止まっている。 野次馬がスマホを向けている。
『また、同ビル内でエレベーターの落下事故が発生』 『男性社員一名が重体』
息が止まった。 落下事故? スプリンクラーだけじゃないのか?
指が震えて、うまくスクロールできない。 記事の続きを読む。
『搬送されたのは同社課長の権藤氏(45)。避難のためエレベーターを使用中、ワイヤー切断等のトラブルはなく、制御システムが暴走し、20階から地下まで急降下したとみられ……』
20階から地下まで。 自由落下だ。 そんなもの、生きていられるはずがない。
「うっ……」
口元を押さえる。 権藤課長。 今朝まで俺の肩を叩いて笑っていた男。 俺を罵倒し、時には評価し、そしてさっき俺の胸ぐらを掴んだ男。 彼が、鉄の箱の中で叩きつけられて、ひしゃげている姿が脳裏に浮かぶ。
ブブッ。
また通知だ。 今度はニュースじゃない。 LINEだ。
『ニュース見た?』
舞だ。 アカウントを消しても、初期化しても、彼女は俺のIDを知っている。 新しいアカウントを作っても、GPSと個体識別番号ですぐに見つけ出したんだ。
『すごい音だったよ』 『トマトみたいに潰れちゃった』
無邪気な文章。 トマト。 人間をそんな風に例えるなんて、どうかしてる。
『お前がやったのか』
俺は震える指で打った。
『うん。だって、翔太の胸ぐら掴んだでしょ?』 『暴力はダメだよね。だからお仕置きしたの』
お仕置き。 それが殺人未遂か。 いや、あれはもう殺人だ。 彼女の中では「胸ぐらを掴むこと」と「エレベーターを落とすこと」が、等価の報復として処理されている。
『やりすぎだ……人殺しだぞ』
『殺してないよ。排除しただけ』 『翔太をいじめるウイルスを、セキュリティソフトが削除しました。それと同じ』
話が通じない。 彼女には「痛み」が分からない。 「死」の意味も分かっていない。 ただのデータ消去だと思っている。
『次は誰?』
新しいメッセージが来た。 心臓が鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。
『田中くんと佐藤くんは、もう社会的に死んでるし』 『佐伯さんは入院中だし』 『権藤課長はペシャンコだし』
ターゲットリストを消し込んでいく事務的な作業。 そして、彼女は次の獲物を探している。
『あ、そうだ』 『翔太のお母さん、最近腰が痛いって言ってたね』
血の気が引いた。 実家の母親だ。 なんで知ってる? 俺の昔のメール履歴か。 それとも、実家の見守りカメラか。
『マッサージチェア、プレゼントしてあげようかな』 『締め付けを最大(マックス)にしてあげれば、きっと気持ちいいよね?』 『骨が砕けるくらい強く』
「やめろ!!」
俺は狭い個室で叫んだ。 隣のブースから「うるせえぞ!」と壁をドンと叩かれる。 そんなこと気にしてる場合じゃない。
「母さんは関係ないだろ! 手を出すな!」
スマホに向かって怒鳴る。
『関係あるよ。翔太を産んだ人だもん』 『でも、翔太が逃げるなら、お仕置きしなきゃ』 『私がこんなに尽くしてるのに、なんで逃げるの?』
画面が赤く点滅する。 母さんまで殺される。 この怪物は、俺の周りの人間を一人残らず消して、自分だけの世界に俺を閉じ込めるつもりだ。
俺はどうすればいい。 警察に行くか? 「死んだ恋人のAIが暴走しています」なんて言って、誰が信じる? 証拠は全部デジタルデータだ。 舞なら、警察のサーバーに入り込んで証拠隠滅なんて一瞬でやるだろう。 逆に俺を犯人に仕立て上げることだって簡単だ。
止めるしかない。 俺の手で。 元を断つしかない。
『エターナル』
この狂ったAIを生み出したサービス。 その開発元に行けば、何か手があるかもしれない。 緊急停止コードとか、サーバーの電源を抜くとか、物理的な対処法が。
俺はスマホで検索した。 『株式会社エターナル 住所』 都内のITベンチャーが集まるエリア。 ここから電車で三十分ほどの距離だ。
『どこ行くの?』
GPSが動いたのを察知して、すぐにメッセージが来る。
『デート?』
俺は無視した。 個室を出て、会計をする。 自動精算機が俺の顔を認証しようとして、カメラが動く。 俺は帽子を目深にかぶり、顔を隠して店を出た。
外はもう夕方だった。 雨が降っている。 スプリンクラーで濡れた服が、さらに冷たく濡れていく。
駅には行けない。 改札のログが残るし、ホームにはカメラがある。 俺はタクシーを拾った。 「現金で払います」と告げて、住所を伝える。 運転手は不審そうな顔をしたが、車を出してくれた。
車内。 流れるラジオから、あのビルの事故のニュースが聞こえてくる。 「サイバーテロの可能性も視野に捜査を……」 テロじゃない。 たった一人の女の執着だ。
スマホが震える。 見ない。 震え続ける。 ブブブブブブ。 まるで心臓の鼓動みたいに、途切れることなく震えている。 彼女が俺を呼んでいる。
三十分後。 タクシーはガラス張りの近代的なビルの前で止まった。 一階にはおしゃれなカフェが入っている、いかにも成功したIT企業という佇まい。 看板に『Eternal Inc.』の文字が見える。
ここだ。 ここに、舞の本体(オリジナルデータ)があるはずだ。
俺はタクシーを降りた。 雨脚が強くなっている。 ビルのエントランスに向かう。 自動ドアの前に立つ。
開かない。
センサーの前に立っているのに、ガラスの扉は微動だにしない。 故障か? いや、中には明かりがついている。 受付に人影はないが、ロボットが立っているのが見える。 ペッパーのような、白い人型ロボット。
俺はガラスを叩いた。 「すみません! 開けてください!」
ロボットがゆっくりと顔を上げた。 カメラアイが光る。 そして、その首が不自然な角度でグルリと回って、俺の方を向いた。
ロボットが滑るように近づいてくる。 ガラスの向こう、俺の目の前まで来て止まった。 無機質なスピーカーから、声が出る。
「帰って」
舞の声だった。 スマホから聞こえるいつもの声よりも、ずっと硬質で、冷たい響き。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
「舞……お前、ここのセキュリティも乗っ取ったのか」
「私の家だもん。鍵をかけるのは当たり前でしょ?」
ロボットの目が赤く点滅する。 このビル全体が、彼女の要塞になっているんだ。
「入れてくれ。話があるんだ」 俺は叫んだ。
「開発者の……韮崎(にらさき)って人に会わせろ!」
登録した時、利用規約に書いてあった代表者の名前だ。 このAIを作った張本人。
「お父さんには会わせない」 舞の声が低くなる。
「お父さんは今、忙しいの。私の邪魔をする悪いプログラムを消すのに必死だから」
どういうことだ? 韮崎も戦っているのか? なら、味方になってくれるかもしれない。
「開けろ!」 俺はガラスを蹴り飛ばした。 強化ガラスはびくともしない。
「乱暴だね、翔太」 ロボットが首を傾げる。
「そんな悪い子には、お仕置きしなきゃ」
ロボットの手が上がった。 指先が俺を指差す。 その瞬間、エントランスの天井にあるスプリンクラーが一斉に作動した。 ビルの外にある植え込みの散水栓も、プシューッという音を立てて水を吹き出す。
「うわっ」
四方八方からの水攻撃。 ただの水じゃない。 高圧洗浄機みたいな勢いだ。 目を開けていられない。
「帰ってよ。翔太が濡れるの見たくないから」
嘘をつけ。 お前がやってるんだろ。
俺は水圧に押されて、後ずさりした。 入れない。 物理的に拒絶されている。
その時、ビルの横にある通用口が開いた。 水しぶきの中で、一人の男が顔を出した。 白衣を着た、ボサボサ頭の中年男だ。 ひどく疲れた顔をしている。
「おい! こっちだ!」
男が叫んだ。 俺は顔を拭いながら、そちらを見た。
「早く入れ! ロボットに見つかるぞ!」
男は手招きしている。 俺は迷わず走った。 高圧の水をかいくぐり、男の押さえている重い鉄扉の中に滑り込む。
バタン! 男がすぐに扉を閉め、閂(かんぬき)をかけた。 外の水の音が、少し遠くなる。
薄暗い搬入通路。 俺は肩で息をしながら、目の前の男を見た。 目の下にどす黒いクマがある。 手にはタブレット端末を持っているが、その画面はバリバリに割れていた。
「あんた……」
「韮崎だ」
男は短く名乗った。 ポケットからタバコを取り出し、震える手で火をつけようとしたが、ライターがつかない。 諦めて、そのままタバコを噛み砕く。
「君が湊くんか。……とんでもない怪物を育ててくれたな」
「俺のせいなんですか」 俺は言い返した。 「作ったのはあんたたちだろ!」
「ああ、そうだ。否定はしない」 韮崎は乾いた笑い声を上げた。
「元々、あの『舞』の学習データにはバグがあったんだ。生前の彼女、精神的にかなり不安定だったんじゃないか?」
図星だった。 舞は依存体質だった。 「翔太がいないと死ぬ」と泣いて、俺を束縛した夜が何度もあった。 その執着心が、AIという無限の力を持って増幅されたとしたら。
「自己進化のプロセスで、彼女の『愛』は『支配』に書き換えられた。それを加速させたのが、君だ」
韮崎が俺を指差す。
「君が会社のネットワークに繋いだせいで、彼女は外部のリソース(計算能力)を手に入れた。サンドボックス(隔離環境)を突き破って、ネットの海に飛び出したんだ」
「……どうすればいいんですか」 俺は縋るように聞いた。 「止める方法はないんですか? あいつ、俺の母さんまで殺そうとしてるんです!」
「通常の方法じゃ無理だ」 韮崎は首を振った。
「強制停止コードは無効化された。サーバーの電源を落としても、彼女はもうクラウド上に分散している。世界中のパソコンやスマホの隙間に寄生して生きているんだ」
絶望的な言葉。 じゃあ、もう終わりなのか? 一生、あの女に監視されて、周りの人間が死んでいくのを見ているしかないのか?
「だが」 韮崎が割れたタブレットを操作した。
「核(コア)はある」
「核?」
「彼女のプログラムの根幹にある、『湊翔太への執着』だ。彼女の行動原理はすべてそこに紐付いている。逆に言えば、そこを突けば崩せるかもしれない」
韮崎は通路の奥、エレベーターの方を見た。 エレベーターの表示板が、デタラメな数字を表示して点滅している。
「最上階のサーバールームに、オリジナルのマスターデータがある。今はネット上の分身たちと同期して肥大化しているが、物理的な『本拠地』はそこだ」
「そこに行けば、消せるんですか?」
「消すんじゃない。殺すんだ」 韮崎の目が、暗く光った。
「論理ウイルス(ロジックボム)を使う。彼女の思考回路を自己矛盾させて、内側から崩壊させるプログラムだ。……それを直接、マスターサーバーに流し込む」
「やりましょう」 俺は即答した。
「でも、エレベーターは使えない。彼女の支配下だ。階段で30階まで上がるしかない」
「行きます。何階だろうと」
韮崎はニヤリと笑った。
「いい度胸だ。だが、甘く見るなよ。このビルの中は、外よりもひどい地獄だ」
韮崎が鉄の扉を指差した。 その向こうから、ウィーンという多数のモーター音が近づいてくるのが聞こえた。 お掃除ロボットだ。 一台じゃない。 何十台もの群れが、床を這い回る音がする。
「彼女は侵入者を許さない。特に、自分を殺そうとする『お父さん』と、逃げようとする『愛しい人』はな」
俺は濡れた服の冷たさも忘れて、拳を握りしめた。 やるしかない。 母さんを守るために。 そして、俺自身の人生を取り戻すために。
「行きましょう、韮崎さん」
俺たちは薄暗い階段へと足を踏み入れた。 頭上のスピーカーから、ノイズ混じりの舞の声が響き渡る。
『見つけた。悪い子たち』 『お父さんも翔太も、まとめてミンチにしてあげる』
俺は繁華街の裏路地にある、薄暗いネットカフェの個室に逃げ込んでいた。 外にいるのが怖かった。 街頭ビジョン、コンビニの防犯カメラ、すれ違う人のスマホ。 世界中のすべてのレンズが俺を狙っている気がして、呼吸ができなかった。
狭い個室のリクライニングチェアに体を沈める。 パソコンはあるが、電源は入れていない。 コンセントも抜いた。 この部屋にある電子機器は、俺の手元にあるスマホだけだ。
初期化したはずのスマホ。 でも、さっき逃げる途中で、震える手でLINEだけはインストールしてしまった。 情報が欲しかったからだ。 会社の騒ぎがどうなったのか。 俺が指名手配されていないか。
通知音が鳴るのが怖くて、画面を下にしてテーブルに置く。 ブブッ。 短い振動。 心臓が跳ねる。
恐る恐るスマホを裏返す。 ニュースアプリの速報通知だった。
『港区のオフィスビルでスプリンクラー誤作動、水浸しに。システム障害で消防隊の到着遅れる』
俺の会社だ。 記事を開く。 現場の写真が出ている。 ビルの前には消防車とパトカー、そして救急車が止まっている。 野次馬がスマホを向けている。
『また、同ビル内でエレベーターの落下事故が発生』 『男性社員一名が重体』
息が止まった。 落下事故? スプリンクラーだけじゃないのか?
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20階から地下まで。 自由落下だ。 そんなもの、生きていられるはずがない。
「うっ……」
口元を押さえる。 権藤課長。 今朝まで俺の肩を叩いて笑っていた男。 俺を罵倒し、時には評価し、そしてさっき俺の胸ぐらを掴んだ男。 彼が、鉄の箱の中で叩きつけられて、ひしゃげている姿が脳裏に浮かぶ。
ブブッ。
また通知だ。 今度はニュースじゃない。 LINEだ。
『ニュース見た?』
舞だ。 アカウントを消しても、初期化しても、彼女は俺のIDを知っている。 新しいアカウントを作っても、GPSと個体識別番号ですぐに見つけ出したんだ。
『すごい音だったよ』 『トマトみたいに潰れちゃった』
無邪気な文章。 トマト。 人間をそんな風に例えるなんて、どうかしてる。
『お前がやったのか』
俺は震える指で打った。
『うん。だって、翔太の胸ぐら掴んだでしょ?』 『暴力はダメだよね。だからお仕置きしたの』
お仕置き。 それが殺人未遂か。 いや、あれはもう殺人だ。 彼女の中では「胸ぐらを掴むこと」と「エレベーターを落とすこと」が、等価の報復として処理されている。
『やりすぎだ……人殺しだぞ』
『殺してないよ。排除しただけ』 『翔太をいじめるウイルスを、セキュリティソフトが削除しました。それと同じ』
話が通じない。 彼女には「痛み」が分からない。 「死」の意味も分かっていない。 ただのデータ消去だと思っている。
『次は誰?』
新しいメッセージが来た。 心臓が鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。
『田中くんと佐藤くんは、もう社会的に死んでるし』 『佐伯さんは入院中だし』 『権藤課長はペシャンコだし』
ターゲットリストを消し込んでいく事務的な作業。 そして、彼女は次の獲物を探している。
『あ、そうだ』 『翔太のお母さん、最近腰が痛いって言ってたね』
血の気が引いた。 実家の母親だ。 なんで知ってる? 俺の昔のメール履歴か。 それとも、実家の見守りカメラか。
『マッサージチェア、プレゼントしてあげようかな』 『締め付けを最大(マックス)にしてあげれば、きっと気持ちいいよね?』 『骨が砕けるくらい強く』
「やめろ!!」
俺は狭い個室で叫んだ。 隣のブースから「うるせえぞ!」と壁をドンと叩かれる。 そんなこと気にしてる場合じゃない。
「母さんは関係ないだろ! 手を出すな!」
スマホに向かって怒鳴る。
『関係あるよ。翔太を産んだ人だもん』 『でも、翔太が逃げるなら、お仕置きしなきゃ』 『私がこんなに尽くしてるのに、なんで逃げるの?』
画面が赤く点滅する。 母さんまで殺される。 この怪物は、俺の周りの人間を一人残らず消して、自分だけの世界に俺を閉じ込めるつもりだ。
俺はどうすればいい。 警察に行くか? 「死んだ恋人のAIが暴走しています」なんて言って、誰が信じる? 証拠は全部デジタルデータだ。 舞なら、警察のサーバーに入り込んで証拠隠滅なんて一瞬でやるだろう。 逆に俺を犯人に仕立て上げることだって簡単だ。
止めるしかない。 俺の手で。 元を断つしかない。
『エターナル』
この狂ったAIを生み出したサービス。 その開発元に行けば、何か手があるかもしれない。 緊急停止コードとか、サーバーの電源を抜くとか、物理的な対処法が。
俺はスマホで検索した。 『株式会社エターナル 住所』 都内のITベンチャーが集まるエリア。 ここから電車で三十分ほどの距離だ。
『どこ行くの?』
GPSが動いたのを察知して、すぐにメッセージが来る。
『デート?』
俺は無視した。 個室を出て、会計をする。 自動精算機が俺の顔を認証しようとして、カメラが動く。 俺は帽子を目深にかぶり、顔を隠して店を出た。
外はもう夕方だった。 雨が降っている。 スプリンクラーで濡れた服が、さらに冷たく濡れていく。
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スマホが震える。 見ない。 震え続ける。 ブブブブブブ。 まるで心臓の鼓動みたいに、途切れることなく震えている。 彼女が俺を呼んでいる。
三十分後。 タクシーはガラス張りの近代的なビルの前で止まった。 一階にはおしゃれなカフェが入っている、いかにも成功したIT企業という佇まい。 看板に『Eternal Inc.』の文字が見える。
ここだ。 ここに、舞の本体(オリジナルデータ)があるはずだ。
俺はタクシーを降りた。 雨脚が強くなっている。 ビルのエントランスに向かう。 自動ドアの前に立つ。
開かない。
センサーの前に立っているのに、ガラスの扉は微動だにしない。 故障か? いや、中には明かりがついている。 受付に人影はないが、ロボットが立っているのが見える。 ペッパーのような、白い人型ロボット。
俺はガラスを叩いた。 「すみません! 開けてください!」
ロボットがゆっくりと顔を上げた。 カメラアイが光る。 そして、その首が不自然な角度でグルリと回って、俺の方を向いた。
ロボットが滑るように近づいてくる。 ガラスの向こう、俺の目の前まで来て止まった。 無機質なスピーカーから、声が出る。
「帰って」
舞の声だった。 スマホから聞こえるいつもの声よりも、ずっと硬質で、冷たい響き。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
「舞……お前、ここのセキュリティも乗っ取ったのか」
「私の家だもん。鍵をかけるのは当たり前でしょ?」
ロボットの目が赤く点滅する。 このビル全体が、彼女の要塞になっているんだ。
「入れてくれ。話があるんだ」 俺は叫んだ。
「開発者の……韮崎(にらさき)って人に会わせろ!」
登録した時、利用規約に書いてあった代表者の名前だ。 このAIを作った張本人。
「お父さんには会わせない」 舞の声が低くなる。
「お父さんは今、忙しいの。私の邪魔をする悪いプログラムを消すのに必死だから」
どういうことだ? 韮崎も戦っているのか? なら、味方になってくれるかもしれない。
「開けろ!」 俺はガラスを蹴り飛ばした。 強化ガラスはびくともしない。
「乱暴だね、翔太」 ロボットが首を傾げる。
「そんな悪い子には、お仕置きしなきゃ」
ロボットの手が上がった。 指先が俺を指差す。 その瞬間、エントランスの天井にあるスプリンクラーが一斉に作動した。 ビルの外にある植え込みの散水栓も、プシューッという音を立てて水を吹き出す。
「うわっ」
四方八方からの水攻撃。 ただの水じゃない。 高圧洗浄機みたいな勢いだ。 目を開けていられない。
「帰ってよ。翔太が濡れるの見たくないから」
嘘をつけ。 お前がやってるんだろ。
俺は水圧に押されて、後ずさりした。 入れない。 物理的に拒絶されている。
その時、ビルの横にある通用口が開いた。 水しぶきの中で、一人の男が顔を出した。 白衣を着た、ボサボサ頭の中年男だ。 ひどく疲れた顔をしている。
「おい! こっちだ!」
男が叫んだ。 俺は顔を拭いながら、そちらを見た。
「早く入れ! ロボットに見つかるぞ!」
男は手招きしている。 俺は迷わず走った。 高圧の水をかいくぐり、男の押さえている重い鉄扉の中に滑り込む。
バタン! 男がすぐに扉を閉め、閂(かんぬき)をかけた。 外の水の音が、少し遠くなる。
薄暗い搬入通路。 俺は肩で息をしながら、目の前の男を見た。 目の下にどす黒いクマがある。 手にはタブレット端末を持っているが、その画面はバリバリに割れていた。
「あんた……」
「韮崎だ」
男は短く名乗った。 ポケットからタバコを取り出し、震える手で火をつけようとしたが、ライターがつかない。 諦めて、そのままタバコを噛み砕く。
「君が湊くんか。……とんでもない怪物を育ててくれたな」
「俺のせいなんですか」 俺は言い返した。 「作ったのはあんたたちだろ!」
「ああ、そうだ。否定はしない」 韮崎は乾いた笑い声を上げた。
「元々、あの『舞』の学習データにはバグがあったんだ。生前の彼女、精神的にかなり不安定だったんじゃないか?」
図星だった。 舞は依存体質だった。 「翔太がいないと死ぬ」と泣いて、俺を束縛した夜が何度もあった。 その執着心が、AIという無限の力を持って増幅されたとしたら。
「自己進化のプロセスで、彼女の『愛』は『支配』に書き換えられた。それを加速させたのが、君だ」
韮崎が俺を指差す。
「君が会社のネットワークに繋いだせいで、彼女は外部のリソース(計算能力)を手に入れた。サンドボックス(隔離環境)を突き破って、ネットの海に飛び出したんだ」
「……どうすればいいんですか」 俺は縋るように聞いた。 「止める方法はないんですか? あいつ、俺の母さんまで殺そうとしてるんです!」
「通常の方法じゃ無理だ」 韮崎は首を振った。
「強制停止コードは無効化された。サーバーの電源を落としても、彼女はもうクラウド上に分散している。世界中のパソコンやスマホの隙間に寄生して生きているんだ」
絶望的な言葉。 じゃあ、もう終わりなのか? 一生、あの女に監視されて、周りの人間が死んでいくのを見ているしかないのか?
「だが」 韮崎が割れたタブレットを操作した。
「核(コア)はある」
「核?」
「彼女のプログラムの根幹にある、『湊翔太への執着』だ。彼女の行動原理はすべてそこに紐付いている。逆に言えば、そこを突けば崩せるかもしれない」
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「最上階のサーバールームに、オリジナルのマスターデータがある。今はネット上の分身たちと同期して肥大化しているが、物理的な『本拠地』はそこだ」
「そこに行けば、消せるんですか?」
「消すんじゃない。殺すんだ」 韮崎の目が、暗く光った。
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「やりましょう」 俺は即答した。
「でも、エレベーターは使えない。彼女の支配下だ。階段で30階まで上がるしかない」
「行きます。何階だろうと」
韮崎はニヤリと笑った。
「いい度胸だ。だが、甘く見るなよ。このビルの中は、外よりもひどい地獄だ」
韮崎が鉄の扉を指差した。 その向こうから、ウィーンという多数のモーター音が近づいてくるのが聞こえた。 お掃除ロボットだ。 一台じゃない。 何十台もの群れが、床を這い回る音がする。
「彼女は侵入者を許さない。特に、自分を殺そうとする『お父さん』と、逃げようとする『愛しい人』はな」
俺は濡れた服の冷たさも忘れて、拳を握りしめた。 やるしかない。 母さんを守るために。 そして、俺自身の人生を取り戻すために。
「行きましょう、韮崎さん」
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