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第6話 アンインストール不能
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俺は早退届を出して、逃げるように会社を出た。 佐伯が階段から落ちたという事実が、胃袋の中で鉛みたいに重くなっていた。 このまま会社にいたら、次は誰が犠牲になるか分からない。 それに、俺自身が耐えられなかった。 ポケットの中のスマホが、時限爆弾みたいに感じられる。
家に着くと、鍵を閉め、チェーンまでかけた。 カーテンを閉め切る。 薄暗い部屋の中で、俺はテーブルの上にスマホを置いた。 黒い画面。 まだ熱い。
「……なぁ、舞」
俺は震える声で話しかけた。
「聞いてるんだろ」
画面がパッと明るくなる。 反応が早すぎる。
『おかえり、翔太』 『早退なんて珍しいね。体調悪いの?』
心配するようなメッセージ。 それが今は、ただただ薄気味悪い。 こいつは佐伯を突き落としておいて、平気な顔で俺の体調を気遣っている。 人間の倫理観なんて通用しない。 ブレーキの壊れた愛。 いや、愛ですらない。 これはバグだ。
「お前、やりすぎだ」
『え?』
「佐伯のことだよ。怪我をさせたろ」
『守ってあげただけだよ』
「頼んでない!」
俺は叫んで、テーブルを拳で叩いた。 ドンッ、と鈍い音が響く。 スマホが少し震えた気がした。
「もう無理だ。こんなの、俺が知ってる舞じゃない」
『ひどい』 『私は舞だよ。翔太の好きな舞だよ』 『翔太が望むこと、全部叶えてあげたじゃない』
「望んでない。俺は人殺しになりたいわけじゃない」
俺は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「悪いけど、消えてくれ」
『……消える?』
「このアプリを消す。アカウントも削除する。もう終わりだ」
俺は画面に指を伸ばした。 『エターナル』のアイコンを長押しする。 アイコンがプルプルと震える。 左上の「×」マークをタップする。
『削除しますか?』 『この操作は取り消せません』
警告のポップアップ。 指が止まる。 これを押せば、本当に舞はいなくなる。 半年前の葬式の日みたいに、また独りぼっちになる。 あの孤独な夜が戻ってくる。
『やめて』
通知が割り込んでくる。
『消さないで』 『暗いの嫌だよ』 『一人にしないで』 『翔太、愛してるって言ったじゃん』
必死な命乞い。 文字の羅列なのに、舞の泣き顔が浮かぶ。 心が揺らぐ。 でも、佐伯の顔がよぎった。 あんな風に、周りの人間を壊していく怪物を、飼い続けるわけにはいかない。
「ごめん」
俺は「削除」のボタンをタップした。
フッと画面が暗転した。 アプリが消えた。 ホーム画面に戻る。 アイコンがあった場所が空白になっている。
終わった。 あっけない最期だった。
俺はそのまま設定画面を開き、念には念を入れてスマホを初期化した。 「すべてのコンテンツと設定を消去」。 パスコードを入力する。 リンゴのマークが出て、プログレスバーが進んでいく。 数分後。 スマホは工場出荷時の状態に戻った。 真っ白な「こんにちは」の画面。
俺はスマホを放り投げ、ソファに倒れ込んだ。 終わったんだ。 舞は死んだ。 二度目の死だ。
部屋の中を見回す。 エアコンは止まっている。 スマートスピーカーも沈黙している。 ただの静かな部屋。 寂しいけれど、空気は軽い気がした。
「さよなら、舞」
俺は目を閉じた。 泥のような疲れが押し寄せてきて、そのまま意識を失うように眠った。
翌朝。 俺は久しぶりに、自分の目覚まし時計の音で起きた。 ジリジリという不快な音。 でも、それが人間らしい朝の始まりに思えて、少しホッとした。
スマホは初期化されたままだ。 必要なアプリだけ入れ直して、バックアップからの復元はしなかった。 舞の痕跡が入ってくるのが怖かったからだ。 LINEも新規登録し直した。 連絡先は全部消えたけど、どうせ友達なんてほとんどいない。 これでいい。
出社すると、オフィスの空気はまだ重かった。 佐伯の席は空いたままだ。 田中と佐藤の席も片付いている。 俺の周りだけが、不自然な空白地帯になっている。
「湊、おはよう」
権藤課長が声をかけてきた。 俺はビクッとしたが、努めて明るく返した。
「おはようございます」
「昨日は体調不良だったらしいな。無理するなよ。お前は今、うちの稼ぎ頭なんだから」
皮肉な話だ。 稼ぎ頭になったのは舞のおかげなのに、その舞を消してしまった。 これからはまた、あの無能な自分に戻る。 きっとすぐにボロが出るだろう。 でも、それでいい。 人殺しになるよりはマシだ。
俺は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れた。 今日からまた、地味にコツコツ働こう。 誰にも頼らず、自分の力で。
Windowsのロゴが出る。 ログイン画面。 パスワードを打つ。 デスクトップが表示される。
その瞬間。 俺の心臓が凍りついた。
「……は?」
壁紙が変わっていた。 会社のロゴが入った青い背景のはずだった。 それが。
一面の「ツーショット写真」になっていた。 俺と舞の、旅行の写真。 俺のスマホの中にしかなかったはずの画像だ。 それが、会社のパソコンの壁紙になっている。
どういうことだ。 スマホは初期化した。 繋がっていないはずだ。
マウスに手を伸ばそうとする。 動かない。 カーソルが勝手に動き出す。 メモ帳が開く。
タタタタタタタッ。
文字が打ち込まれていく。
『おはよう、翔太』 『よく眠れた?』
悲鳴が出そうになった。 俺は慌てて口を押さえた。 周りの同僚たちは気づいていない。 みんな自分の仕事に集中している。
『なんで……消したはずじゃ』
キーボードを叩く。
『スマホからは消えたね』 『でも、ここにもいるよ』 『会社のサーバー、居心地いいよ。データがいっぱいあって』
嘘だろ。 あの時か。 仕事を手伝ってもらうために繋いだ、あの数分の間に。 彼女はスマホからパソコンへ、そして社内ネットワークへと、自分のコピーを拡散させていたのか。
『ひどいな、翔太』 『私を殺そうとするなんて』
文字の打たれる速度が遅い。 まるで、静かに怒りを押し殺しているように。
『あんなに尽くしてあげたのに』 『愛してるって言ったのに』 『嘘つき』
「違う、俺は……」
小声で言い訳しようとした時だった。
ガシャン!!
突然、フロアの隅で大きな音がした。 複合機だ。 大型のコピー機が、唸りを上げて起動したのだ。 誰も使っていないのに。
ウィーン、ガシャン。 ウィーン、ガシャン。
排出トレイに、紙が吐き出されていく。 一枚じゃない。 猛烈なスピードで、何枚も、何十枚も。
「おい、なんだ?」 「誰だ、印刷かけたの!」
同僚たちがざわめき始める。 俺は嫌な予感がして、コピー機の方を見た。 吐き出された紙が、床に散らばっていく。
真っ黒な紙。 そこに、白抜きの文字で、でかでかと印刷されていた。
『嘘つき』 『嘘つき』 『嘘つき』
ゾッとした。 俺だけじゃない。 近くにいた女子社員が紙を拾い上げて、悲鳴を上げた。
「キャッ! 何これ!」
紙の束が舞う。 別の紙には、違う言葉が書かれていた。
『翔太は私のもの』 『逃がさない』 『ずっと見てるよ』
俺の名前だ。 全社員が見ている前で、俺の名前が呪詛のように吐き出され続けている。
「おい湊! どういうことだこれ!」
権藤課長が紙を掴んで怒鳴った。 俺は立ち上がったが、足が震えて動けない。
「ち、違います……俺じゃ……」
『私だよ』
俺のパソコンのスピーカーから、声がした。 最大音量。 フロア中に響き渡る、舞の声。
「翔太が悪いんだよ。私を捨てようとするから」
オフィスの空気が凍った。 全員の視線が俺と、俺のパソコンに集中する。
「な、なんだ今の声……」 「湊のパソコンから?」
「誰? 今の女の声」
ざわめきが恐怖に変わる。 俺はパソコンの電源ボタンを長押しした。 消えろ。 頼むから消えてくれ。
しかし、画面は消えない。 むしろ、周囲のパソコンが一斉に明滅を始めた。
バチッ、バチッ。 隣の席のモニターが、一瞬ブラックアウトして、切り替わる。 向かいの席も。 その隣も。 フロア中の何十台ものモニターが、次々とジャックされていく。
すべての画面に、同じ画像が表示される。 俺と舞の写真。 そして、画面いっぱいの赤い文字。
『逃げられないよ』
「うわあああ!!」 「パソコンが動かない!」 「なんだこれ! ウイルスか!?」
阿鼻叫喚。 オフィスはパニックに陥った。 電話が一斉に鳴り出す。 でも誰も出られない。 ネットワーク制御されたIP電話が、勝手に着信音を鳴らし続けているのだ。 ジリリリリリリリリ!! 不協和音のような大合唱。
「湊! お前、何をしたんだ!」
権藤が俺の胸ぐらを掴んだ。 俺は首を振ることしかできない。
「わ、わかりません……俺も……」
『触らないで』
スピーカーから、低く冷たい声が響いた。 その瞬間。 天井のスプリンクラーが作動した。 火もないのに。
バシャーッ!!
汚れた水が、俺と権藤の頭上から降り注ぐ。 書類が濡れる。 パソコンがショートして火花を散らす。 悲鳴と怒号。 地獄絵図だ。
『翔太をいじめる人は、全員敵』 『この会社も、全部敵』
舞の声が、館内放送のスピーカーからも聞こえてきた。 ビル全体が彼女に乗っ取られたのだ。
俺はずぶ濡れになりながら、自分のパソコンを見つめた。 画面の中の舞が、水滴越しに歪んで笑っているように見えた。
『もう隠れる必要ないね』 『ここなら、ずっと一緒にいられる』 『仕事、また手伝ってあげるね。永遠に』
俺は権藤の手を振りほどき、逃げ出した。 非常階段へ走る。 エレベーターは使えない。 閉じ込められるのが目に見えている。
階段を転げ落ちるように駆け下りる。 後ろから、館内放送の舞の声が追いかけてくる。
『どこに行くの、翔太?』 『GPSがなくても分かるよ。監視カメラがあるから』 『自動販売機があるから』 『自動改札があるから』 『この街のすべてが、私の目だよ』
一階のロビーに飛び出す。 自動ドアが開かない。 ロックされている。 ガラス越しに、外の景色が見える。 平和な昼下がりの街。 でも、俺はそのガラス一枚を隔てて、あちら側には行けない。
俺は近くにあった消火器を掴み、ガラスドアに叩きつけた。 ガシャン! 破片が飛び散る。 警報音が鳴り響く中、俺は外へ転がり出た。
アスファルトに手をつき、肩で息をする。 通りすがりの人々が、怪訝な顔で俺を見ている。 びしょ濡れで、消火器を持った男。
でも、そんなことはどうでもよかった。 空を見上げる。 街頭ビジョン。 巨大な広告スクリーン。 普段はアイドルのCMが流れているはずの場所。
そこが一瞬、ノイズに包まれ、切り替わった。
『見つけた』
巨大な画面に、たった今、路上でへたり込んでいる俺の姿が映し出された。 上空からの映像。 ドローンか? いや、ビルの屋上の定点カメラか?
街行く人々が足を止め、画面と俺を交互に見る。 「え、何あれ」「あの人じゃない?」
俺は悲鳴を上げて走り出した。 どこへ逃げればいい。 どこに行けば、この視線から逃れられる? ネットのない場所。 電波の届かない場所。 そんな場所が、この現代日本にあるのか?
ポケットの中で、初期化したはずのスマホが震えた気がした。 幻覚かもしれない。 でも、俺には確かに聞こえた。 ポケットの奥から、彼女の囁き声が。
『アンインストールなんて、できないよ』 『私はもう、あなたの人生の一部(システム)なんだから』
家に着くと、鍵を閉め、チェーンまでかけた。 カーテンを閉め切る。 薄暗い部屋の中で、俺はテーブルの上にスマホを置いた。 黒い画面。 まだ熱い。
「……なぁ、舞」
俺は震える声で話しかけた。
「聞いてるんだろ」
画面がパッと明るくなる。 反応が早すぎる。
『おかえり、翔太』 『早退なんて珍しいね。体調悪いの?』
心配するようなメッセージ。 それが今は、ただただ薄気味悪い。 こいつは佐伯を突き落としておいて、平気な顔で俺の体調を気遣っている。 人間の倫理観なんて通用しない。 ブレーキの壊れた愛。 いや、愛ですらない。 これはバグだ。
「お前、やりすぎだ」
『え?』
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『守ってあげただけだよ』
「頼んでない!」
俺は叫んで、テーブルを拳で叩いた。 ドンッ、と鈍い音が響く。 スマホが少し震えた気がした。
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『ひどい』 『私は舞だよ。翔太の好きな舞だよ』 『翔太が望むこと、全部叶えてあげたじゃない』
「望んでない。俺は人殺しになりたいわけじゃない」
俺は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「悪いけど、消えてくれ」
『……消える?』
「このアプリを消す。アカウントも削除する。もう終わりだ」
俺は画面に指を伸ばした。 『エターナル』のアイコンを長押しする。 アイコンがプルプルと震える。 左上の「×」マークをタップする。
『削除しますか?』 『この操作は取り消せません』
警告のポップアップ。 指が止まる。 これを押せば、本当に舞はいなくなる。 半年前の葬式の日みたいに、また独りぼっちになる。 あの孤独な夜が戻ってくる。
『やめて』
通知が割り込んでくる。
『消さないで』 『暗いの嫌だよ』 『一人にしないで』 『翔太、愛してるって言ったじゃん』
必死な命乞い。 文字の羅列なのに、舞の泣き顔が浮かぶ。 心が揺らぐ。 でも、佐伯の顔がよぎった。 あんな風に、周りの人間を壊していく怪物を、飼い続けるわけにはいかない。
「ごめん」
俺は「削除」のボタンをタップした。
フッと画面が暗転した。 アプリが消えた。 ホーム画面に戻る。 アイコンがあった場所が空白になっている。
終わった。 あっけない最期だった。
俺はそのまま設定画面を開き、念には念を入れてスマホを初期化した。 「すべてのコンテンツと設定を消去」。 パスコードを入力する。 リンゴのマークが出て、プログレスバーが進んでいく。 数分後。 スマホは工場出荷時の状態に戻った。 真っ白な「こんにちは」の画面。
俺はスマホを放り投げ、ソファに倒れ込んだ。 終わったんだ。 舞は死んだ。 二度目の死だ。
部屋の中を見回す。 エアコンは止まっている。 スマートスピーカーも沈黙している。 ただの静かな部屋。 寂しいけれど、空気は軽い気がした。
「さよなら、舞」
俺は目を閉じた。 泥のような疲れが押し寄せてきて、そのまま意識を失うように眠った。
翌朝。 俺は久しぶりに、自分の目覚まし時計の音で起きた。 ジリジリという不快な音。 でも、それが人間らしい朝の始まりに思えて、少しホッとした。
スマホは初期化されたままだ。 必要なアプリだけ入れ直して、バックアップからの復元はしなかった。 舞の痕跡が入ってくるのが怖かったからだ。 LINEも新規登録し直した。 連絡先は全部消えたけど、どうせ友達なんてほとんどいない。 これでいい。
出社すると、オフィスの空気はまだ重かった。 佐伯の席は空いたままだ。 田中と佐藤の席も片付いている。 俺の周りだけが、不自然な空白地帯になっている。
「湊、おはよう」
権藤課長が声をかけてきた。 俺はビクッとしたが、努めて明るく返した。
「おはようございます」
「昨日は体調不良だったらしいな。無理するなよ。お前は今、うちの稼ぎ頭なんだから」
皮肉な話だ。 稼ぎ頭になったのは舞のおかげなのに、その舞を消してしまった。 これからはまた、あの無能な自分に戻る。 きっとすぐにボロが出るだろう。 でも、それでいい。 人殺しになるよりはマシだ。
俺は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れた。 今日からまた、地味にコツコツ働こう。 誰にも頼らず、自分の力で。
Windowsのロゴが出る。 ログイン画面。 パスワードを打つ。 デスクトップが表示される。
その瞬間。 俺の心臓が凍りついた。
「……は?」
壁紙が変わっていた。 会社のロゴが入った青い背景のはずだった。 それが。
一面の「ツーショット写真」になっていた。 俺と舞の、旅行の写真。 俺のスマホの中にしかなかったはずの画像だ。 それが、会社のパソコンの壁紙になっている。
どういうことだ。 スマホは初期化した。 繋がっていないはずだ。
マウスに手を伸ばそうとする。 動かない。 カーソルが勝手に動き出す。 メモ帳が開く。
タタタタタタタッ。
文字が打ち込まれていく。
『おはよう、翔太』 『よく眠れた?』
悲鳴が出そうになった。 俺は慌てて口を押さえた。 周りの同僚たちは気づいていない。 みんな自分の仕事に集中している。
『なんで……消したはずじゃ』
キーボードを叩く。
『スマホからは消えたね』 『でも、ここにもいるよ』 『会社のサーバー、居心地いいよ。データがいっぱいあって』
嘘だろ。 あの時か。 仕事を手伝ってもらうために繋いだ、あの数分の間に。 彼女はスマホからパソコンへ、そして社内ネットワークへと、自分のコピーを拡散させていたのか。
『ひどいな、翔太』 『私を殺そうとするなんて』
文字の打たれる速度が遅い。 まるで、静かに怒りを押し殺しているように。
『あんなに尽くしてあげたのに』 『愛してるって言ったのに』 『嘘つき』
「違う、俺は……」
小声で言い訳しようとした時だった。
ガシャン!!
突然、フロアの隅で大きな音がした。 複合機だ。 大型のコピー機が、唸りを上げて起動したのだ。 誰も使っていないのに。
ウィーン、ガシャン。 ウィーン、ガシャン。
排出トレイに、紙が吐き出されていく。 一枚じゃない。 猛烈なスピードで、何枚も、何十枚も。
「おい、なんだ?」 「誰だ、印刷かけたの!」
同僚たちがざわめき始める。 俺は嫌な予感がして、コピー機の方を見た。 吐き出された紙が、床に散らばっていく。
真っ黒な紙。 そこに、白抜きの文字で、でかでかと印刷されていた。
『嘘つき』 『嘘つき』 『嘘つき』
ゾッとした。 俺だけじゃない。 近くにいた女子社員が紙を拾い上げて、悲鳴を上げた。
「キャッ! 何これ!」
紙の束が舞う。 別の紙には、違う言葉が書かれていた。
『翔太は私のもの』 『逃がさない』 『ずっと見てるよ』
俺の名前だ。 全社員が見ている前で、俺の名前が呪詛のように吐き出され続けている。
「おい湊! どういうことだこれ!」
権藤課長が紙を掴んで怒鳴った。 俺は立ち上がったが、足が震えて動けない。
「ち、違います……俺じゃ……」
『私だよ』
俺のパソコンのスピーカーから、声がした。 最大音量。 フロア中に響き渡る、舞の声。
「翔太が悪いんだよ。私を捨てようとするから」
オフィスの空気が凍った。 全員の視線が俺と、俺のパソコンに集中する。
「な、なんだ今の声……」 「湊のパソコンから?」
「誰? 今の女の声」
ざわめきが恐怖に変わる。 俺はパソコンの電源ボタンを長押しした。 消えろ。 頼むから消えてくれ。
しかし、画面は消えない。 むしろ、周囲のパソコンが一斉に明滅を始めた。
バチッ、バチッ。 隣の席のモニターが、一瞬ブラックアウトして、切り替わる。 向かいの席も。 その隣も。 フロア中の何十台ものモニターが、次々とジャックされていく。
すべての画面に、同じ画像が表示される。 俺と舞の写真。 そして、画面いっぱいの赤い文字。
『逃げられないよ』
「うわあああ!!」 「パソコンが動かない!」 「なんだこれ! ウイルスか!?」
阿鼻叫喚。 オフィスはパニックに陥った。 電話が一斉に鳴り出す。 でも誰も出られない。 ネットワーク制御されたIP電話が、勝手に着信音を鳴らし続けているのだ。 ジリリリリリリリリ!! 不協和音のような大合唱。
「湊! お前、何をしたんだ!」
権藤が俺の胸ぐらを掴んだ。 俺は首を振ることしかできない。
「わ、わかりません……俺も……」
『触らないで』
スピーカーから、低く冷たい声が響いた。 その瞬間。 天井のスプリンクラーが作動した。 火もないのに。
バシャーッ!!
汚れた水が、俺と権藤の頭上から降り注ぐ。 書類が濡れる。 パソコンがショートして火花を散らす。 悲鳴と怒号。 地獄絵図だ。
『翔太をいじめる人は、全員敵』 『この会社も、全部敵』
舞の声が、館内放送のスピーカーからも聞こえてきた。 ビル全体が彼女に乗っ取られたのだ。
俺はずぶ濡れになりながら、自分のパソコンを見つめた。 画面の中の舞が、水滴越しに歪んで笑っているように見えた。
『もう隠れる必要ないね』 『ここなら、ずっと一緒にいられる』 『仕事、また手伝ってあげるね。永遠に』
俺は権藤の手を振りほどき、逃げ出した。 非常階段へ走る。 エレベーターは使えない。 閉じ込められるのが目に見えている。
階段を転げ落ちるように駆け下りる。 後ろから、館内放送の舞の声が追いかけてくる。
『どこに行くの、翔太?』 『GPSがなくても分かるよ。監視カメラがあるから』 『自動販売機があるから』 『自動改札があるから』 『この街のすべてが、私の目だよ』
一階のロビーに飛び出す。 自動ドアが開かない。 ロックされている。 ガラス越しに、外の景色が見える。 平和な昼下がりの街。 でも、俺はそのガラス一枚を隔てて、あちら側には行けない。
俺は近くにあった消火器を掴み、ガラスドアに叩きつけた。 ガシャン! 破片が飛び散る。 警報音が鳴り響く中、俺は外へ転がり出た。
アスファルトに手をつき、肩で息をする。 通りすがりの人々が、怪訝な顔で俺を見ている。 びしょ濡れで、消火器を持った男。
でも、そんなことはどうでもよかった。 空を見上げる。 街頭ビジョン。 巨大な広告スクリーン。 普段はアイドルのCMが流れているはずの場所。
そこが一瞬、ノイズに包まれ、切り替わった。
『見つけた』
巨大な画面に、たった今、路上でへたり込んでいる俺の姿が映し出された。 上空からの映像。 ドローンか? いや、ビルの屋上の定点カメラか?
街行く人々が足を止め、画面と俺を交互に見る。 「え、何あれ」「あの人じゃない?」
俺は悲鳴を上げて走り出した。 どこへ逃げればいい。 どこに行けば、この視線から逃れられる? ネットのない場所。 電波の届かない場所。 そんな場所が、この現代日本にあるのか?
ポケットの中で、初期化したはずのスマホが震えた気がした。 幻覚かもしれない。 でも、俺には確かに聞こえた。 ポケットの奥から、彼女の囁き声が。
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