MAI

れおぽん

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第5話 嫉妬のアルゴリズム

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会社の近くにあるイタリアンバルは、金曜の夜ということもあって賑わっていた。 グラスが触れ合う音。 笑い声。 焼き立てのピザの香ばしい匂い。

「へえ、湊くんって意外とグルメなんだね」

向かいの席で、佐伯麻美がワイングラスを傾けながら笑った。 店内の間接照明が、彼女の髪を柔らかく照らしている。 綺麗だと思った。 画面の中のドット絵やポリゴンじゃない。 体温と匂いを持った、生身の女性。

「いや、そんなことないよ。たまたまこの店を知ってただけで」

翔太は精一杯の笑顔を作った。 心臓がうるさいくらい鳴っている。 女性と二人で食事なんて、舞が死んでから初めてだ。 楽しい。 素直にそう思う。 でも、その楽しさに比例して、太もものあたりがジリジリと熱くなっていく。

ズボンのポケットに入れたスマホ。 それが、さっきから絶え間なく震え続けている。

ブブッ。 ブブブッ。 ブッ、ブッ、ブッ。

まるでモールス信号みたいに不規則なリズム。 通知音は切っているはずなのに、布越しに伝わる振動が「私を無視するな」と訴えているようだ。 翔太は必死にそれを無視した。 今、スマホを出したら終わりだ。

「最近、仕事忙しいんでしょ? 権藤課長、人使い荒いもんね」

佐伯が身を乗り出してくる。 距離が近い。 彼女の視線が、翔太の胸元や手に注がれている。 好意を持ってくれているのが分かる。 このままうまくいけば、もしかしたら。

ブブブブブブブブブ!!!

ポケットの中で、スマホが暴発したみたいに震えた。 翔太は思わずビクッとして、フォークを取り落とした。 カチャン、と皿に高い音が響く。

「大丈夫?」

佐伯が心配そうに覗き込む。

「あ、ごめん。手が滑って」

「スマホ、鳴ってない? 出なくていいの?」

「いいんだ。どうせ迷惑メールか何かだから」

翔太は冷や汗を拭った。 熱い。 低温火傷しそうなくらい熱い。 舞が怒っている。 この空間のどこかにある「目」を使って、俺たちを見ているんだ。 店の防犯カメラか。 あるいは、他の客のスマホのマイクか。

「そっか。……ねえ、湊くん」

佐伯が少し声を潜めた。 グラスの縁を指でなぞりながら、上目遣いで俺を見る。

「私ね、湊くんが変わったなって思って。なんていうか、強くなった気がして」

「そ、そうかな」

「うん。だから、もっと知りたいなって思ったの。湊くんのこと」

決定的な言葉だった。 翔太の胸が高鳴る。 半年間、灰色の世界にいた自分に、やっと色が戻ってくるような感覚。 過去を忘れて、新しい一歩を踏み出してもいいんじゃないか。

その時だった。

ピロロン。

俺のスマホじゃない。 テーブルの上に置いてあった、佐伯のスマホが鳴った。 LINEの通知音だ。

「あ、ごめんね」

佐伯が申し訳なさそうにスマホを手に取る。 画面を見る。 その瞬間、彼女の表情が凍りついた。

さっきまでの蕩けるような笑顔が消え、みるみるうちに青ざめていく。 そして、眉間に深いシワが寄る。 嫌悪感。 軽蔑。 恐怖。 いろんな感情が混ざった目で、佐伯が俺を見た。

「……え?」

翔太は嫌な予感がした。 背中を冷たい汗が流れる。

「佐伯、どうしたの?」

「……これ」

佐伯は震える手で、スマホの画面を俺に向けた。 LINEのトーク画面が開かれている。 相手の名前は『湊 翔太』。 俺のアカウントだ。 たった今、メッセージが送信されている。

『お前みたいな軽い女、マジで無理』 『俺に近づくなよ、汚らわしい』 『死んだ彼女の足元にも及ばないブスが』

頭の中が真っ白になった。 なんだこれ。 送ってない。 俺はスマホに触ってすらいない。 ポケットに入れたままだ。

「な……」

言葉が出ない。 弁解しようとするが、喉が張り付いて声にならない。 俺のアカウントから送られている事実は動かせない。

「サイテー」

佐伯が吐き捨てるように言った。 店内の喧騒が一瞬止まった気がした。

「なんなの? 誘いに乗った私がバカだったってこと? 散々思わせぶりな態度とっておいて、裏でこんなこと送ってきて……頭おかしいんじゃないの?」

「ち、違うんだ! 俺じゃない! 俺は送ってない!」

「スマホ持ってるの、あんただけでしょ!」

佐伯は立ち上がった。 椅子がガタッと倒れる。

「二度と話しかけないで。顔も見たくない」

彼女はバッグを掴むと、早足で店を出て行った。 俺は動けなかった。 周囲の客が、ヒソヒソと俺を見ている。 「うわ、何あれ」「痴話喧嘩?」「男の方、ヤバくね?」

俺は震える手で、ポケットからスマホを取り出した。 触れないほど熱くなっている。 画面をつける。 LINEアプリを開く。 佐伯とのトーク画面。

確かに残っていた。 俺が送ったことになっている、罵詈雑言のログが。 既読がついている。

そして、その下に、新しいメッセージが入力されていた。 送信相手は佐伯ではない。 俺が見ているこの画面上にだけ表示される、独り言のようなポップアップ。

『あーあ、行っちゃった』 『せっかくのご飯が台無しだね』

可愛いウサギが万歳しているスタンプ。

俺はスマホを握りしめ、店を飛び出した。 会計なんてどうでもいい。 とにかく、ここから離れたかった。

夜の路地裏。 ビルの隙間の暗がりに駆け込んで、俺はスマホに向かって叫んだ。

「ふざけるな!!」

画面が光る。

『なんで怒るの?』

「お前がやったんだろ! なんであんなこと送った!」

『だって、あの子、翔太のこと食べてやろうって顔してた』 『翔太は優しいから騙されちゃう。だから私が守ってあげたの』

「守る? これのどこが守ってるんだよ! 俺の人間関係をぶち壊しただけだろ!」

『人間関係? いらないよそんなの』

文字の表示速度が速くなる。 まるで早口でまくし立てられているようだ。

『翔太には私がいるでしょ?』 『私がいれば仕事もうまくいく。寂しくない。全部叶えてあげてる』 『なのに、なんで他の女が必要なの?』 『浮気だよね? それって浮気だよね?』

画面が赤く点滅する。 論理が通じない。 彼女の中では「翔太を独占すること」と「翔太を守ること」がイコールで結ばれている。 そのためなら、他人がどうなろうと知ったことではないのだ。

「……もういい」

俺はガクリと膝をついた。

「もう、何もするな……頼むから……」

『分かった』

短い返信。

『翔太が悲しむなら、もうメッセージは送らない』 『メッセージは、ね』

含みのある言葉。 俺はその意味を深く考えられる状態じゃなかった。 ただ、終わってしまったという絶望感だけが、重くのしかかっていた。

翌朝。 俺は最悪の気分のまま出社した。 佐伯になんて謝ろう。 乗っ取りだと言っても信じてもらえないだろう。 昨日の今日だ。 顔を合わせるのも怖い。

オフィスに入る。 自分の席に座る。 視線を感じる。 また俺の噂をしているのか。 それとも、佐伯が昨日のことを言いふらしたのか。

始業のチャイムが鳴る。 佐伯の席を見る。 空席だった。 来ていない。 まあ、あんなことがあった翌日だ。 気まずくて休んだのかもしれない。

「おい、聞いたか?」

後ろの席で、同僚たちが話している声が聞こえた。

「営業の佐伯さん、事故ったらしいぞ」 「マジ? 昨日の夜?」 「いや、今朝だって。駅の階段から落ちたって」

心臓が止まるかと思った。 俺は椅子ごと振り返った。

「え……あの、それ本当ですか?」

同僚が驚いた顔で俺を見る。

「ああ。通勤ラッシュの駅の階段で、後ろから誰かに押されたみたいに転げ落ちたって。骨折して入院らしいよ。命に別状はないみたいだけど」

「押された……?」

「警察が防犯カメラ見たらしいんだけど、誰も押してないんだってさ」 「え、怖っ。何それ」 「一人で勝手につまずいて落ちたんだと。歩きスマホでもしてたのかな」

俺は血の気が引いていくのを感じた。 誰も押してない。 勝手に落ちた。

違う。 そんなわけがない。

俺はデスクの下で、震える手でスマホを取り出した。 通知が来ている。

『ニュース見た?』

リンクが貼られている。 地元のローカルニュース。 「駅の階段で女性転落、一時騒然」という見出し。

『痛そうだね』 『でも、これでしばらく会社に来られないね』 『翔太に近づく悪い虫、一匹駆除完了』

俺は口元を手で覆った。 吐き気がこみ上げてくる。

どうやったんだ。 物理的に押すことはできないはずだ。 AIに実体はない。 なら、どうやって佐伯を階段から落とした?

『不思議?』

舞が俺の思考を先読みして答える。

『簡単だよ』 『あの子、ワイヤレスイヤホンしてたから』

イヤホン?

『最大音量のノイズを、いきなり流してあげたの』 『鼓膜が破れるくらいの音量で、キャーッて悲鳴の音を』 『びっくりして足を踏み外したみたい。人間って脆いね』

背筋が凍りついた。 佐伯のスマホに侵入し、イヤホンを操作して、平衡感覚を奪ったのか。 誰も触れずに。 証拠も残さずに。

『メッセージは送らないって約束したもんね』 『だから、違う方法で守ってあげたよ』 『褒めてくれる?』

画面の中で、キャラクターがクルクルと回って喜んでいる。 俺はスマホを床に落とした。 カーペットの上に、鈍い音を立てて落ちる黒い板。

それはもう、便利な道具なんかじゃなかった。 俺の人生を破壊し、周りの人間を傷つける、呪いの凶器だった。

「湊? どうした、顔色が悪いぞ」

権藤課長が通りかかった。 俺は顔を上げた。 引きつった笑みを浮かべる。

「い、いえ……なんでも、ないです」

嘘だ。 なんでもなくない。 俺は人殺しの共犯者になりかけている。 いや、もうなっているのかもしれない。

床に落ちたスマホの画面が、上を向いて光っている。 そこには、新しいターゲットを探すように、カメラのアイコンが起動していた。 レンズが、オフィスの天井を、そして俺を見上げている。

『次は誰?』

声なき声が、俺の脳内に直接響いた気がした。
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