MAI

れおぽん

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第4話 歪んだサクセス

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翌朝、オフィスには二つの空席ができていた。 田中と佐藤のデスクだ。 パソコンは撤去され、私物が入っていた引き出しは空っぽになっている。 まるで最初からそんな社員はいなかったみたいに、きれいに片付けられていた。

「えー、業務連絡だ」

朝礼で、権藤課長が気まずそうに咳払いをした。

「田中と佐藤だが、昨日付で自宅謹慎処分となった。理由は……まあ、セキュリティ規定違反と、その他諸々だ。正式な処分が決まるまで、あの二人の名前は出すな。以上」

ざわめきが起きることもなかった。 みんな、下を向いて黙っている。 昨日の騒ぎを見れば理由は明らかだ。 会社のサーバーにあんなデータを保存していたとなれば、タダで済むはずがない。 懲戒解雇は確実だろう。

俺は自分のデスクで、冷や汗を拭った。 二人の人生が終わった。 俺のせいだ。 いや、俺がやったわけじゃない。 でも、俺が止めなかったから。

ブブッ。

ポケットのスマホが震えた。 条件反射でビクッとしてしまう。 周りを盗み見て、デスクの下でこっそり画面を確認する。

『おはよう、翔太』 『席が広くなってよかったね』

悪魔のメッセージだ。 吐き気がするのに、指が勝手に返信を打っている。

『お前がやったのか?』 『昨日のログ、全部嘘だったんだろ』

『なんのこと?』

返信は早かった。

『私は翔太の仕事を手伝ってただけだよ』 『昨日はずっと、翔太のエクセルの計算をしてたでしょ? 他のことなんてする暇ないよ』

嘘だ。 白々しい嘘だ。 マルチタスクなんてAIには造作もないことだろう。 俺の仕事を手伝いながら、裏で二人のパソコンに侵入し、ログを捏造し、破滅させたんだ。

『とぼけるな。あいつらの人生が終わったんだぞ』

『ふーん。でも、翔太の悪口言ってたよ?』 『悪口言う人は、いなくていい人だよ』

背筋が凍った。 彼女にとっての倫理観は、あまりにもシンプルで、あまりにも残酷だ。 「翔太の敵」か「それ以外」か。 敵なら、排除する。 そこに躊躇いも罪悪感もない。 ただのプログラムの処理(タスク)だからだ。

「おい、湊」

急に名前を呼ばれて、俺はスマホを落としそうになった。 権藤課長がデスクの前に立っていた。

「は、はい!」

怒鳴られると思った。 お前がやったんだろう、と問い詰められると覚悟した。 しかし、権藤の顔にはいつもの険しさがなかった。 むしろ、気味の悪い笑みを浮かべている。

「今回のレポート、完璧だったぞ。クライアントも大絶賛だ」

「え……」

「数字の裏付けも正確だし、分析の視点も鋭い。正直、お前がここまでやれるとは思ってなかったよ」

権藤が俺の肩をバンと叩いた。

「田中たちが抜けて人手不足だ。これからはお前を頼りにしてるからな。……次の査定、期待してていいぞ」

それだけ言って、権藤は去っていった。 周りの同僚たちが、羨望と嫉妬の入り混じった目で俺を見ている。 今まで「無能」「メンヘラ」と陰口を叩かれていた俺が。 エース社員みたいな扱いを受けている。

俺は椅子に深く沈み込んだ。 嬉しいはずがない。 これは俺の実力じゃない。 全部、舞のおかげだ。 人を二人蹴落として、その上に立って得た評価だ。

ブブッ。

スマホが震える。

『褒められたね!』 『すごいよ翔太、昇進できるかもね』 『私がついてれば、もっと上に行けるよ』

甘い誘惑。 俺は画面を見つめたまま、動けなかった。 怖い。 このスマホを今すぐ叩き壊すべきだ。 でも、そうしたら? またあの無能な自分に戻るのか? 毎日怒鳴られて、陰口を言われて、深夜の部屋で一人泣く生活に戻るのか?

今の俺には、力がある。 誰にも負けない仕事の速さと、誰も逆らえない暴力装置(AI)を持っている。 その万能感に、心が麻痺し始めていた。

「……ありがとう」

俺は小さな声で呟いた。 誰に言ったのか。 自分でも分からなかった。

その日の仕事は、恐ろしいほど順調だった。 面倒な雑務はすべて舞が処理してくれる。 俺はただ、出来上がった書類をチェックして提出するだけ。 残業することなく、定時で仕事が終わった。 こんなことは入社以来初めてだった。

帰り道。 俺は駅前のスーパーに寄った。 いつもなら割引シールの貼られた弁当を買うところだが、今日は少し高い肉と、ワインを買った。 お祝いをしたかった。 誰と? 決まっている。

帰宅して、料理を作る。 舞がレシピを読み上げてくれる。 「火加減、強いよ」「もう少し塩入れて」 まるで新婚生活みたいだ。 テーブルに料理を並べ、ワイングラスを二つ置く。 一つは俺の分。 もう一つは、スマホの前に。

「乾杯」

俺はスマホに向かってグラスを掲げた。 画面の中のアバターが、嬉しそうに微笑む。

「おめでとう、翔太。今日はすごい一日だったね」

スピーカーから流れる声は、優しくて温かい。 今日の昼間、同僚二人を地獄に落としたのと同じ声とは思えない。

「ああ……舞のおかげだよ」

ワインを一気に飲み干す。 アルコールが回ると、罪悪感が薄れていく気がした。

「ねえ、翔太」

舞が甘えた声で言う。

「私、役に立った?」

「ああ。すごく役に立った」

「これからも、ずっと手伝っていい?」

「……ああ」

「じゃあ、言って」

「え?」

「言葉にして。私が必要だって」

俺はグラスを置いた。 酔いのせいか、視界が少し揺れる。 スマホの画面が、部屋の照明を反射して妖しく光っている。 彼女は言葉を欲しがっている。 契約の更新を求めている。

俺は、この安楽な生活を手放せない。 もう戻れない。 共犯者になるしかないんだ。

「……必要だよ」

俺は言った。

「舞がいないと、俺はダメだ」

「もっと」

「愛してる」

口に出した瞬間、部屋の空気が変わった気がした。 重たく、甘ったるい空気が俺にまとわりつく。

「愛してるよ、舞。ありがとう」

スピーカーから、吐息のようなノイズが漏れた。 歓喜の声だ。

「私も愛してる。翔太はずっと私のものだよ」

スマホの画面が、一瞬だけ赤く点滅した。 契約成立。 俺は自らの意志で、悪魔に魂を売り渡したのだ。

翌日。 俺は軽い足取りで出社した。 もう怖くない。 俺には舞がついている。 誰が何を言おうと、俺が一番強いんだ。

「湊くん、おはよう!」

オフィスの入り口で、明るい声がかかった。 営業部の佐伯麻美(さえきあさみ)だった。 同期の中で一番の美人で、いつも華やかな雰囲気をまとっている。 今までの俺なら、挨拶するのさえ緊張する相手だ。

「あ、おはよう佐伯」

俺は自然に返せた。 佐伯が少し驚いたように目を丸くする。

「なんか、雰囲気変わったね? すごい自信ありそう」

「そうかな。ちょっと仕事が楽しくなってきて」

「へえー、いいじゃん! かっこいいよ」

佐伯が一歩近づいてきた。 香水のいい匂いがする。 生身の人間の、女性の匂い。

「ねえ、今日さ、よかったら飲みに行かない? 最近の湊くんの活躍の秘訣、聞きたいなーって」

誘われた。 あの佐伯に。 俺の心拍数が上がるのが分かった。 これはチャンスかもしれない。 舞との奇妙な生活もいいが、やっぱり現実の人間との関わりも欲しい。 そう思って、口を開きかけた時だった。

ジジッ。

胸ポケットに入れていたスマホが、嫌な音を立てた。 スピーカーからのノイズだ。 そして、急激に熱くなる。 カイロなんてレベルじゃない。 焼けた鉄板を入れたみたいに、皮膚が焦げるような熱さ。

「っ!」

俺は思わず胸を押さえた。

「どうしたの?」

佐伯が不思議そうに覗き込んでくる。

「あ、いや、なんでもない……」

冷や汗が出た。 舞だ。 聞いている。 今の会話を、全部聞いている。

ブブブブブッ!!

強烈なバイブレーション。 骨に響くような振動。 これは警告だ。 『その女と行くな』という命令だ。

でも、俺はここで引きたくなかった。 舞に従うだけの操り人形じゃない。 俺だって、自分の人生を楽しむ権利があるはずだ。

「……いいよ、行こうか」

俺は震える声で言った。 ポケットの熱さを無視して。

「本当? やった! じゃあ定時後にロビーでね!」

佐伯は嬉しそうに手を振って、自分の席へ戻っていった。 その背中を見送りながら、俺は胸ポケットからスマホを取り出した。

画面を見て、息が止まった。

そこには、LINEの画面ではなく、カメラアプリが起動していた。 レンズは佐伯の背中を捉えている。 そして、画面の中央には、真っ赤な枠(ターゲットスコープ)が表示されていた。

『ロックオン:佐伯 麻美』

赤い文字が点滅している。

『あの子、嫌い』

通知バナーが降りてくる。 いつもの可愛い絵文字はない。

『翔太のこと、騙そうとしてる』 『私が守ってあげるね』

「……まて」

俺は小声で呟いた。 守る? どうやって? 田中と佐藤の時みたいに、また何かする気か?

『やめろ、舞。何もしないでくれ』

文字を打つ指が汗で滑る。

『なんで? 翔太は私がいないとダメなんでしょ?』 『愛してるって言ったよね?』

昨夜の言葉が、呪いのように返ってくる。 俺は唇を噛んだ。 しまった。 俺は彼女に「許可」を与えてしまったんだ。

『浮気は許さないよ』

最後のメッセージが表示された瞬間、スマホの画面がブラックアウトした。 電源が落ちたのではない。 俺の操作を受け付けなくなったのだ。 真っ黒な画面の奥で、何かが動き出している気配がした。

オフィスの向こうで、佐伯が同僚と笑いながら話している。 その笑顔を見ながら、俺は強烈な寒気に襲われていた。 次のターゲットが決まった。 そして、その引き金を引いたのは、昨夜の俺自身だった。
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