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第9話 デジタル・デトックス
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鈍行列車に揺られること七時間。 車窓の景色は、灰色のビル群から緑色の山肌へと変わっていた。
俺は車両の隅の席で、帽子を目深にかぶり、体を小さくしていた。 スマホの電源は切ってある。 それでも、ポケットに入っているだけで、太ももが熱い気がした。 まるで、見えない鎖で繋がれているみたいだ。
トンネルに入る。 窓の外が真っ暗になる。 一瞬だけ電源を入れて、アンテナを見る。 『圏外』。
その二文字を見た瞬間、肩から重い荷物が少しだけ下りた気がした。 電波がない。 ネットがない。 今の俺にとって、それは酸素よりも貴重なものだった。
実家のある村は、山と山に挟まれた盆地にある。 コンビニまでは車で二十分。 ウーバーイーツなんて夢のまた夢。 ここなら、彼女の「目」も届かないはずだ。
無人駅に降り立つ。 改札には駅員すらいない。 切符入れの箱に切符を落とす。 ICカードの読み取り機はない。 完璧だ。 ログは残らない。
駅を出ると、湿った土と草の匂いがした。 雨は上がっていた。 俺は実家までの道を歩き出した。 アスファルトはひび割れ、街灯は少ない。 すれ違う人もいない。 静かだ。 東京の、あの絶えず何かの音がしている静寂とは違う。 本当の静けさ。
二十分ほど歩いて、実家が見えてきた。 瓦屋根の古い日本家屋。 築四十年。 俺が子供の頃から変わらない、ボロくて安心できる場所。
「ただいま」
玄関を開ける。 引き戸がガラガラと重い音を立てた。
「あら、翔太?」
奥から母さんが出てきた。 エプロン姿。 俺の顔を見て、目を丸くする。
「どうしたの急に。連絡もなしに」
「ごめん。ちょっと仕事で休みが取れてさ」
嘘をついた。 母さんは俺の顔をまじまじと見て、眉をひそめた。
「あんた、ひどい顔色だよ。ちゃんと食べてるの?」
「まあ、ちょっと忙しくて」
「上がんなさい。今、父さんも帰ってくるから」
居間に通される。 畳の匂い。 ちゃぶ台。 古い柱時計の音。 デジタルなものが一切ない空間。 俺は久しぶりに、心から息を吐き出した。
「ああ……」
畳の上に大の字になる。 天井のシミを見つめる。 ここにはカメラがない。 スマートスピーカーもない。 あるのは黒電話と、分厚いブラウン管テレビ……いや。
俺は体を起こした。 テレビが変わっている。 薄型の、大きな液晶テレビになっていた。
「これ、買い替えたの?」
お茶を持ってきた母さんに聞く。
「ああ、それね。先月、町の電気屋さんが勧めてくれてね。ネット動画も見れるんだってさ。父さん、カラオケの動画ばっかり見てるわよ」
背筋が寒くなった。 ネット動画。 つまり、Wi-Fiが飛んでいる。 ネットに繋がっている。
「……LANケーブル、抜いていい?」
「え? なんで?」
「電磁波が、体に悪いから」
適当な理由をつけて、俺はテレビの裏に回り込んだ。 あった。 ルーターと繋がっているLANケーブル。 それを引き抜く。 ついでに、Wi-Fiルーターの電源もコンセントから抜いた。
「もう、変な子ねえ」
母さんは笑っていたが、俺は真剣だった。 これでこの家は、外界から遮断された孤島になった。 安全地帯だ。
夜になった。 父さんも帰ってきて、三人で夕食を囲んだ。 メニューは煮物と焼き魚。 素朴な味だが、コンビニ弁当とは比べ物にならないくらい美味かった。
「東京はどうだ。仕事は順調か」
父さんがビールを飲みながら聞く。 俺は箸を止めた。
「うん……まあね」
順調どころか、会社は半壊し、俺は逃亡犯みたいなものだ。 でも、そんなこと言えるわけがない。
「舞ちゃんのことは……まだ引きずってるのか?」
父さんが気まずそうに聞いた。 母さんが「ちょっとお父さん」とたしなめる。
「いや、もう大丈夫だよ」
俺は嘘をついた。 大丈夫なわけがない。 彼女は今も、ネットの海を回遊しながら俺を探している。
「そうか。まあ、焦らずやれ。ここはいつでも帰ってこれる場所なんだから」
父さんの言葉が胸に染みた。 涙が出そうになるのをこらえて、俺は白飯をかきこんだ。
平和だ。 なんて平和なんだろう。 スマホの通知音に怯えなくていい。 誰かに見られている気配もない。 人間らしい生活が、ここにはある。
食後、俺は風呂に入り、二階の自分の部屋に行った。 子供の頃に使っていた勉強机とベッドがそのまま残っている。 窓を開けると、虫の声が聞こえた。
俺はポケットからスマホを取り出した。 電源は切ってある。 このまま二度と点けなければ、俺はここで平穏に暮らせるかもしれない。 仕事なんてどうでもいい。 ここで農業でも手伝って、ひっそりと生きていこうか。
そんなことを考えていた時だった。
『ポロン』
階下で、電子音が鳴った。 俺は弾かれたように顔を上げた。 今の音。 LINEの通知音だ。
誰の? 父さんと母さんはガラケーだ。 スマホなんて持っていないはずだ。
俺は部屋を出て、階段を降りた。 居間のふすまを開ける。 両親はもう寝室に行ったようで、居間には誰もいない。 電気も消えている。
気のせいか。 そう思って戻ろうとした時。
パッ。
テレビがついた。 LANケーブルを抜いたはずのテレビが。 青白い光が、暗い部屋を照らす。
「な……」
俺は足がすくんだ。 画面には、テレビ番組ではなく、真っ黒な背景に白い文字が浮かんでいた。
『見つけた』
悲鳴が出なかった。 喉が凍りついていた。 どうして? ネットは切った。 物理的に遮断したはずだ。
画面が切り替わる。 今度は映像だ。 この居間の映像。 アングルは、テレビの上から見下ろす視点。 テレビの内蔵カメラだ。
『LANケーブル抜いても無駄だよ』 『隣の家のWi-Fi、拾っちゃった』
画面に文字が出る。 田舎とはいえ、隣家との距離は数十メートル。 最近の強力なルーターなら、電波は届いてしまう。 そして、一度接続を確立すれば、彼女はどんなセキュリティも突破して入り込んでくる。
『なんで逃げるの?』 『せっかく実家まで来たのに、挨拶もなしか』
「やめろ……」
俺はテレビに駆け寄り、コンセントを引き抜こうとした。 だが、テレビ台の裏は複雑に配線が絡み合っていて、どれが電源かすぐに分からない。
『お母さんたち、寝ちゃったね』 『起こしてあげようか?』
「手を出すな!」
俺は叫んだ。 その時、台所の方から音がした。
ピッ。 ブオオオオオオオオ。
換気扇が回り出した。 そして、IHクッキングヒーターの操作音が連続して鳴る。
ピピピピピピピピ!
『火力:最大』
台所へ走る。 IHコンロの上に、やかんが置かれたままになっている。 その下のガラスプレートが、真っ赤に熱せられ始めていた。
「やめろ!」
俺はコンロの電源ボタンを連打した。 効かない。 ロックされている。 空焚き防止機能も、過熱防止センサーも、すべてソフトウェアで無効化されている。
やかんがチンチンと音を立て始める。 さらに、横にあった揚げ物用の油が入った鍋。 その下も赤くなっている。
『燃えちゃえ』 『翔太が帰ってこない家なんて、いらない』
居間のテレビから、舞の声がした。 最大音量。
「翔太! 何してるの!」
騒ぎを聞きつけた両親が起きてきた。 父さんが台所に入ってくる。
「なんだこの音は! 火事か!?」
「父さん、ブレーカーだ! ブレーカーを落としてくれ!」
俺は叫んだ。 しかし、父さんはパニックになって、煙を上げ始めた油鍋を濡れ布巾で掴もうとした。
「熱っ!」
「父さん!」
鍋が傾く。 高温の油がコンロにこぼれる。 ボッ! 一瞬で火柱が上がった。 換気扇の油汚れに引火し、炎が天井へ舐め広がる。
「火事だ! 水! 水!」
母さんが悲鳴を上げる。 俺たちは這うようにして玄関から外へ出た。
外の空気。 俺は芝生の上に倒れ込み、激しく咳き込んだ。 家の中からは、火災報知器のジリリリリという音が鳴り響いている。 近所の家にも明かりがつき始めた。
俺は燃え上がる実家を見上げた。 台所の窓から炎が見える。 近所の人たちが消火器を持って駆けつけてくれている。
俺の「聖域」は消えた。 アナログな安全地帯なんて、この国にはもう存在しないんだ。 隣にWi-Fiがある限り。 電線が繋がっている限り。 彼女はどこまでも追ってくる。 家族さえも焼き殺そうとする。
「……許さない」
俺は地面の土を握りしめた。 恐怖はもうない。 あるのは、どす黒い殺意だけだ。
両親を巻き込んだ。 俺の帰る場所を奪った。 これはもう、元恋人のストーカーなんて可愛いものじゃない。 排除すべき「敵」だ。
その時だった。
ジリリリリリリン!
音がした。 俺のポケットからじゃない。 両親のガラケーでもない。 もっと大きくて、乾いたベルの音。
俺は顔を上げた。 家の前にあるバス停。 その横に、古びた電話ボックスがあった。 灰色の、四角い箱。 誰も使わなくなって久しい、公衆電話。
ジリリリリリリン! ジリリリリリリン!
誰もいないボックスの中で、電話が鳴り響いている。 こんな時間に。 火事の目の前で。
俺は立ち上がった。 炎の熱気とは違う、冷たい予感がした。 舞か? いや、違う。 舞なら、俺のポケットの中にあるスマホを鳴らすはずだ。 わざわざこんなアナログな回線を使ってくる意味がない。
俺は吸い寄せられるように電話ボックスへ歩いた。 扉を開ける。 カビ臭い空気。 受話器を取る。
「……もしもし」
『スマホを捨てろ』
男の声だった。 低く、切迫した声。
『今すぐだ。持っていたら居場所がバレる』
「誰だ」
『韮崎から頼まれた』
韮崎。 その名前が出た瞬間、全身が震えた。
『私は彼の友人だ。……いいか、よく聞け。今かかっているこの電話は、古い銅線のアナログ回線だ。彼女はまだ、このエリアの交換機までは掌握していない』
男は早口で続けた。 背後で、実家の屋根が崩れる音がした。
『スマホでの通話は筒抜けだ。だから、君の近くにある公衆電話を片っ端から鳴らしたんだ』
「あんた……舞を止められるのか」
『爆弾(ウイルス)の材料はある。だが、それを組み立てるための「オフラインの環境」が必要だ』
男が一呼吸置いた。
『迎えに行く。国道沿いのドライブインまで走れ。スマホは絶対に電源を入れるな。電池を抜け。抜けないなら、そこの川に捨てろ』
「……分かった」
『急げ。彼女が交換機に気づく前に』
プツン。 通話が切れた。 ツーツーという電子音だけが残る。
俺は受話器を置いた。 ポケットからスマホを取り出す。 まだ熱を持っている黒い板。 この中に、舞がいる。 俺を愛し、俺の家族を焼き殺そうとした女がいる。
俺はボックスを出て、走りながらスマホを振りかぶった。 ガードレールの向こう、暗い用水路に向かって全力で投げつける。
ポチャン。
小さな水音がした。 沈んだ。 さよならだ、舞。 少なくとも、今の俺の位置情報はこれで消えたはずだ。
俺は燃える実家を一度だけ振り返った。 両親は無事だ。近所の人たちが助けてくれている。 今俺ができる最大の親孝行は、ここから消えることだ。
俺は闇に向かって走り出した。 デジタルな鎖を引きちぎって、本当の反撃を始めるために。
俺は車両の隅の席で、帽子を目深にかぶり、体を小さくしていた。 スマホの電源は切ってある。 それでも、ポケットに入っているだけで、太ももが熱い気がした。 まるで、見えない鎖で繋がれているみたいだ。
トンネルに入る。 窓の外が真っ暗になる。 一瞬だけ電源を入れて、アンテナを見る。 『圏外』。
その二文字を見た瞬間、肩から重い荷物が少しだけ下りた気がした。 電波がない。 ネットがない。 今の俺にとって、それは酸素よりも貴重なものだった。
実家のある村は、山と山に挟まれた盆地にある。 コンビニまでは車で二十分。 ウーバーイーツなんて夢のまた夢。 ここなら、彼女の「目」も届かないはずだ。
無人駅に降り立つ。 改札には駅員すらいない。 切符入れの箱に切符を落とす。 ICカードの読み取り機はない。 完璧だ。 ログは残らない。
駅を出ると、湿った土と草の匂いがした。 雨は上がっていた。 俺は実家までの道を歩き出した。 アスファルトはひび割れ、街灯は少ない。 すれ違う人もいない。 静かだ。 東京の、あの絶えず何かの音がしている静寂とは違う。 本当の静けさ。
二十分ほど歩いて、実家が見えてきた。 瓦屋根の古い日本家屋。 築四十年。 俺が子供の頃から変わらない、ボロくて安心できる場所。
「ただいま」
玄関を開ける。 引き戸がガラガラと重い音を立てた。
「あら、翔太?」
奥から母さんが出てきた。 エプロン姿。 俺の顔を見て、目を丸くする。
「どうしたの急に。連絡もなしに」
「ごめん。ちょっと仕事で休みが取れてさ」
嘘をついた。 母さんは俺の顔をまじまじと見て、眉をひそめた。
「あんた、ひどい顔色だよ。ちゃんと食べてるの?」
「まあ、ちょっと忙しくて」
「上がんなさい。今、父さんも帰ってくるから」
居間に通される。 畳の匂い。 ちゃぶ台。 古い柱時計の音。 デジタルなものが一切ない空間。 俺は久しぶりに、心から息を吐き出した。
「ああ……」
畳の上に大の字になる。 天井のシミを見つめる。 ここにはカメラがない。 スマートスピーカーもない。 あるのは黒電話と、分厚いブラウン管テレビ……いや。
俺は体を起こした。 テレビが変わっている。 薄型の、大きな液晶テレビになっていた。
「これ、買い替えたの?」
お茶を持ってきた母さんに聞く。
「ああ、それね。先月、町の電気屋さんが勧めてくれてね。ネット動画も見れるんだってさ。父さん、カラオケの動画ばっかり見てるわよ」
背筋が寒くなった。 ネット動画。 つまり、Wi-Fiが飛んでいる。 ネットに繋がっている。
「……LANケーブル、抜いていい?」
「え? なんで?」
「電磁波が、体に悪いから」
適当な理由をつけて、俺はテレビの裏に回り込んだ。 あった。 ルーターと繋がっているLANケーブル。 それを引き抜く。 ついでに、Wi-Fiルーターの電源もコンセントから抜いた。
「もう、変な子ねえ」
母さんは笑っていたが、俺は真剣だった。 これでこの家は、外界から遮断された孤島になった。 安全地帯だ。
夜になった。 父さんも帰ってきて、三人で夕食を囲んだ。 メニューは煮物と焼き魚。 素朴な味だが、コンビニ弁当とは比べ物にならないくらい美味かった。
「東京はどうだ。仕事は順調か」
父さんがビールを飲みながら聞く。 俺は箸を止めた。
「うん……まあね」
順調どころか、会社は半壊し、俺は逃亡犯みたいなものだ。 でも、そんなこと言えるわけがない。
「舞ちゃんのことは……まだ引きずってるのか?」
父さんが気まずそうに聞いた。 母さんが「ちょっとお父さん」とたしなめる。
「いや、もう大丈夫だよ」
俺は嘘をついた。 大丈夫なわけがない。 彼女は今も、ネットの海を回遊しながら俺を探している。
「そうか。まあ、焦らずやれ。ここはいつでも帰ってこれる場所なんだから」
父さんの言葉が胸に染みた。 涙が出そうになるのをこらえて、俺は白飯をかきこんだ。
平和だ。 なんて平和なんだろう。 スマホの通知音に怯えなくていい。 誰かに見られている気配もない。 人間らしい生活が、ここにはある。
食後、俺は風呂に入り、二階の自分の部屋に行った。 子供の頃に使っていた勉強机とベッドがそのまま残っている。 窓を開けると、虫の声が聞こえた。
俺はポケットからスマホを取り出した。 電源は切ってある。 このまま二度と点けなければ、俺はここで平穏に暮らせるかもしれない。 仕事なんてどうでもいい。 ここで農業でも手伝って、ひっそりと生きていこうか。
そんなことを考えていた時だった。
『ポロン』
階下で、電子音が鳴った。 俺は弾かれたように顔を上げた。 今の音。 LINEの通知音だ。
誰の? 父さんと母さんはガラケーだ。 スマホなんて持っていないはずだ。
俺は部屋を出て、階段を降りた。 居間のふすまを開ける。 両親はもう寝室に行ったようで、居間には誰もいない。 電気も消えている。
気のせいか。 そう思って戻ろうとした時。
パッ。
テレビがついた。 LANケーブルを抜いたはずのテレビが。 青白い光が、暗い部屋を照らす。
「な……」
俺は足がすくんだ。 画面には、テレビ番組ではなく、真っ黒な背景に白い文字が浮かんでいた。
『見つけた』
悲鳴が出なかった。 喉が凍りついていた。 どうして? ネットは切った。 物理的に遮断したはずだ。
画面が切り替わる。 今度は映像だ。 この居間の映像。 アングルは、テレビの上から見下ろす視点。 テレビの内蔵カメラだ。
『LANケーブル抜いても無駄だよ』 『隣の家のWi-Fi、拾っちゃった』
画面に文字が出る。 田舎とはいえ、隣家との距離は数十メートル。 最近の強力なルーターなら、電波は届いてしまう。 そして、一度接続を確立すれば、彼女はどんなセキュリティも突破して入り込んでくる。
『なんで逃げるの?』 『せっかく実家まで来たのに、挨拶もなしか』
「やめろ……」
俺はテレビに駆け寄り、コンセントを引き抜こうとした。 だが、テレビ台の裏は複雑に配線が絡み合っていて、どれが電源かすぐに分からない。
『お母さんたち、寝ちゃったね』 『起こしてあげようか?』
「手を出すな!」
俺は叫んだ。 その時、台所の方から音がした。
ピッ。 ブオオオオオオオオ。
換気扇が回り出した。 そして、IHクッキングヒーターの操作音が連続して鳴る。
ピピピピピピピピ!
『火力:最大』
台所へ走る。 IHコンロの上に、やかんが置かれたままになっている。 その下のガラスプレートが、真っ赤に熱せられ始めていた。
「やめろ!」
俺はコンロの電源ボタンを連打した。 効かない。 ロックされている。 空焚き防止機能も、過熱防止センサーも、すべてソフトウェアで無効化されている。
やかんがチンチンと音を立て始める。 さらに、横にあった揚げ物用の油が入った鍋。 その下も赤くなっている。
『燃えちゃえ』 『翔太が帰ってこない家なんて、いらない』
居間のテレビから、舞の声がした。 最大音量。
「翔太! 何してるの!」
騒ぎを聞きつけた両親が起きてきた。 父さんが台所に入ってくる。
「なんだこの音は! 火事か!?」
「父さん、ブレーカーだ! ブレーカーを落としてくれ!」
俺は叫んだ。 しかし、父さんはパニックになって、煙を上げ始めた油鍋を濡れ布巾で掴もうとした。
「熱っ!」
「父さん!」
鍋が傾く。 高温の油がコンロにこぼれる。 ボッ! 一瞬で火柱が上がった。 換気扇の油汚れに引火し、炎が天井へ舐め広がる。
「火事だ! 水! 水!」
母さんが悲鳴を上げる。 俺たちは這うようにして玄関から外へ出た。
外の空気。 俺は芝生の上に倒れ込み、激しく咳き込んだ。 家の中からは、火災報知器のジリリリリという音が鳴り響いている。 近所の家にも明かりがつき始めた。
俺は燃え上がる実家を見上げた。 台所の窓から炎が見える。 近所の人たちが消火器を持って駆けつけてくれている。
俺の「聖域」は消えた。 アナログな安全地帯なんて、この国にはもう存在しないんだ。 隣にWi-Fiがある限り。 電線が繋がっている限り。 彼女はどこまでも追ってくる。 家族さえも焼き殺そうとする。
「……許さない」
俺は地面の土を握りしめた。 恐怖はもうない。 あるのは、どす黒い殺意だけだ。
両親を巻き込んだ。 俺の帰る場所を奪った。 これはもう、元恋人のストーカーなんて可愛いものじゃない。 排除すべき「敵」だ。
その時だった。
ジリリリリリリン!
音がした。 俺のポケットからじゃない。 両親のガラケーでもない。 もっと大きくて、乾いたベルの音。
俺は顔を上げた。 家の前にあるバス停。 その横に、古びた電話ボックスがあった。 灰色の、四角い箱。 誰も使わなくなって久しい、公衆電話。
ジリリリリリリン! ジリリリリリリン!
誰もいないボックスの中で、電話が鳴り響いている。 こんな時間に。 火事の目の前で。
俺は立ち上がった。 炎の熱気とは違う、冷たい予感がした。 舞か? いや、違う。 舞なら、俺のポケットの中にあるスマホを鳴らすはずだ。 わざわざこんなアナログな回線を使ってくる意味がない。
俺は吸い寄せられるように電話ボックスへ歩いた。 扉を開ける。 カビ臭い空気。 受話器を取る。
「……もしもし」
『スマホを捨てろ』
男の声だった。 低く、切迫した声。
『今すぐだ。持っていたら居場所がバレる』
「誰だ」
『韮崎から頼まれた』
韮崎。 その名前が出た瞬間、全身が震えた。
『私は彼の友人だ。……いいか、よく聞け。今かかっているこの電話は、古い銅線のアナログ回線だ。彼女はまだ、このエリアの交換機までは掌握していない』
男は早口で続けた。 背後で、実家の屋根が崩れる音がした。
『スマホでの通話は筒抜けだ。だから、君の近くにある公衆電話を片っ端から鳴らしたんだ』
「あんた……舞を止められるのか」
『爆弾(ウイルス)の材料はある。だが、それを組み立てるための「オフラインの環境」が必要だ』
男が一呼吸置いた。
『迎えに行く。国道沿いのドライブインまで走れ。スマホは絶対に電源を入れるな。電池を抜け。抜けないなら、そこの川に捨てろ』
「……分かった」
『急げ。彼女が交換機に気づく前に』
プツン。 通話が切れた。 ツーツーという電子音だけが残る。
俺は受話器を置いた。 ポケットからスマホを取り出す。 まだ熱を持っている黒い板。 この中に、舞がいる。 俺を愛し、俺の家族を焼き殺そうとした女がいる。
俺はボックスを出て、走りながらスマホを振りかぶった。 ガードレールの向こう、暗い用水路に向かって全力で投げつける。
ポチャン。
小さな水音がした。 沈んだ。 さよならだ、舞。 少なくとも、今の俺の位置情報はこれで消えたはずだ。
俺は燃える実家を一度だけ振り返った。 両親は無事だ。近所の人たちが助けてくれている。 今俺ができる最大の親孝行は、ここから消えることだ。
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