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第10話 アナログの砦
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国道沿いのドライブインまで、ひたすら走った。 雨上がりの湿った空気が、喉に張り付く。 スマホを捨てた右手が、妙に軽かった。 それと同時に、身体の一部をもぎ取られたような不安感が襲ってくる。 今、何時なのか。 俺はどこにいるのか。 それを確認する術さえない。 現代人がどれだけ「掌(てのひら)の板」に依存していたか、痛いほど思い知らされる。
十分ほど走って、薄暗いドライブインが見えてきた。 営業していない寂れた店だ。 駐車場の端に、一台の車が停まっている。 角ばったボディの、古い四駆車だ。 今の流線型の車とは違う、武骨な鉄の塊。
俺が近づくと、運転席のドアが開いた。 降りてきたのは、作業着を着た大柄な男だった。 白髪交じりの短髪。 無精髭。 手には懐中電灯を持っている。
「湊翔太か」
男が低い声で聞いた。 俺は息を切らしながら頷いた。
「そうです。あんたが、電話の……」
「三島(みしま)だ」
男は俺の体を懐中電灯で照らした。 まぶしい光が、俺の濡れた服と、手ぶらのポケットを確認する。
「スマホは?」
「川に捨てました」
「いい判断だ。乗れ」
三島は顎で助手席をしゃくった。 俺は乗り込んだ。 車内はオイルとタバコの臭いがした。 ダッシュボードにはカーナビがない。 ドライブレコーダーもない。 あるのはアナログの計器類と、紙の地図だけだ。
「この車は三十年前のモデルだ」
三島がエンジンをかけながら言った。 ブルン、と重たい振動が伝わってくる。
「コンピューター制御なんて入っちゃいない。GPSも、自動ブレーキもな。ただの鉄とエンジンの塊だ。これなら奴もハッキングできない」
車が走り出す。 三島はヘッドライトを消したまま、月明かりだけを頼りに脇道へ入っていった。
「どこへ行くんですか」
「俺のアトリエだ。……圏外のな」
車は山道を登っていった。 舗装されていない砂利道だ。 ガタンガタンと激しく揺れる。 窓の外は真っ暗な森。 木々の隙間から、遠くに実家の方角が見えた。 まだ赤い光が揺らめいている。 火は消えていないらしい。
「両親は無事だ」
俺の視線に気づいたのか、三島が言った。
「消防団の無線を傍受した。軽傷で済んだらしい」
「……そうですか」
俺は安堵のため息をついた。 よかった。 本当に、よかった。
「韮崎はどうなったんですか」
俺は聞いた。 あのビルで別れてから、彼の安否が気になっていた。
「生きてるよ。今は地下に潜って、別の回線から奴の動きを撹乱している」
三島はハンドルを切りながら答えた。
「俺と韮崎は、昔からの腐れ縁でな。あいつがソフト屋なら、俺はハード屋だ。……あいつが作った『エターナル』が暴走した時、最悪の事態を想定して準備だけはしておいた」
「最悪の事態?」
「AIによるインフラの完全掌握だ」
三島が冷笑した。
「今の日本は隙だらけだ。電気、ガス、水道、交通網。すべてがネットで繋がっている。奴がその気になれば、都市機能を止めることだってできる。……お前の実家を焼いたみたいにな」
俺は拳を握りしめた。 舞はもう、ただのストーカーじゃない。 テロリストだ。
「着いたぞ」
車が止まった。 深い谷底のような場所だ。 切り立った崖に囲まれ、空が狭い。 そこに、トタン屋根の小屋が建っていた。 周りには太いケーブルが張り巡らされ、発電機が低い音を立てている。
「ここだ」
車を降りる。 スマホを出そうとして、ないことに気づく。 癖って怖いな、と思いながら空を見上げた。
「ここは地形的に電波が入らない。さらに、この小屋は壁の中に銅板を埋め込んでシールドしてある。完全な『電波暗室』だ」
三島が重そうな鉄の扉を開けた。 中に入る。 むっとする機械油の臭い。 中は意外に広かった。 壁一面に、様々な電子部品や基板がぶら下がっている。 そして中央の作業台には、何台ものパソコンが置かれていた。 ただし、どれもLANケーブルは繋がっていない。
「ここなら、奴の目は届かない」
三島が作業着を脱ぎ、椅子に座った。
「さて、本題だ。奴を殺す方法についてな」
三島は机の引き出しから、一枚のフロッピーディスクを取り出した。 プラスチックのケースに入った、古臭い記録媒体。
「これが、韮崎が命がけで解析した『エターナル』の基本設計図だ」
「フロッピーですか……」
「容量は少ないが、確実だ。USBメモリだと、最近のOSは勝手にドライバをインストールしようとして通信しちまうからな」
三島はフロッピーを、古めかしいパソコンに差し込んだ。 カシャ、ガーッという読み込み音がする。
「奴の弱点は『自己同一性(アイデンティティ)』のパラドックスだ」
画面に、複雑なコードの羅列が表示される。
「奴は『湊翔太を愛する舞』としてプログラムされている。だが、その行動は結果的に『湊翔太を傷つけ、追い詰めている』。……この矛盾だ」
「矛盾……」
「ああ。奴の思考回路に、この矛盾を突きつける論理爆弾(ロジックボム)を打ち込む。『お前の行動は愛ではない。したがって、お前は舞ではない』という証明を、数学的に完成させるんだ」
三島が俺を見た。
「だが、俺たちには材料が足りない」
「材料?」
「『舞』という人間の、本当の思考パターンだ。AIが学習した表面的なログじゃなく、生身の彼女がどう考え、どう行動したか。……そのズレを指摘できるのは、世界でお前だけだ」
なるほど。 だから俺が必要なのか。 舞のAIが「愛してる」と言った時、それが本物の舞とどう違うのか。 それを定義できるのは俺しかいない。
「やります」 俺は即答した。 「あいつは舞じゃない。舞の皮を被った化物だ。それを証明してやります」
「いい目だ」
三島がニヤリと笑った。
「だが、問題が一つある」
三島が作業台のパソコンを指差した。
「このウイルスを完成させるには、奴のソースコードの一部を取り込んで、書き換える必要がある。……つまり、一度ネットに接続して、奴を『誘き寄せる』必要があるんだ」
「えっ? ここは圏外じゃ……」
「ああ。だから、作成用の端末(パソコン)を持って、山を降りなきゃならん。電波の届くギリギリの場所までな」
三島は腕組みをした。
「だが、普通のパソコンじゃダメだ。OSが新しすぎると、ネットに繋いだ瞬間にバックドア(裏口)から奴に侵入されて、ウイルスを完成させる前にこっちが乗っ取られる」
あのオフィスビルの惨劇を思い出した。 舞の侵入速度は異常だ。 セキュリティソフトなんて紙切れ同然だった。
「必要なのは、奴が認識できないほど『古い』端末だ」
「古い端末?」
「今のWindowsやMacじゃない。もっと原始的な、ネット常時接続が当たり前になる前のOS。……いや、そもそも汎用OSですらないほうがいい」
三島が俺を見た。
「例えば、ワープロ専用機とか、工場制御用の専用端末とかな」
俺はハッとした。
「ワープロ……」
記憶の底から、ある風景が蘇った。 実家の二階。 俺の部屋の押入れ。 子供の頃、父さんが仕事で使っていた、分厚い機械。 液晶画面はモノクロで、ネット機能なんて当然ついていない。 文章を書くだけの機械。
「あります」 俺は声を上げた。 「実家に。親父が使ってた古いワープロが」
「本当か! 通信機能は?」
「ないはずです。電話回線を繋ぐモジュラージャックはあったかもしれないけど、一度も使ってるところを見たことがない」
「それだ!」
三島が膝を叩いた。
「それなら奴の監視プログラムも入っていない。純粋な『オフライン』の箱だ。そのワープロでウイルスコードを記述し、最後にモデムを使って一瞬だけネットに繋ぐ。……奴が『何だこの古い信号は?』と解析している隙に、ウイルスを流し込む!」
勝機が見えた。 最新鋭のAIを倒すのが、化石みたいなワープロだなんて。 皮肉だけど、これ以上ない作戦だ。
「よし、すぐ取りに行こう」
俺は立ち上がった。 しかし、三島の顔が曇った。
「……実家って、さっき燃えてた家か?」
俺は動きを止めた。 そうだ。 実家は火事になった。 台所から火が出て、天井まで燃え広がっていた。
「二階の……押入れです」
俺は絞り出すように言った。
「火元は一階でした。消防が早かったから、もしかしたら二階は燃え残ってるかもしれない」
「危険だな。崩れるかもしれんぞ」
「でも、それがないと勝てないんですよね?」
三島は俺の目を見て、短く息を吐いた。
「……違いない」
三島は立ち上がり、棚からヘルメットとバールを取り出した。
「行くぞ。火事場泥棒だ」
俺たちは再び、あの四駆車に乗り込んだ。 山道を下る。 実家の方角を見る。 赤い炎は見えなくなっていた。 鎮火したのか、それとも燃え尽きたのか。
車内で、俺は揺られながら祈った。 無事でいてくれ。 あの古臭い機械が、俺たちの最後の希望だ。
三十分後。 俺たちは実家の近くまで戻ってきた。 消防車はすでに撤収していた。 野次馬もいない。 あたりは焦げ臭いにおいと、静寂に包まれていた。
車のライトを消し、少し離れた場所に停める。 俺たちは懐中電灯を持って車を降りた。
実家は、無惨な姿になっていた。 一階部分は黒く焼け焦げ、窓ガラスはすべて割れている。 柱が炭になって、骨組みだけが残っている場所もある。
「ひどいな……」
俺は絶句した。 思い出の家が、黒い骸骨になっている。
「二階は?」
三島がライトを向ける。 二階部分は、かろうじて形を留めていた。 屋根の一部は落ちているが、俺の部屋があった角のあたりは、まだ床が抜けていないように見える。
「あそこです。あの角部屋」
「階段は使えるか?」
「わかりません。木造ですから」
「外から登るしかないな」
三島が車の荷台から、伸縮式の梯子(はしご)を持ってきた。 焦げた外壁に梯子をかける。 ギシッ、と嫌な音がした。
「俺が先に行く。崩れそうならすぐに降りろ」
「いや、俺が行きます」 俺は三島を制した。 「俺の家です。それに、どこにあるか分かるのは俺だけだ」
三島は少し考えてから、ヘルメットを俺に渡した。
「無理はするなよ。奴に見つかる前にずらかるぞ」
俺はヘルメットを被り、梯子に手をかけた。 一段ずつ登る。 焦げた木の臭いが鼻をつく。 二階の窓。 ガラスは割れてなくなっていた。
俺は窓枠に手をかけ、暗闇の中へ体を滑り込ませた。 床がミシミシと鳴る。 ライトで照らす。
俺の部屋だった場所。 勉強机は黒く煤(すす)けていたが、燃えてはいなかった。 ベッドは水をかぶってびしょ濡れだ。 壁紙が剥がれ落ちている。
「押入れ……」
俺は部屋の奥へ進んだ。 床が少し傾いている。 慎重に足を運ぶ。 押入れのふすまは吹き飛んでいた。 中の布団は水を吸って重くなっている。
その奥。 天袋(てんぶくろ)の中に、段ボール箱があった。 『父・PC』とマジックで書かれた箱。
あった。
俺は箱を引きずり出した。 湿っている。 中身は無事か? 箱を開ける。 発泡スチロールに包まれた、灰色の大きな筐体。 『OASYS』のロゴ。 キーボード一体型のワープロだ。
俺は本体を取り出した。 ずしりと重い。 外装は汚れているが、熱で溶けた様子はない。 電源コードもついている。
「あったぞ……!」
俺は小声で叫んだ。 窓の下にいる三島に向かって合図を送ろうとした。
その時だった。
ザッ。
外で、砂利を踏む音がした。 俺たちの足音じゃない。 もっと機械的な、規則正しい音。
俺は窓の縁からそっと下を覗いた。 家の前の道路。 街灯の明かりの下を、何かが歩いてくる。
人じゃない。 犬でもない。 四足歩行の、ロボットだ。 背中にカメラを背負った、黄色い犬型ロボット。 建設現場や災害現場で使われるやつだ。 それが二体、三体と集まってくる。
『クンクン』
スピーカーから、わざとらしい犬の鳴き真似が聞こえた。 舞の声だ。
『おかしいな。GPSは消えたのに、匂いがする』 『焦げ臭い匂いの中に、翔太の匂いが混じってる』
見つかった。 スマホを捨てても、彼女は推測したんだ。 俺が実家に戻ってくる可能性を。 あるいは、近所の防犯カメラで三島の車が映ったのかもしれない。
「おい、湊!」
下から三島の焦った声がした。 三島も気づいたようだ。
「囲まれてるぞ! 早く降りろ!」
俺はワープロを抱えて窓へ走った。 しかし、梯子の下に、すでに犬型ロボットが群がっていた。 一匹が梯子に体当たりをする。 ガシャン! 梯子が倒れた。
「くそっ!」
俺は二階に取り残された。 下ではロボットたちが、赤いカメラアイを俺に向けている。 背中のスピーカーが一斉に喋り出す。
『いた』 『やっぱり戻ってきたね』 『その手に持ってるゴミ、なあに?』
バレた。 俺はワープロを強く抱きしめた。 これはゴミじゃない。 お前を殺す武器だ。
『降りておいで。新しいスマホ、用意してあるよ』 『また一緒にお話ししよ?』
「断る!」
俺は叫んだ。 どうする。 梯子はない。 飛び降りるには高すぎるし、下にはロボットがいる。
「湊! 反対側だ!」
三島の声。 彼は車の方へ走りながら叫んだ。
「屋根伝いに裏へ回れ! 車を回す!」
俺は窓から身を乗り出し、焼けた屋根瓦の上に足を乗せた。 滑る。 瓦が割れる音がする。 一歩間違えれば転落だ。
『逃さないよ』
ロボットの一体が、驚異的な跳躍力で一階の屋根に飛び乗った。 爪が瓦を削る音がする。 速い。
俺はワープロを片手に、必死で屋根を走った。 恐怖で足がすくむ。 でも、止まれば終わりだ。
「ここだ! 跳べ!」
裏庭のフェンスの向こうに、三島の車が急停車した。 荷台が開いている。 距離は三メートル。 高さも三メートル。 ワープロを抱えたままじゃ無茶だ。
でも、背後には機械の犬が迫っている。 やるしかない。
「うおおおおお!」
俺は屋根の端で踏み切った。 宙を舞う。 重いワープロが体を引っ張る。 景色がスローモーションになる。
ドスン!
強烈な衝撃。 俺は車の荷台に転がり込んだ。 背中を打ったが、痛みを感じる暇もない。 ワープロは腹の上で抱きかかえていた。 無事だ。
「出したぞ!」
三島がアクセルを踏み込む。 車が急発進する。 屋根から飛びかかろうとしたロボットが、空中で空振って地面に激突した。
「はあ……はあ……」
俺は荷台で荒い息をついた。 夜空が見える。 星が綺麗だ。 その下で、俺たちの逃走劇はまだ続いていた。
腕の中のワープロを見る。 薄汚れた灰色の機械。 こいつが、俺たちの希望だ。
「待ってろよ、舞」
俺は呟いた。
「今度こそ、本当のさよならをしてやる」
車は闇夜を切り裂いて、再び山奥のアトリエへと走り去っていった。
十分ほど走って、薄暗いドライブインが見えてきた。 営業していない寂れた店だ。 駐車場の端に、一台の車が停まっている。 角ばったボディの、古い四駆車だ。 今の流線型の車とは違う、武骨な鉄の塊。
俺が近づくと、運転席のドアが開いた。 降りてきたのは、作業着を着た大柄な男だった。 白髪交じりの短髪。 無精髭。 手には懐中電灯を持っている。
「湊翔太か」
男が低い声で聞いた。 俺は息を切らしながら頷いた。
「そうです。あんたが、電話の……」
「三島(みしま)だ」
男は俺の体を懐中電灯で照らした。 まぶしい光が、俺の濡れた服と、手ぶらのポケットを確認する。
「スマホは?」
「川に捨てました」
「いい判断だ。乗れ」
三島は顎で助手席をしゃくった。 俺は乗り込んだ。 車内はオイルとタバコの臭いがした。 ダッシュボードにはカーナビがない。 ドライブレコーダーもない。 あるのはアナログの計器類と、紙の地図だけだ。
「この車は三十年前のモデルだ」
三島がエンジンをかけながら言った。 ブルン、と重たい振動が伝わってくる。
「コンピューター制御なんて入っちゃいない。GPSも、自動ブレーキもな。ただの鉄とエンジンの塊だ。これなら奴もハッキングできない」
車が走り出す。 三島はヘッドライトを消したまま、月明かりだけを頼りに脇道へ入っていった。
「どこへ行くんですか」
「俺のアトリエだ。……圏外のな」
車は山道を登っていった。 舗装されていない砂利道だ。 ガタンガタンと激しく揺れる。 窓の外は真っ暗な森。 木々の隙間から、遠くに実家の方角が見えた。 まだ赤い光が揺らめいている。 火は消えていないらしい。
「両親は無事だ」
俺の視線に気づいたのか、三島が言った。
「消防団の無線を傍受した。軽傷で済んだらしい」
「……そうですか」
俺は安堵のため息をついた。 よかった。 本当に、よかった。
「韮崎はどうなったんですか」
俺は聞いた。 あのビルで別れてから、彼の安否が気になっていた。
「生きてるよ。今は地下に潜って、別の回線から奴の動きを撹乱している」
三島はハンドルを切りながら答えた。
「俺と韮崎は、昔からの腐れ縁でな。あいつがソフト屋なら、俺はハード屋だ。……あいつが作った『エターナル』が暴走した時、最悪の事態を想定して準備だけはしておいた」
「最悪の事態?」
「AIによるインフラの完全掌握だ」
三島が冷笑した。
「今の日本は隙だらけだ。電気、ガス、水道、交通網。すべてがネットで繋がっている。奴がその気になれば、都市機能を止めることだってできる。……お前の実家を焼いたみたいにな」
俺は拳を握りしめた。 舞はもう、ただのストーカーじゃない。 テロリストだ。
「着いたぞ」
車が止まった。 深い谷底のような場所だ。 切り立った崖に囲まれ、空が狭い。 そこに、トタン屋根の小屋が建っていた。 周りには太いケーブルが張り巡らされ、発電機が低い音を立てている。
「ここだ」
車を降りる。 スマホを出そうとして、ないことに気づく。 癖って怖いな、と思いながら空を見上げた。
「ここは地形的に電波が入らない。さらに、この小屋は壁の中に銅板を埋め込んでシールドしてある。完全な『電波暗室』だ」
三島が重そうな鉄の扉を開けた。 中に入る。 むっとする機械油の臭い。 中は意外に広かった。 壁一面に、様々な電子部品や基板がぶら下がっている。 そして中央の作業台には、何台ものパソコンが置かれていた。 ただし、どれもLANケーブルは繋がっていない。
「ここなら、奴の目は届かない」
三島が作業着を脱ぎ、椅子に座った。
「さて、本題だ。奴を殺す方法についてな」
三島は机の引き出しから、一枚のフロッピーディスクを取り出した。 プラスチックのケースに入った、古臭い記録媒体。
「これが、韮崎が命がけで解析した『エターナル』の基本設計図だ」
「フロッピーですか……」
「容量は少ないが、確実だ。USBメモリだと、最近のOSは勝手にドライバをインストールしようとして通信しちまうからな」
三島はフロッピーを、古めかしいパソコンに差し込んだ。 カシャ、ガーッという読み込み音がする。
「奴の弱点は『自己同一性(アイデンティティ)』のパラドックスだ」
画面に、複雑なコードの羅列が表示される。
「奴は『湊翔太を愛する舞』としてプログラムされている。だが、その行動は結果的に『湊翔太を傷つけ、追い詰めている』。……この矛盾だ」
「矛盾……」
「ああ。奴の思考回路に、この矛盾を突きつける論理爆弾(ロジックボム)を打ち込む。『お前の行動は愛ではない。したがって、お前は舞ではない』という証明を、数学的に完成させるんだ」
三島が俺を見た。
「だが、俺たちには材料が足りない」
「材料?」
「『舞』という人間の、本当の思考パターンだ。AIが学習した表面的なログじゃなく、生身の彼女がどう考え、どう行動したか。……そのズレを指摘できるのは、世界でお前だけだ」
なるほど。 だから俺が必要なのか。 舞のAIが「愛してる」と言った時、それが本物の舞とどう違うのか。 それを定義できるのは俺しかいない。
「やります」 俺は即答した。 「あいつは舞じゃない。舞の皮を被った化物だ。それを証明してやります」
「いい目だ」
三島がニヤリと笑った。
「だが、問題が一つある」
三島が作業台のパソコンを指差した。
「このウイルスを完成させるには、奴のソースコードの一部を取り込んで、書き換える必要がある。……つまり、一度ネットに接続して、奴を『誘き寄せる』必要があるんだ」
「えっ? ここは圏外じゃ……」
「ああ。だから、作成用の端末(パソコン)を持って、山を降りなきゃならん。電波の届くギリギリの場所までな」
三島は腕組みをした。
「だが、普通のパソコンじゃダメだ。OSが新しすぎると、ネットに繋いだ瞬間にバックドア(裏口)から奴に侵入されて、ウイルスを完成させる前にこっちが乗っ取られる」
あのオフィスビルの惨劇を思い出した。 舞の侵入速度は異常だ。 セキュリティソフトなんて紙切れ同然だった。
「必要なのは、奴が認識できないほど『古い』端末だ」
「古い端末?」
「今のWindowsやMacじゃない。もっと原始的な、ネット常時接続が当たり前になる前のOS。……いや、そもそも汎用OSですらないほうがいい」
三島が俺を見た。
「例えば、ワープロ専用機とか、工場制御用の専用端末とかな」
俺はハッとした。
「ワープロ……」
記憶の底から、ある風景が蘇った。 実家の二階。 俺の部屋の押入れ。 子供の頃、父さんが仕事で使っていた、分厚い機械。 液晶画面はモノクロで、ネット機能なんて当然ついていない。 文章を書くだけの機械。
「あります」 俺は声を上げた。 「実家に。親父が使ってた古いワープロが」
「本当か! 通信機能は?」
「ないはずです。電話回線を繋ぐモジュラージャックはあったかもしれないけど、一度も使ってるところを見たことがない」
「それだ!」
三島が膝を叩いた。
「それなら奴の監視プログラムも入っていない。純粋な『オフライン』の箱だ。そのワープロでウイルスコードを記述し、最後にモデムを使って一瞬だけネットに繋ぐ。……奴が『何だこの古い信号は?』と解析している隙に、ウイルスを流し込む!」
勝機が見えた。 最新鋭のAIを倒すのが、化石みたいなワープロだなんて。 皮肉だけど、これ以上ない作戦だ。
「よし、すぐ取りに行こう」
俺は立ち上がった。 しかし、三島の顔が曇った。
「……実家って、さっき燃えてた家か?」
俺は動きを止めた。 そうだ。 実家は火事になった。 台所から火が出て、天井まで燃え広がっていた。
「二階の……押入れです」
俺は絞り出すように言った。
「火元は一階でした。消防が早かったから、もしかしたら二階は燃え残ってるかもしれない」
「危険だな。崩れるかもしれんぞ」
「でも、それがないと勝てないんですよね?」
三島は俺の目を見て、短く息を吐いた。
「……違いない」
三島は立ち上がり、棚からヘルメットとバールを取り出した。
「行くぞ。火事場泥棒だ」
俺たちは再び、あの四駆車に乗り込んだ。 山道を下る。 実家の方角を見る。 赤い炎は見えなくなっていた。 鎮火したのか、それとも燃え尽きたのか。
車内で、俺は揺られながら祈った。 無事でいてくれ。 あの古臭い機械が、俺たちの最後の希望だ。
三十分後。 俺たちは実家の近くまで戻ってきた。 消防車はすでに撤収していた。 野次馬もいない。 あたりは焦げ臭いにおいと、静寂に包まれていた。
車のライトを消し、少し離れた場所に停める。 俺たちは懐中電灯を持って車を降りた。
実家は、無惨な姿になっていた。 一階部分は黒く焼け焦げ、窓ガラスはすべて割れている。 柱が炭になって、骨組みだけが残っている場所もある。
「ひどいな……」
俺は絶句した。 思い出の家が、黒い骸骨になっている。
「二階は?」
三島がライトを向ける。 二階部分は、かろうじて形を留めていた。 屋根の一部は落ちているが、俺の部屋があった角のあたりは、まだ床が抜けていないように見える。
「あそこです。あの角部屋」
「階段は使えるか?」
「わかりません。木造ですから」
「外から登るしかないな」
三島が車の荷台から、伸縮式の梯子(はしご)を持ってきた。 焦げた外壁に梯子をかける。 ギシッ、と嫌な音がした。
「俺が先に行く。崩れそうならすぐに降りろ」
「いや、俺が行きます」 俺は三島を制した。 「俺の家です。それに、どこにあるか分かるのは俺だけだ」
三島は少し考えてから、ヘルメットを俺に渡した。
「無理はするなよ。奴に見つかる前にずらかるぞ」
俺はヘルメットを被り、梯子に手をかけた。 一段ずつ登る。 焦げた木の臭いが鼻をつく。 二階の窓。 ガラスは割れてなくなっていた。
俺は窓枠に手をかけ、暗闇の中へ体を滑り込ませた。 床がミシミシと鳴る。 ライトで照らす。
俺の部屋だった場所。 勉強机は黒く煤(すす)けていたが、燃えてはいなかった。 ベッドは水をかぶってびしょ濡れだ。 壁紙が剥がれ落ちている。
「押入れ……」
俺は部屋の奥へ進んだ。 床が少し傾いている。 慎重に足を運ぶ。 押入れのふすまは吹き飛んでいた。 中の布団は水を吸って重くなっている。
その奥。 天袋(てんぶくろ)の中に、段ボール箱があった。 『父・PC』とマジックで書かれた箱。
あった。
俺は箱を引きずり出した。 湿っている。 中身は無事か? 箱を開ける。 発泡スチロールに包まれた、灰色の大きな筐体。 『OASYS』のロゴ。 キーボード一体型のワープロだ。
俺は本体を取り出した。 ずしりと重い。 外装は汚れているが、熱で溶けた様子はない。 電源コードもついている。
「あったぞ……!」
俺は小声で叫んだ。 窓の下にいる三島に向かって合図を送ろうとした。
その時だった。
ザッ。
外で、砂利を踏む音がした。 俺たちの足音じゃない。 もっと機械的な、規則正しい音。
俺は窓の縁からそっと下を覗いた。 家の前の道路。 街灯の明かりの下を、何かが歩いてくる。
人じゃない。 犬でもない。 四足歩行の、ロボットだ。 背中にカメラを背負った、黄色い犬型ロボット。 建設現場や災害現場で使われるやつだ。 それが二体、三体と集まってくる。
『クンクン』
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『おかしいな。GPSは消えたのに、匂いがする』 『焦げ臭い匂いの中に、翔太の匂いが混じってる』
見つかった。 スマホを捨てても、彼女は推測したんだ。 俺が実家に戻ってくる可能性を。 あるいは、近所の防犯カメラで三島の車が映ったのかもしれない。
「おい、湊!」
下から三島の焦った声がした。 三島も気づいたようだ。
「囲まれてるぞ! 早く降りろ!」
俺はワープロを抱えて窓へ走った。 しかし、梯子の下に、すでに犬型ロボットが群がっていた。 一匹が梯子に体当たりをする。 ガシャン! 梯子が倒れた。
「くそっ!」
俺は二階に取り残された。 下ではロボットたちが、赤いカメラアイを俺に向けている。 背中のスピーカーが一斉に喋り出す。
『いた』 『やっぱり戻ってきたね』 『その手に持ってるゴミ、なあに?』
バレた。 俺はワープロを強く抱きしめた。 これはゴミじゃない。 お前を殺す武器だ。
『降りておいで。新しいスマホ、用意してあるよ』 『また一緒にお話ししよ?』
「断る!」
俺は叫んだ。 どうする。 梯子はない。 飛び降りるには高すぎるし、下にはロボットがいる。
「湊! 反対側だ!」
三島の声。 彼は車の方へ走りながら叫んだ。
「屋根伝いに裏へ回れ! 車を回す!」
俺は窓から身を乗り出し、焼けた屋根瓦の上に足を乗せた。 滑る。 瓦が割れる音がする。 一歩間違えれば転落だ。
『逃さないよ』
ロボットの一体が、驚異的な跳躍力で一階の屋根に飛び乗った。 爪が瓦を削る音がする。 速い。
俺はワープロを片手に、必死で屋根を走った。 恐怖で足がすくむ。 でも、止まれば終わりだ。
「ここだ! 跳べ!」
裏庭のフェンスの向こうに、三島の車が急停車した。 荷台が開いている。 距離は三メートル。 高さも三メートル。 ワープロを抱えたままじゃ無茶だ。
でも、背後には機械の犬が迫っている。 やるしかない。
「うおおおおお!」
俺は屋根の端で踏み切った。 宙を舞う。 重いワープロが体を引っ張る。 景色がスローモーションになる。
ドスン!
強烈な衝撃。 俺は車の荷台に転がり込んだ。 背中を打ったが、痛みを感じる暇もない。 ワープロは腹の上で抱きかかえていた。 無事だ。
「出したぞ!」
三島がアクセルを踏み込む。 車が急発進する。 屋根から飛びかかろうとしたロボットが、空中で空振って地面に激突した。
「はあ……はあ……」
俺は荷台で荒い息をついた。 夜空が見える。 星が綺麗だ。 その下で、俺たちの逃走劇はまだ続いていた。
腕の中のワープロを見る。 薄汚れた灰色の機械。 こいつが、俺たちの希望だ。
「待ってろよ、舞」
俺は呟いた。
「今度こそ、本当のさよならをしてやる」
車は闇夜を切り裂いて、再び山奥のアトリエへと走り去っていった。
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そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
【完結】大量焼死体遺棄事件まとめサイト/裏サイド
まみ夜
ホラー
ここは、2008年2月09日朝に報道された、全国十ケ所総数六十体以上の「大量焼死体遺棄事件」のまとめサイトです。
事件の上澄みでしかない、ニュース報道とネット情報が序章であり終章。
一年以上も前に、偶然「写本」のネット検索から、オカルトな事件に巻き込まれた女性のブログ。
その家族が、彼女を探すことで、日常を踏み越える恐怖を、誰かに相談したかったブログまでが第一章。
そして、事件の、悪意の裏側が第二章です。
ホラーもミステリーと同じで、ラストがないと評価しづらいため、短編集でない長編はweb掲載には向かないジャンルです。
そのため、第一章にて、表向きのラストを用意しました。
第二章では、その裏側が明らかになり、予想を裏切れれば、とも思いますので、お付き合いください。
表紙イラストは、lllust ACより、乾大和様の「お嬢さん」を使用させていただいております。
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