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第1部_「触れないための規則(ルール)
第14話:ここに居たい理由
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嵐が去った後の屋敷は、いつも以上に静かだった。 夕日が差し込むリビングで、俺とノア君は散らかった床を片付けていた。 ザイグが落とした葉巻。彼らが逃げる際に蹴倒したサイドテーブル。それらを元の位置に戻しながら、俺たちの間には妙な沈黙が流れていた。
先ほどの興奮――俺が「剣聖」としての顔を晒し、彼女がそれに目を輝かせた一瞬の熱狂は、既に引いていた。 代わりに漂っているのは、少し冷たい現実感だ。
「……申し訳ありませんでした」
塵取りを持ったまま、ノア君がぽつりと呟いた。 その背中は小さく、重装メイド服の肩が少し落ちているように見えた。
「何がだ?」
「私が原因です。私の過去のしがらみが、旦那様の平穏な隠居生活を乱してしまいました」
彼女は床を見つめたまま、淡々と言葉を続ける。
「ザイグという男は執念深い。きっとまた、嫌がらせのような手を使ってくるでしょう。……旦那様は、もう争い事からは離れていたかったはずなのに」
彼女の手が震えている。 先ほどは俺の強さを称賛してくれたが、冷静になって「自分がトラブルを持ち込んだ」という罪悪感に襲われているのだ。
「私の契約を解除するなら、今です。今ならまだ、商会との全面戦争は避けられるかもしれません」
彼女は顔を上げ、悲壮な決意を秘めた瞳で俺を見た。 自分の居場所を守りたいはずなのに、俺のためにそれを手放そうとしている。 その健気さが、俺の胸を締め付けた。
俺はほうきを壁に立てかけ、ため息を一つついてから、彼女に向き直った。
「ノア君。勘違いしないでほしい」
「……はい」
「俺は、君を守るためにあいつらを追い返したんじゃない」
俺は言葉を選ぶ。 格好つけた台詞は似合わない。本音を、そのままぶつけるしかない。
「俺が困るんだ。君がいなくなると」
「……え?」
「君が来るまでのこの家を、覚えているか? 埃っぽくて、薄暗くて、カビ臭い。食事は冷たい保存食か、黒焦げの肉。会話なんて、数日に一度、行商人とするかどうかだった」
俺は苦笑いした。 思い出すだけでも寒々しい景色だ。妻を失ってからの俺は、ただ死ぬまでの時間を消化しているだけの抜け殻だった。
「君が来てからだ。この家に、色が戻ったのは」
「…………」
「朝、コーヒーの匂いで目が覚める。廊下ですれ違うたびに、あのバサリという衣擦れの音がして、誰かがいると安心する。……ボロボロだったマフラーが、また使えるようになった」
俺は無意識に、首元のマフラーに触れていた。
「俺はもう、あの『静かすぎる生活』には戻れないんだよ。君がいないと、この屋敷は広すぎて、俺は寂しさで参ってしまうだろう」
それは、雇用主としての言葉ではない。 一人の弱い人間としての、情けない告白だった。
「だから、君を追い返したのは、俺のワガママだ。俺が君と一緒にいたいから、邪魔者を排除した。……それだけだ」
ノア君は、ポカンと口を開けていた。 やがて、その白い頬がゆっくりと朱に染まり、目元が潤んでいく。
「……私は、ただのメイドですよ?」
「ああ。最高のメイドだ」
「愛想もなくて、重い服を着ていて、面倒な商会に追われている、不良物件ですよ?」
「俺も、偏屈で、過去に未練たらたらな、枯れたおっさんだ。」
俺が茶化すように言うと、彼女は「ふふっ」と吹き出した。 そして、目尻に溜まった涙を指先で拭い、背筋をピンと伸ばした。
「……承知いたしました。そこまで仰るなら、責任を持って、死ぬまでお世話させていただきます」
「急にまた死ぬまでなんて大げさな…」
「途中解約は認めませんので。覚悟してください、旦那様」
彼女は悪戯っぽく微笑み、再び塵取りを手にした。 その表情にもう、迷いはなかった。
こうして、俺たちはまた一つ仲が深まったように感じた。 世間や商会が何と言おうと、この屋敷だけは俺たちの聖域だ。 俺が守り、彼女が支える。その関係が、何よりも心地よかった。
***
だが、運命というのは意地が悪い。 俺たちが絆を深めたそのタイミングを見計らったかのように、次の波乱が訪れた。
数日後。 屋敷に一通の書状が届いた。 今度は商会からではない。封蝋に押されているのは、王家の紋章。 差出人は、王宮魔導騎士団の団長――かつての俺の部下だった男からだ。
『緊急の用件あり。至急、王都へ出頭されたし』
単なる呼び出しではない。「剣術指導」という名目だが、その裏にきな臭い政治的な思惑があることは、行間から滲み出ていた。 あのザイグの件が、回りに回って王都の上層部を刺激したのかもしれない。
「……行かれるのですか?」
不安そうに尋ねるノア君に、俺は努めて明るく振る舞った。
「ああ。ちょっと昔の部下に顔を見せてくるだけだ。すぐに戻る」
嘘だった。 俺は予感していた。これが、ただの話し合いでは終わらないことを。 けれど、断ればノア君に害が及ぶ可能性がある。権力を笠に着た連中を黙らせるには、俺自身が出向いてケリをつけるしかない。
「留守を頼む。……戸締まりは厳重にな」 「はい。……必ず、帰ってきてくださいね」
彼女の言葉が、妙に胸に刺さった。 俺はマフラーを巻き直し、愛用の剣を腰に差した。 これが、俺にとっての「現役最後の仕事」になるだろう。 愛する場所へ帰るための、最後の戦いへ。
俺はノア君に見送られ、再び王都への道を踏み出した。 空は曇天。 遠くで、雷鳴が轟いていた。
先ほどの興奮――俺が「剣聖」としての顔を晒し、彼女がそれに目を輝かせた一瞬の熱狂は、既に引いていた。 代わりに漂っているのは、少し冷たい現実感だ。
「……申し訳ありませんでした」
塵取りを持ったまま、ノア君がぽつりと呟いた。 その背中は小さく、重装メイド服の肩が少し落ちているように見えた。
「何がだ?」
「私が原因です。私の過去のしがらみが、旦那様の平穏な隠居生活を乱してしまいました」
彼女は床を見つめたまま、淡々と言葉を続ける。
「ザイグという男は執念深い。きっとまた、嫌がらせのような手を使ってくるでしょう。……旦那様は、もう争い事からは離れていたかったはずなのに」
彼女の手が震えている。 先ほどは俺の強さを称賛してくれたが、冷静になって「自分がトラブルを持ち込んだ」という罪悪感に襲われているのだ。
「私の契約を解除するなら、今です。今ならまだ、商会との全面戦争は避けられるかもしれません」
彼女は顔を上げ、悲壮な決意を秘めた瞳で俺を見た。 自分の居場所を守りたいはずなのに、俺のためにそれを手放そうとしている。 その健気さが、俺の胸を締め付けた。
俺はほうきを壁に立てかけ、ため息を一つついてから、彼女に向き直った。
「ノア君。勘違いしないでほしい」
「……はい」
「俺は、君を守るためにあいつらを追い返したんじゃない」
俺は言葉を選ぶ。 格好つけた台詞は似合わない。本音を、そのままぶつけるしかない。
「俺が困るんだ。君がいなくなると」
「……え?」
「君が来るまでのこの家を、覚えているか? 埃っぽくて、薄暗くて、カビ臭い。食事は冷たい保存食か、黒焦げの肉。会話なんて、数日に一度、行商人とするかどうかだった」
俺は苦笑いした。 思い出すだけでも寒々しい景色だ。妻を失ってからの俺は、ただ死ぬまでの時間を消化しているだけの抜け殻だった。
「君が来てからだ。この家に、色が戻ったのは」
「…………」
「朝、コーヒーの匂いで目が覚める。廊下ですれ違うたびに、あのバサリという衣擦れの音がして、誰かがいると安心する。……ボロボロだったマフラーが、また使えるようになった」
俺は無意識に、首元のマフラーに触れていた。
「俺はもう、あの『静かすぎる生活』には戻れないんだよ。君がいないと、この屋敷は広すぎて、俺は寂しさで参ってしまうだろう」
それは、雇用主としての言葉ではない。 一人の弱い人間としての、情けない告白だった。
「だから、君を追い返したのは、俺のワガママだ。俺が君と一緒にいたいから、邪魔者を排除した。……それだけだ」
ノア君は、ポカンと口を開けていた。 やがて、その白い頬がゆっくりと朱に染まり、目元が潤んでいく。
「……私は、ただのメイドですよ?」
「ああ。最高のメイドだ」
「愛想もなくて、重い服を着ていて、面倒な商会に追われている、不良物件ですよ?」
「俺も、偏屈で、過去に未練たらたらな、枯れたおっさんだ。」
俺が茶化すように言うと、彼女は「ふふっ」と吹き出した。 そして、目尻に溜まった涙を指先で拭い、背筋をピンと伸ばした。
「……承知いたしました。そこまで仰るなら、責任を持って、死ぬまでお世話させていただきます」
「急にまた死ぬまでなんて大げさな…」
「途中解約は認めませんので。覚悟してください、旦那様」
彼女は悪戯っぽく微笑み、再び塵取りを手にした。 その表情にもう、迷いはなかった。
こうして、俺たちはまた一つ仲が深まったように感じた。 世間や商会が何と言おうと、この屋敷だけは俺たちの聖域だ。 俺が守り、彼女が支える。その関係が、何よりも心地よかった。
***
だが、運命というのは意地が悪い。 俺たちが絆を深めたそのタイミングを見計らったかのように、次の波乱が訪れた。
数日後。 屋敷に一通の書状が届いた。 今度は商会からではない。封蝋に押されているのは、王家の紋章。 差出人は、王宮魔導騎士団の団長――かつての俺の部下だった男からだ。
『緊急の用件あり。至急、王都へ出頭されたし』
単なる呼び出しではない。「剣術指導」という名目だが、その裏にきな臭い政治的な思惑があることは、行間から滲み出ていた。 あのザイグの件が、回りに回って王都の上層部を刺激したのかもしれない。
「……行かれるのですか?」
不安そうに尋ねるノア君に、俺は努めて明るく振る舞った。
「ああ。ちょっと昔の部下に顔を見せてくるだけだ。すぐに戻る」
嘘だった。 俺は予感していた。これが、ただの話し合いでは終わらないことを。 けれど、断ればノア君に害が及ぶ可能性がある。権力を笠に着た連中を黙らせるには、俺自身が出向いてケリをつけるしかない。
「留守を頼む。……戸締まりは厳重にな」 「はい。……必ず、帰ってきてくださいね」
彼女の言葉が、妙に胸に刺さった。 俺はマフラーを巻き直し、愛用の剣を腰に差した。 これが、俺にとっての「現役最後の仕事」になるだろう。 愛する場所へ帰るための、最後の戦いへ。
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