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第1部_「触れないための規則(ルール)
第18話:待つ者の恐怖
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重い。 意識を失った大人の男性が、これほどまでに重いものだとは知らなかった。 玄関ホールからリビングのソファまで、わずか数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。
旦那様の体は冷え切っていた。雨と泥、そして鉄のような血の匂いが鼻孔を突き刺す。 私のエプロンは既に赤黒く染まり、支える手は彼の血液でヌルヌルと滑った。
「……お願い、死なないで」
ソファに彼を横たえながら、口から漏れたのは祈りにも似た呻きだった。 呼吸は浅く、不規則だ。左腕の肉は裂け、骨が白く覗いている。脇腹の傷からは、どくどくと命が溢れ出している。 その光景が、私の理性を白く塗りつぶそうとする。
(しっかりしろ、ノア)
私は奥歯が砕けるほど噛み締め、震える自分の頬を叩いた。 泣くな。泣いている暇があったら手を動かせ。 救急箱を取りに行く時間すら惜しい。私は腰に下げていた裁縫道具をぶちまけた。 魔導針と、滅菌された絹糸。 私は魔導縫製師だ。布を縫うのも、肉を縫うのも、理屈は同じはずだ。
「……痛いですけど、我慢してくださいね」
震える指先を、反対の手で無理やり押さえつける。 針を通す。 いつも扱っている魔導布とは違う。人の肉は、あまりにも柔らかく、温かく、そして脆い。 一針縫うたびに、彼がピクリと痙攣し、苦悶の声を漏らす。そのたびに、私の心臓も針で刺されたように縮み上がる。
怖い。 私の処置が間違っていたら? このまま彼の手が冷たくなってしまったら? 彼を失うことの恐怖が、私の喉元までせり上がってくる。
その時だった。 ドンドンドン! と激しく玄関の扉が叩かれた。
「ッ……!」
私は弾かれたように顔を上げた。 追手か。 旦那様をここまで追い詰めた連中が、トドメを刺しに来たのか。
私は裁ち鋏を逆手に握りしめ、立ち上がった。 足が震えて力が入らない。戦ったことなど一度もない。 けれど、ここを通すわけにはいかない。 旦那様は今、無防備だ。この扉の向こうにいるのが死神だとしても、私が刺し違えてでも止めなければならない。
「……開けるぞ!!」
怒号と共に、扉が開く。 私は悲鳴に近い気合を発し、ハサミを振り上げた。
「アルベルト殿! 無事か!?」
飛び込んできたのは、黒装束の暗殺者ではなく、王家の紋章が入った鎧を着た騎士たちだった。 先頭にいる若い騎士が、血の海に沈むソファを見て息を呑む。
「遅かったか……! くそっ、哨戒班の到着が遅れたばかりに!」
「……貴方たちは?」
私がへたり込むと、騎士は兜を脱ぎ、痛切な表情で頭を下げた。
「グレイブ団長の密命で動いていた部隊です。アルベルト殿が『囮』になって敵を引きつけている間に、屋敷を保護に向かえと……」
騎士の言葉が、私の頭の中で反響した。
――囮? 彼は、自分が狙われていると知りながら、わざと敵を引きつけたというの? 逃げることもできたはずだ。森に隠れれば、追手を撒くことだって容易だったはずだ。 なのに、彼は真っ直ぐにここへ戻ってきた。
『家で腹を空かせたメイドが待ってる』 『戸締まりが心配だ』
あの時、彼は笑っていたのだろうか。 自分の命を対価にして、私という存在を守るためだけに、あの地獄のような襲撃の中を走ってきたのだ。
「……治療師! 早く!」
騎士たちの声が遠くに聞こえる。 治癒魔法の光が彼を包むのを見届けて、私はようやく床に突っ伏した。
安堵よりも先に湧き上がってきたのは、表現しきれないほどの「悲しみ」だった。 彼は私を守ったつもりかもしれない。 けれど、それはあまりにも残酷な守り方だ。 自分の命を軽んじ、ボロボロになった姿を私に見せつけることが、どれほど私を傷つけるか、あの人は分かっていない。
涙が止まらなかった。 それは、悔しさと愛おしさが混ざった、愛ゆえのしずくだったと思う。
旦那様の体は冷え切っていた。雨と泥、そして鉄のような血の匂いが鼻孔を突き刺す。 私のエプロンは既に赤黒く染まり、支える手は彼の血液でヌルヌルと滑った。
「……お願い、死なないで」
ソファに彼を横たえながら、口から漏れたのは祈りにも似た呻きだった。 呼吸は浅く、不規則だ。左腕の肉は裂け、骨が白く覗いている。脇腹の傷からは、どくどくと命が溢れ出している。 その光景が、私の理性を白く塗りつぶそうとする。
(しっかりしろ、ノア)
私は奥歯が砕けるほど噛み締め、震える自分の頬を叩いた。 泣くな。泣いている暇があったら手を動かせ。 救急箱を取りに行く時間すら惜しい。私は腰に下げていた裁縫道具をぶちまけた。 魔導針と、滅菌された絹糸。 私は魔導縫製師だ。布を縫うのも、肉を縫うのも、理屈は同じはずだ。
「……痛いですけど、我慢してくださいね」
震える指先を、反対の手で無理やり押さえつける。 針を通す。 いつも扱っている魔導布とは違う。人の肉は、あまりにも柔らかく、温かく、そして脆い。 一針縫うたびに、彼がピクリと痙攣し、苦悶の声を漏らす。そのたびに、私の心臓も針で刺されたように縮み上がる。
怖い。 私の処置が間違っていたら? このまま彼の手が冷たくなってしまったら? 彼を失うことの恐怖が、私の喉元までせり上がってくる。
その時だった。 ドンドンドン! と激しく玄関の扉が叩かれた。
「ッ……!」
私は弾かれたように顔を上げた。 追手か。 旦那様をここまで追い詰めた連中が、トドメを刺しに来たのか。
私は裁ち鋏を逆手に握りしめ、立ち上がった。 足が震えて力が入らない。戦ったことなど一度もない。 けれど、ここを通すわけにはいかない。 旦那様は今、無防備だ。この扉の向こうにいるのが死神だとしても、私が刺し違えてでも止めなければならない。
「……開けるぞ!!」
怒号と共に、扉が開く。 私は悲鳴に近い気合を発し、ハサミを振り上げた。
「アルベルト殿! 無事か!?」
飛び込んできたのは、黒装束の暗殺者ではなく、王家の紋章が入った鎧を着た騎士たちだった。 先頭にいる若い騎士が、血の海に沈むソファを見て息を呑む。
「遅かったか……! くそっ、哨戒班の到着が遅れたばかりに!」
「……貴方たちは?」
私がへたり込むと、騎士は兜を脱ぎ、痛切な表情で頭を下げた。
「グレイブ団長の密命で動いていた部隊です。アルベルト殿が『囮』になって敵を引きつけている間に、屋敷を保護に向かえと……」
騎士の言葉が、私の頭の中で反響した。
――囮? 彼は、自分が狙われていると知りながら、わざと敵を引きつけたというの? 逃げることもできたはずだ。森に隠れれば、追手を撒くことだって容易だったはずだ。 なのに、彼は真っ直ぐにここへ戻ってきた。
『家で腹を空かせたメイドが待ってる』 『戸締まりが心配だ』
あの時、彼は笑っていたのだろうか。 自分の命を対価にして、私という存在を守るためだけに、あの地獄のような襲撃の中を走ってきたのだ。
「……治療師! 早く!」
騎士たちの声が遠くに聞こえる。 治癒魔法の光が彼を包むのを見届けて、私はようやく床に突っ伏した。
安堵よりも先に湧き上がってきたのは、表現しきれないほどの「悲しみ」だった。 彼は私を守ったつもりかもしれない。 けれど、それはあまりにも残酷な守り方だ。 自分の命を軽んじ、ボロボロになった姿を私に見せつけることが、どれほど私を傷つけるか、あの人は分かっていない。
涙が止まらなかった。 それは、悔しさと愛おしさが混ざった、愛ゆえのしずくだったと思う。
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