29 / 73
第1部_「触れないための規則(ルール)
第19話:愛ある説教
しおりを挟む
小鳥のさえずりが、耳障りなほど明るく響いている。 カーテン越しに差し込む朝日で、俺は目を覚ました。
「……っう」
体を起こそうとして、全身を走る激痛に呻き声を上げる。 左腕は固定され、脇腹には分厚い包帯が巻かれている。指先一本動かすだけで、脂汗が滲むほどの痛みが走る。 だが、痛みがあるということは、生きている証拠だ。
「……目が、覚めましたか」
ベッドの脇から、低い声がした。 見ると、椅子に座ったままのノア君が、じっと俺を見ていた。 ひどい顔だ。 目は赤く腫れ上がり、いつもの整えられた髪はボサボサ。エプロンには俺の血が茶色くこびりついたまま、着替えることすら忘れて一晩中ここにいたのだろう。
その瞳は、深淵のように暗く、静かだった。
「あ、ああ……おはよう、ノア君。心配をかけたな」
俺は努めて明るく振る舞い、いつものように笑ってみせた。 重苦しい空気を払拭したかったのだ。
「いやあ、ひどい目にあったよ。だがあいつらはもう来ない。騎士団に引き継いだし、もう安全だ。……君が無事で本当によかった」
俺は安心させようと、彼女の頭に手を伸ばした。 その瞬間。 バシッ、と乾いた音がして、俺の手が払いのけられた。
「え?」
ノア君が立ち上がっていた。 肩が小刻みに震えている。俯いた顔から、ポタポタと雫が床に落ちる。
「……無事でよかった、ですって?」
彼女の声は、絞り出すように掠れていた。
「ふざけないでください」
「ノ、ノア君……?」
「どうして……どうして、逃げなかったんですか! 森に逃げ込めば、時間を稼いで安全な場所に隠れることもできたはずです! なのに、どうして!」
彼女が顔を上げた。 そこにあったのは、もはや「メイド」の顔ではなかった。 ただの、恐怖に震え、心を引き裂かれた一人の少女の顔だった。
「貴方が血まみれで倒れ込んだ時……私がどんな気持ちだったか、分かりますか!? もう息をしていないんじゃないか、このまま冷たくなってしまうんじゃないかって……私の方が死ぬかと思いました!」
彼女は俺の胸倉を――傷に触れないよう慎重に、けれど力強く掴み、泣きじゃくりながら叫んだ。
「雇用主だから? 責任があるから? そんな理由で命を捨てないでください! お給料なんていりません、屋敷だってどうでもいい! ……貴方がいない世界で、私にどうやって生きていけと言うんですか!」
彼女の言葉が、鋭い刃物となって俺の胸を抉った。
俺はずっと、自分が「守る側」だという傲慢な意識を持っていた。 俺はもう人生の後半戦を生きていて、失うものも少ない。だから、未来ある彼女のために俺が犠牲になるのは、等価交換として彼女にとって「お得」な取引だと思っていた。 だが、それはとんでもない勘違いだった。
俺が死ぬことは、彼女の心を殺すことと同じだったのだ。
「……待たされる人の心配を、考えたことがありますか」
ノア君が、涙に濡れた瞳で俺を射抜くように言った。
「貴方は、奥様を亡くされた時に、身が引き裂かれるような思いをしたはずです。……それを、私にも味わわせるつもりですか」
息が止まった。 なんてことだ。 俺は、自分が一番憎んでいた「残される苦しみ」を、一番大切にしたい彼女に押し付けようとしていたのか。 それは優しさではない。自分の命を粗末に扱うことで、彼女に一生消えない傷を負わせる、臆病者だ。
俺の目からも、涙が溢れた。 痛みからではない。己の愚かさと、彼女の深い愛情に対する申し訳なさからだ。
「……すまない」
俺は彼女の手を、今度は払われないように、そっと、祈るように両手で包み込んだ。
「君の言う通りだ。俺は、傲慢だった。……自分はもう『余り物の人生』だと思っていた。だから、君のために使い潰せれば本望だと」
俺は彼女の手を額に押し当てた。温かい。生きている熱だ。
「でも、違った。……君が悲しむなら、俺の命はもう、俺一人で勝手に捨てていいものじゃないんだな」 「……当たり前です。貴方の命は、私のものです」
彼女は泣きながら、それでも力強く宣言した。
「約束してください。これからは、絶対に無茶はしないと。……私を置いて、勝手に死んだりしないと」 「ああ、約束する。……俺は、生きるよ。君と一緒に、おじいちゃんになるまで」
ノア君はしばらく俺を睨みつけていたが、やがて糸が切れたようにへたり込み、俺の布団に顔を埋めて声を上げて泣き出した。
「……馬鹿。大馬鹿者です、旦那様は」
「全くだ。反論の余地もない」
俺は彼女の震える背中を、不自由な手でぎこちなく撫で続けた。
窓の外では、雨上がりの空が青く澄み渡っていた。
俺たちの関係が、単なる「雇用主と使用人」から、「家族」へと変わった瞬間だった。
「……っう」
体を起こそうとして、全身を走る激痛に呻き声を上げる。 左腕は固定され、脇腹には分厚い包帯が巻かれている。指先一本動かすだけで、脂汗が滲むほどの痛みが走る。 だが、痛みがあるということは、生きている証拠だ。
「……目が、覚めましたか」
ベッドの脇から、低い声がした。 見ると、椅子に座ったままのノア君が、じっと俺を見ていた。 ひどい顔だ。 目は赤く腫れ上がり、いつもの整えられた髪はボサボサ。エプロンには俺の血が茶色くこびりついたまま、着替えることすら忘れて一晩中ここにいたのだろう。
その瞳は、深淵のように暗く、静かだった。
「あ、ああ……おはよう、ノア君。心配をかけたな」
俺は努めて明るく振る舞い、いつものように笑ってみせた。 重苦しい空気を払拭したかったのだ。
「いやあ、ひどい目にあったよ。だがあいつらはもう来ない。騎士団に引き継いだし、もう安全だ。……君が無事で本当によかった」
俺は安心させようと、彼女の頭に手を伸ばした。 その瞬間。 バシッ、と乾いた音がして、俺の手が払いのけられた。
「え?」
ノア君が立ち上がっていた。 肩が小刻みに震えている。俯いた顔から、ポタポタと雫が床に落ちる。
「……無事でよかった、ですって?」
彼女の声は、絞り出すように掠れていた。
「ふざけないでください」
「ノ、ノア君……?」
「どうして……どうして、逃げなかったんですか! 森に逃げ込めば、時間を稼いで安全な場所に隠れることもできたはずです! なのに、どうして!」
彼女が顔を上げた。 そこにあったのは、もはや「メイド」の顔ではなかった。 ただの、恐怖に震え、心を引き裂かれた一人の少女の顔だった。
「貴方が血まみれで倒れ込んだ時……私がどんな気持ちだったか、分かりますか!? もう息をしていないんじゃないか、このまま冷たくなってしまうんじゃないかって……私の方が死ぬかと思いました!」
彼女は俺の胸倉を――傷に触れないよう慎重に、けれど力強く掴み、泣きじゃくりながら叫んだ。
「雇用主だから? 責任があるから? そんな理由で命を捨てないでください! お給料なんていりません、屋敷だってどうでもいい! ……貴方がいない世界で、私にどうやって生きていけと言うんですか!」
彼女の言葉が、鋭い刃物となって俺の胸を抉った。
俺はずっと、自分が「守る側」だという傲慢な意識を持っていた。 俺はもう人生の後半戦を生きていて、失うものも少ない。だから、未来ある彼女のために俺が犠牲になるのは、等価交換として彼女にとって「お得」な取引だと思っていた。 だが、それはとんでもない勘違いだった。
俺が死ぬことは、彼女の心を殺すことと同じだったのだ。
「……待たされる人の心配を、考えたことがありますか」
ノア君が、涙に濡れた瞳で俺を射抜くように言った。
「貴方は、奥様を亡くされた時に、身が引き裂かれるような思いをしたはずです。……それを、私にも味わわせるつもりですか」
息が止まった。 なんてことだ。 俺は、自分が一番憎んでいた「残される苦しみ」を、一番大切にしたい彼女に押し付けようとしていたのか。 それは優しさではない。自分の命を粗末に扱うことで、彼女に一生消えない傷を負わせる、臆病者だ。
俺の目からも、涙が溢れた。 痛みからではない。己の愚かさと、彼女の深い愛情に対する申し訳なさからだ。
「……すまない」
俺は彼女の手を、今度は払われないように、そっと、祈るように両手で包み込んだ。
「君の言う通りだ。俺は、傲慢だった。……自分はもう『余り物の人生』だと思っていた。だから、君のために使い潰せれば本望だと」
俺は彼女の手を額に押し当てた。温かい。生きている熱だ。
「でも、違った。……君が悲しむなら、俺の命はもう、俺一人で勝手に捨てていいものじゃないんだな」 「……当たり前です。貴方の命は、私のものです」
彼女は泣きながら、それでも力強く宣言した。
「約束してください。これからは、絶対に無茶はしないと。……私を置いて、勝手に死んだりしないと」 「ああ、約束する。……俺は、生きるよ。君と一緒に、おじいちゃんになるまで」
ノア君はしばらく俺を睨みつけていたが、やがて糸が切れたようにへたり込み、俺の布団に顔を埋めて声を上げて泣き出した。
「……馬鹿。大馬鹿者です、旦那様は」
「全くだ。反論の余地もない」
俺は彼女の震える背中を、不自由な手でぎこちなく撫で続けた。
窓の外では、雨上がりの空が青く澄み渡っていた。
俺たちの関係が、単なる「雇用主と使用人」から、「家族」へと変わった瞬間だった。
34
あなたにおすすめの小説
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
テイマーなのに獣人ばかりにモテすぎて困ってます!~彼女はまだツンデレ獣人に番認定されたことに気付いてない~
しましまにゃんこ
恋愛
リリアは、この春、アリシア王国で冒険者になったばかりのテイマーの女の子。早く冒険者として活動したいのに、まだ一匹もテイムすることができずに焦っている。
森に入れば触手に襲われ、街を歩けば獣人に襲われる無自覚天然ドジキャラのリリア。
そんなリリアを溺愛し、陰ながらこっそり見守る黒ヒョウ獣人のロルフは、いつもリリアに振り回されっぱなし。
実は二人の間にはある秘密が!?
剣と魔法、魔法道具が使えるファンタジーな世界で、テイマーとして活躍したい女の子と、好きなのに好きといえない獣人の男の子の、勘違い、溺愛、ジレジレ、時にヤンデレなドタバタ系ラブコメです!
『王女様は聖女様!?おてんば姫の冒険録~全属性の賢者、500年後に転生する!ペットのドラゴンが迷子なので冒険者になって探しにいきます!』と同じ世界です。今後「王女様~」のほうでも登場予定です。お楽しみに!
小説家になろう、他サイトでも掲載しています。
契約妹、はじめました!
和島逆
恋愛
「契約結婚、ですか?」
「いいえ。『契約妹』です」
そんな会話から始まった、平民の私と伯爵子息様とのおかしな雇用関係。
エリート魔導技士でもある彼の目的は、重度のシスコン兄を演じて自身の縁談を遠ざけること。報酬は魅力的で、孤児である私にとっては願ってもないオイシイ話!
そうして始まった伯爵家での『契約妹』生活は、思った以上に快適で。義父と義母にも気に入られ、雇用主である偽のお兄様までだんだん優しくなってきたような……?
このお仕事、どうやら悪くないようです。
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
【完結】死の4番隊隊長の花嫁候補に選ばれました~鈍感女は溺愛になかなか気付かない~
白井ライス
恋愛
時は血で血を洗う戦乱の世の中。
国の戦闘部隊“黒炎の龍”に入隊が叶わなかった主人公アイリーン・シュバイツァー。
幼馴染みで喧嘩仲間でもあったショーン・マクレイリーがかの有名な特効部隊でもある4番隊隊長に就任したことを知る。
いよいよ、隣国との戦争が間近に迫ったある日、アイリーンはショーンから決闘を申し込まれる。
これは脳筋女と恋に不器用な魔術師が結ばれるお話。
【完結】懸命に働いた結果、無実の罪で魔王への生贄にされた聖女。でも、その『氷華の魔王』様に溺愛され、誰よりも幸福な人生を手に入れました。
小平ニコ
恋愛
主人公マリエラは懸命に聖女の役割を果たしてきたのに、婚約者である王太子ウィルハルドは、お気に入りの宮女のデタラメを真に受けて婚約破棄。そしてマリエラを恐るべき『氷華の魔王』レオナールへの生贄にしてしまう。
だが、冷徹で残忍と噂されるレオナールは、マリエラに対して深い愛情と優しさを注ぎ、マリエラを侮辱したウィルハルドの顎を氷漬けにして黙らせ、衆目の前で大恥をかかせた。
そして、レオナールと共に魔王国グレスウェアに移り住むマリエラ。レオナールの居城での新しい生活は、甘く幸福なものだった。互いに『運命の相手』と認め合い、愛を育み、信頼を深めていくマリエラとレオナール。
しかしレオナールは、生まれついての絶大な魔力ゆえの呪いとして、長く生きられない体だった。ショックに打ちひしがれるマリエラ。だがある日、封印された禁術を使えば、自らの寿命が大幅に減るものの、レオナールに命を分けることができると知るのだった。
その頃、王太子ウィルハルドは自分に恥をかかせた魔王レオナールへの憎しみを滾らせ、魔王国の反王政派と結託してレオナールの暗殺を企てる。
しかしそれは、あまりにも愚かな選択だった。レオナールのマリエラに対する態度があまりにも優しかったから、ウィルハルドは彼を侮り、忘れていたのである。『氷華の魔王』が恐るべき存在であることを……
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる