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第2部_「隣に立つには、眩しすぎて」
第28話:最悪の夜
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その日の夜、日付が変わる少し前。俺は亡霊のような足取りで、森の屋敷へと帰ってきた。
王都での仕事を無理やり長引かせ、グレイブとの酒席も早々に切り上げ、それでも帰るのが怖くて、意味もなく森の中を遠回りした。だが、どんなに時間を稼いでも、現実は変わらない。
屋敷が見えてくる。いつもなら、この時間でもリビングの窓から温かい光が漏れているはずだ。『お帰りなさいませ』と、出迎えてくれる彼女の声があるはずだ。
だが、今の屋敷は、森の闇に溶け込むように黒く沈黙していた。
「……そうか」
俺は玄関の扉に手をかけた。 鍵は開いていた。 重い扉を開ける。
ヒュウ、と冷たい隙間風が頬を撫でた。人の気配がない。夕食のシチューの匂いもしない。風呂を沸かす薪の爆ぜる音もしない。かつて俺が一人で住んでいた頃の、あの「死んだような静寂」だけが、そこにあった。
俺は靴も脱がずに、土足のまま廊下を歩いた。 向かう先は書斎だ。
朝、俺が置いた『解雇通知』。それがなくなっていれば、彼女はそれを受け入れ、ここを去ったということだ。もし残っていれば、まだ彼女はここにいて、俺を問い詰めるために待っているかもしれない。 心のどこかで、罵倒されることを望んでいた。 『勝手なことを言わないでください』と怒鳴られ、泣きつかれ、俺の決意が粉々に砕かれることを、どこかで期待していたのだ。
ギィ、と書斎の扉が開く。 月明かりが、机の上を照らし出していた。
俺の置いた解雇通知は、そこになかった。 代わりに、一枚の便箋と、分厚い封筒が置かれていた。
俺は震える指で、便箋を手に取った。 幾帳面で、美しい文字。
『アルベルト様へ
突然の契約解除の申し出、確かに承りました。 私の至らなさにより、旦那様の資産状況や生活設計にご負担をおかけしていたこと、深くお詫び申し上げます。 業務引き継ぎに関しましては、屋敷の管理マニュアルを食卓に置いておきましたので、ご参照ください。 私の私物は全て撤去いたしました。 鍵は玄関のポストに入れておきます。
短い間でしたが、雇用いただきありがとうございました。 アルベルト様の今後のご健勝をお祈り申し上げます。
ノア・アークライト』
感情の一切ない、完璧な事務連絡だった。 インクの滲み一つない、プロフェッショナルな退職願。 そこには、俺たちが過ごした日々の温もりも、『死ぬまで一緒』と誓った夜の熱量も、何一つ残されていなかった。
「……あっさりしたものだな」
俺は乾いた声で独りごちた。 そうだ。これでいい。これが正解だ。 彼女は賢い子だ。俺のような貧乏な隠居老人に見切りをつけ、新しい未来へと歩き出したのだ。
俺は便箋の横にあった、もう一つの封筒に目をやった。 封が開いている。中には、羊皮紙の束が入っていた。 王立魔導研究院の紋章が入った、『特別技術顧問契約書』。
俺の目には、それが彼女からの「無言の答え」に見えた。 『次に行く場所は決まっています』という提示。 あるいは、『貴方が私を不要だと言うなら、私を必要としてくれる場所へ行きます』という、静かな決別宣言。
「……よかったじゃないか。最高の条件だ」
俺はその契約書を見つめながら、無理やり口角を上げた。 王立研究院。国の最高機関だ。 あの若い副隊長もいる。 彼女の才能が開花し、幸せになるための舞台は整っている。
俺は、彼女の邪魔をしていた石ころを、自分で退けただけだ。 立派な仕事をしたじゃないか。褒めてやれよ、俺を。
「……う、ぅ……」
視界が歪んだ。 喉の奥から、嗚咽が漏れた。 机に手をつき、俺は崩れ落ちた。
静かすぎる。 この屋敷は、こんなに広かったか。 こんなに寒かったか。 彼女が来る前、俺はどうやってここで息をしていたんだ?
衣擦れの音がない。 コーヒーの香りがない。 「旦那様」と呼ぶ、あの鈴のような声がない。
自分で切り捨てたくせに。 彼女のためだと言い訳して、結局は自分が傷つくのが怖かっただけなんじゃないのか。
「……ノア、君……」
誰もいない書斎で、俺は彼女の名前を呼んだ。返事はなかった。ただ、窓の外でフクロウが鳴いただけだった。
それが、俺の人生で最も長く、最も孤独な夜の始まりだった。俺は机の上の書き置きを握りしめ、酒を飲む気力すら起きず、ただ闇の中で朝が来るのを待ち続けた。
***
同時刻。王都へ向かう深夜の乗り合い馬車。 ガタゴトと揺れる車内で、ノアは膝を抱えて座っていた。 その身を包むのは、いつもの【対魔導防護仕様】メイド服。
彼女は泣いてはいなかった。 涙は、屋敷を出る時に全部置いてきた。 今はただ、空っぽだった。
(……仕事、しなきゃ)
彼女はぼんやりと、窓の外の暗闇を見つめた。 研究院との契約がある。明日からすぐに働ける。 仕事があれば、余計なことを考えずに済む。 効率と数字の世界に戻るだけだ。前の職場と何も変わらない。 ただ、少しの間だけ見た「家族ごっこ」という甘い夢から覚めただけ。
彼女はギュッと自分の腕を抱きしめた。 防護服の硬い感触が、今は冷たく感じられた。 かつて「旦那様からの贈り物」だと誇ったこの鎧は、今や「捨てられた過去の遺物」でしかなかった。
それでも、彼女はこれを脱ぐことができなかった。これだけが、彼と過ごした日々の、唯一の確かな証明だったから。
王都での仕事を無理やり長引かせ、グレイブとの酒席も早々に切り上げ、それでも帰るのが怖くて、意味もなく森の中を遠回りした。だが、どんなに時間を稼いでも、現実は変わらない。
屋敷が見えてくる。いつもなら、この時間でもリビングの窓から温かい光が漏れているはずだ。『お帰りなさいませ』と、出迎えてくれる彼女の声があるはずだ。
だが、今の屋敷は、森の闇に溶け込むように黒く沈黙していた。
「……そうか」
俺は玄関の扉に手をかけた。 鍵は開いていた。 重い扉を開ける。
ヒュウ、と冷たい隙間風が頬を撫でた。人の気配がない。夕食のシチューの匂いもしない。風呂を沸かす薪の爆ぜる音もしない。かつて俺が一人で住んでいた頃の、あの「死んだような静寂」だけが、そこにあった。
俺は靴も脱がずに、土足のまま廊下を歩いた。 向かう先は書斎だ。
朝、俺が置いた『解雇通知』。それがなくなっていれば、彼女はそれを受け入れ、ここを去ったということだ。もし残っていれば、まだ彼女はここにいて、俺を問い詰めるために待っているかもしれない。 心のどこかで、罵倒されることを望んでいた。 『勝手なことを言わないでください』と怒鳴られ、泣きつかれ、俺の決意が粉々に砕かれることを、どこかで期待していたのだ。
ギィ、と書斎の扉が開く。 月明かりが、机の上を照らし出していた。
俺の置いた解雇通知は、そこになかった。 代わりに、一枚の便箋と、分厚い封筒が置かれていた。
俺は震える指で、便箋を手に取った。 幾帳面で、美しい文字。
『アルベルト様へ
突然の契約解除の申し出、確かに承りました。 私の至らなさにより、旦那様の資産状況や生活設計にご負担をおかけしていたこと、深くお詫び申し上げます。 業務引き継ぎに関しましては、屋敷の管理マニュアルを食卓に置いておきましたので、ご参照ください。 私の私物は全て撤去いたしました。 鍵は玄関のポストに入れておきます。
短い間でしたが、雇用いただきありがとうございました。 アルベルト様の今後のご健勝をお祈り申し上げます。
ノア・アークライト』
感情の一切ない、完璧な事務連絡だった。 インクの滲み一つない、プロフェッショナルな退職願。 そこには、俺たちが過ごした日々の温もりも、『死ぬまで一緒』と誓った夜の熱量も、何一つ残されていなかった。
「……あっさりしたものだな」
俺は乾いた声で独りごちた。 そうだ。これでいい。これが正解だ。 彼女は賢い子だ。俺のような貧乏な隠居老人に見切りをつけ、新しい未来へと歩き出したのだ。
俺は便箋の横にあった、もう一つの封筒に目をやった。 封が開いている。中には、羊皮紙の束が入っていた。 王立魔導研究院の紋章が入った、『特別技術顧問契約書』。
俺の目には、それが彼女からの「無言の答え」に見えた。 『次に行く場所は決まっています』という提示。 あるいは、『貴方が私を不要だと言うなら、私を必要としてくれる場所へ行きます』という、静かな決別宣言。
「……よかったじゃないか。最高の条件だ」
俺はその契約書を見つめながら、無理やり口角を上げた。 王立研究院。国の最高機関だ。 あの若い副隊長もいる。 彼女の才能が開花し、幸せになるための舞台は整っている。
俺は、彼女の邪魔をしていた石ころを、自分で退けただけだ。 立派な仕事をしたじゃないか。褒めてやれよ、俺を。
「……う、ぅ……」
視界が歪んだ。 喉の奥から、嗚咽が漏れた。 机に手をつき、俺は崩れ落ちた。
静かすぎる。 この屋敷は、こんなに広かったか。 こんなに寒かったか。 彼女が来る前、俺はどうやってここで息をしていたんだ?
衣擦れの音がない。 コーヒーの香りがない。 「旦那様」と呼ぶ、あの鈴のような声がない。
自分で切り捨てたくせに。 彼女のためだと言い訳して、結局は自分が傷つくのが怖かっただけなんじゃないのか。
「……ノア、君……」
誰もいない書斎で、俺は彼女の名前を呼んだ。返事はなかった。ただ、窓の外でフクロウが鳴いただけだった。
それが、俺の人生で最も長く、最も孤独な夜の始まりだった。俺は机の上の書き置きを握りしめ、酒を飲む気力すら起きず、ただ闇の中で朝が来るのを待ち続けた。
***
同時刻。王都へ向かう深夜の乗り合い馬車。 ガタゴトと揺れる車内で、ノアは膝を抱えて座っていた。 その身を包むのは、いつもの【対魔導防護仕様】メイド服。
彼女は泣いてはいなかった。 涙は、屋敷を出る時に全部置いてきた。 今はただ、空っぽだった。
(……仕事、しなきゃ)
彼女はぼんやりと、窓の外の暗闇を見つめた。 研究院との契約がある。明日からすぐに働ける。 仕事があれば、余計なことを考えずに済む。 効率と数字の世界に戻るだけだ。前の職場と何も変わらない。 ただ、少しの間だけ見た「家族ごっこ」という甘い夢から覚めただけ。
彼女はギュッと自分の腕を抱きしめた。 防護服の硬い感触が、今は冷たく感じられた。 かつて「旦那様からの贈り物」だと誇ったこの鎧は、今や「捨てられた過去の遺物」でしかなかった。
それでも、彼女はこれを脱ぐことができなかった。これだけが、彼と過ごした日々の、唯一の確かな証明だったから。
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