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第2部_「隣に立つには、眩しすぎて」
第29話:的確すぎる質問
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数日後。王立魔導研究院の廊下を、一人の女性が歩いていた。
飾り気のない作業用のつなぎに、白衣。髪は無造作に束ねられているだけ。かつて「鉄壁のメイド」と呼ばれたノアの姿はそこになかった。彼女は新しい職場での勤務初日を迎えていたが、その顔色は蝋人形のように白く、瞳には生気のかけらもなかった。
「……おはようございます」
すれ違う研究員に機械的に挨拶をし、配属された第4班の研究室へ入ろうとする。班長のガリレオたちが「おお、来たかね!」と歓迎しようとしたが、ノアのあまりに暗いオーラに気圧されて言葉を失っているのが分かった。
ノアは気にしなかった。どうでもよかった。ただ手を動かし、与えられたタスクをこなす。それ以外に、今の自分が正気を保つ方法はなかったからだ。
彼女が実験器具に手を伸ばそうとした、その時だった。
「――待て」
凛とした、冷ややかな声が背後から響いた。ノアが振り返ると、そこには隙のない着こなしをした、知的な女性研究員が立っていた。第1班の主席、ミリアムだ。
「仕事に入る前に、少し話しましょう。ガリレオ。少し借りるぞ。」
ミリアムはノアの前に立ち塞がると、挨拶もそこそこに、鋭い視線でノアを射抜いた。そして、少し廊下を歩いたところで何の前置きもなく問いかけた。
「貴女の先日の主人。……今、ここに呼べる?」
ドクリ、とノアの心臓が嫌な音を立てた。
動揺や驚きよりも先に、「怖い」という感情が背筋を駆け上がった。
あまりにも唐突で、しかし今のノアにとって最も触れられたくない核心を、一撃で突いてきたからだ。
「……な、何を」
「呼べるのか、呼べないのか。どっち?」
「……呼べません。彼は……もう、私とは関係ありませんから」
ノアが視線を逸らして答えると、ミリアムは「やっぱりね」と短く吐き捨てた。
「おかしいと思ったのよ。あの心配性で過保護な『元剣聖』が、愛する使用人の記念すべき初出勤日に同行しないなんて」
ミリアムは、研究室の入り口を指差した。
「貴女ならわかると思うが、貴女が心配で後ろをついてくるか、少なくとも笑顔で送り出しているはずでしょう。……それなのに、今の貴女はまるで葬列に並ぶような顔をしている」
「…………」
「何があったか話せるかな?」
ノアは唇を噛んだ。初対面の、しかも職場の上司にあたる人間に話すことではない。
黙り込むノアに対し、ミリアムは手帳を取り出しながら淡々と言った。
「『元剣聖』殿、先日グレイブ騎士団長に随分と深刻な相談をしていたそうね」
ノアが顔を上げる。
「え……?」
「『大切な人が、自分よりふさわしい場所へ行こうとしている』『自分と一緒にいることが足枷になっている』……そんなことを、悲痛な顔で漏らしていたそうよ」
ノアは混乱した。
グレイブ騎士団長といえば、アルベルトのかつての部下であり、友人でもある人物だ。二人が酒席で何を話そうと不思議ではない。だが、なぜそれを、この研究所の一職員である彼女が知っているのか。
「……どうして、貴女がそんなに詳しくご存知なんですか? それはプライベートな会話のはず……」
ノアが警戒心を露わにして尋ねると、ミリアムは呆れたように肩を竦め、事もなげに言った。
「言ってなかったね。グレイブは私の夫よ」
「は……?」
ノアは目を丸くした。 騎士団長と、研究院の主席。まさかの夫婦。しかも、あの噂に聞く「グレイブ団長の恐妻」が、目の前の彼女だというのか。
「夫が胃を痛めて帰ってきてね。『アルベルトさんが変な思い詰め方をしている』って。……詳しく話を聞いてみれば、状況証拠が揃いすぎているわ」
ミリアムの言葉を聞きながら、ノアの頭の中で散らばっていたパズルが、音を立てて組み合わさっていく。
自分よりふさわしい場所。足枷。そして、私が持っていた「研究所の契約書」。
あの日、王都からの帰りの馬車。鞄から落ちた契約書を、慌てて隠した時のアルベルトの寂しげな沈黙。そして翌日に置かれていた、無理やり理由をこじつけたような冷たい解雇通知。
「レオンハルトなんて名前も出てたみたいね。副団長様と、何かあった?」
「……あ」
ノアの中でもやもやが確信に変わった。自分が勘違いさせた確信。
「いらなくなった」から捨てられたんじゃない。私が新しい場所(ここ)へ行こうとしていると勘違いして……私の邪魔をしないように、わざと突き放したんだ。
「私が……私が、悪かったんだ……」
ノアはその場に崩れ落ちた。研究所の件はサプライズのつもりだった。彼を喜ばせるために持ち帰ったあの契約書が、結果として彼を追い詰め、あんな悲しい嘘をつかせてしまったのだ。
レオンハルト様のもとへ行き、研究所に勤務するという未来を。彼は私がカフェで談笑しているのをどこかで見て思ってしまったのだ。
「私が、あんな隠し事をしたから……彼に、あんな思いを……っ!」
後悔と申し訳なさで、涙が止まらなかった。あの不器用で優しい人が、どんな思いであの通知を書いたのか。それを思うだけで、胸が張り裂けそうだった。
「……はぁ。やっぱりそういうこと」
泣き崩れるノアを見て、ミリアムは厳しい表情を崩し、少しだけ憐れむように眉を下げた。
「あの不器用な男たちのやりそうなことね。……夫も、友人の危機を察して胃を痛めているわけだわ」
ミリアムはハンカチを差し出し、ノアの背中に手を置いた。
「今日は見学だけでいいわ。少し落ち着くまで、休憩所に行きましょう」
「う、うぅ……はい……ごめんなさい……」
「謝る相手が違うでしょう。……さあ、顔を拭いて」
ミリアムに促され、ノアはよろめきながら立ち上がった。その手には、自分が持っていた「上質な契約書」の重みが、呪いのように重く感じられていた。
飾り気のない作業用のつなぎに、白衣。髪は無造作に束ねられているだけ。かつて「鉄壁のメイド」と呼ばれたノアの姿はそこになかった。彼女は新しい職場での勤務初日を迎えていたが、その顔色は蝋人形のように白く、瞳には生気のかけらもなかった。
「……おはようございます」
すれ違う研究員に機械的に挨拶をし、配属された第4班の研究室へ入ろうとする。班長のガリレオたちが「おお、来たかね!」と歓迎しようとしたが、ノアのあまりに暗いオーラに気圧されて言葉を失っているのが分かった。
ノアは気にしなかった。どうでもよかった。ただ手を動かし、与えられたタスクをこなす。それ以外に、今の自分が正気を保つ方法はなかったからだ。
彼女が実験器具に手を伸ばそうとした、その時だった。
「――待て」
凛とした、冷ややかな声が背後から響いた。ノアが振り返ると、そこには隙のない着こなしをした、知的な女性研究員が立っていた。第1班の主席、ミリアムだ。
「仕事に入る前に、少し話しましょう。ガリレオ。少し借りるぞ。」
ミリアムはノアの前に立ち塞がると、挨拶もそこそこに、鋭い視線でノアを射抜いた。そして、少し廊下を歩いたところで何の前置きもなく問いかけた。
「貴女の先日の主人。……今、ここに呼べる?」
ドクリ、とノアの心臓が嫌な音を立てた。
動揺や驚きよりも先に、「怖い」という感情が背筋を駆け上がった。
あまりにも唐突で、しかし今のノアにとって最も触れられたくない核心を、一撃で突いてきたからだ。
「……な、何を」
「呼べるのか、呼べないのか。どっち?」
「……呼べません。彼は……もう、私とは関係ありませんから」
ノアが視線を逸らして答えると、ミリアムは「やっぱりね」と短く吐き捨てた。
「おかしいと思ったのよ。あの心配性で過保護な『元剣聖』が、愛する使用人の記念すべき初出勤日に同行しないなんて」
ミリアムは、研究室の入り口を指差した。
「貴女ならわかると思うが、貴女が心配で後ろをついてくるか、少なくとも笑顔で送り出しているはずでしょう。……それなのに、今の貴女はまるで葬列に並ぶような顔をしている」
「…………」
「何があったか話せるかな?」
ノアは唇を噛んだ。初対面の、しかも職場の上司にあたる人間に話すことではない。
黙り込むノアに対し、ミリアムは手帳を取り出しながら淡々と言った。
「『元剣聖』殿、先日グレイブ騎士団長に随分と深刻な相談をしていたそうね」
ノアが顔を上げる。
「え……?」
「『大切な人が、自分よりふさわしい場所へ行こうとしている』『自分と一緒にいることが足枷になっている』……そんなことを、悲痛な顔で漏らしていたそうよ」
ノアは混乱した。
グレイブ騎士団長といえば、アルベルトのかつての部下であり、友人でもある人物だ。二人が酒席で何を話そうと不思議ではない。だが、なぜそれを、この研究所の一職員である彼女が知っているのか。
「……どうして、貴女がそんなに詳しくご存知なんですか? それはプライベートな会話のはず……」
ノアが警戒心を露わにして尋ねると、ミリアムは呆れたように肩を竦め、事もなげに言った。
「言ってなかったね。グレイブは私の夫よ」
「は……?」
ノアは目を丸くした。 騎士団長と、研究院の主席。まさかの夫婦。しかも、あの噂に聞く「グレイブ団長の恐妻」が、目の前の彼女だというのか。
「夫が胃を痛めて帰ってきてね。『アルベルトさんが変な思い詰め方をしている』って。……詳しく話を聞いてみれば、状況証拠が揃いすぎているわ」
ミリアムの言葉を聞きながら、ノアの頭の中で散らばっていたパズルが、音を立てて組み合わさっていく。
自分よりふさわしい場所。足枷。そして、私が持っていた「研究所の契約書」。
あの日、王都からの帰りの馬車。鞄から落ちた契約書を、慌てて隠した時のアルベルトの寂しげな沈黙。そして翌日に置かれていた、無理やり理由をこじつけたような冷たい解雇通知。
「レオンハルトなんて名前も出てたみたいね。副団長様と、何かあった?」
「……あ」
ノアの中でもやもやが確信に変わった。自分が勘違いさせた確信。
「いらなくなった」から捨てられたんじゃない。私が新しい場所(ここ)へ行こうとしていると勘違いして……私の邪魔をしないように、わざと突き放したんだ。
「私が……私が、悪かったんだ……」
ノアはその場に崩れ落ちた。研究所の件はサプライズのつもりだった。彼を喜ばせるために持ち帰ったあの契約書が、結果として彼を追い詰め、あんな悲しい嘘をつかせてしまったのだ。
レオンハルト様のもとへ行き、研究所に勤務するという未来を。彼は私がカフェで談笑しているのをどこかで見て思ってしまったのだ。
「私が、あんな隠し事をしたから……彼に、あんな思いを……っ!」
後悔と申し訳なさで、涙が止まらなかった。あの不器用で優しい人が、どんな思いであの通知を書いたのか。それを思うだけで、胸が張り裂けそうだった。
「……はぁ。やっぱりそういうこと」
泣き崩れるノアを見て、ミリアムは厳しい表情を崩し、少しだけ憐れむように眉を下げた。
「あの不器用な男たちのやりそうなことね。……夫も、友人の危機を察して胃を痛めているわけだわ」
ミリアムはハンカチを差し出し、ノアの背中に手を置いた。
「今日は見学だけでいいわ。少し落ち着くまで、休憩所に行きましょう」
「う、うぅ……はい……ごめんなさい……」
「謝る相手が違うでしょう。……さあ、顔を拭いて」
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