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第4部_「幸せな気持ちで、帰ってもいい」
第51話:悪意の正体
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王都の空は、鉛を溶かしたように重く淀んでいた。騎士団本部へと続く石畳を馬で駆ける間も、すれ違う人々の顔には不安の色が濃く滲んでいた。噂というのは風よりも速い。北の方角で何か良くないことが起きていると、市民の肌感覚が既に察知しているのだろう。
本部の巨大な鉄扉をくぐると、そこは怒号と足音が飛び交う戦場さながらの喧騒だった。伝令が走り回り、小隊長たちが部下に指示を飛ばしている。俺が馬を降り、手綱を近くの兵士に預けると、すぐに顔見知りの副官が駆け寄ってきた。
「アルベルト殿!お待ちしておりました、団長室へ!」
敬礼もそこそこに案内された先は、かつて俺自身も座っていた騎士団長の執務室だ。重厚な樫の木の扉が開かれる。部屋の中には、三人の男女が待ち構えていた。
中央のデスクで地図に睨みを利かせているのが、現・騎士団長のグレイブ。俺の元部下であり、今は頼れる友だ。その傍らで、苛立たしげに腕を組んでいるのが、王立魔導研究院の主席、ミリアム。グレイブの妻でもある。そして窓際で外の様子を窺っていたのが、第1番隊副隊長のレオンハルト。金髪の美丈夫だが、今はその端正な顔を曇らせている。
「……よく来てくれました、先輩」
俺が入ると、グレイブが顔を上げた。ひどい顔色だ。目の下には濃いクマがあり、数日は寝ていないのが見て取れる。この男がここまで消耗している姿を見るのは、俺が現役を退いて以来かもしれない。
「急かしてすまない。……ただならぬ事態だとは察しているが」
俺は椅子を引いて座りながら、単刀直入に切り出した。挨拶や世間話をしている時間は、この部屋の空気には存在しなかった。
「ああ。単刀直入に言います」
グレイブが地図の一点を指差した。王都から遥か北、国境に近い山脈地帯。そこに、禍々しい赤色の駒が無数に置かれている。
「大規模なスタンピードです。……規模は、推定で二万」
「二万?」
俺は眉をひそめた。スタンピード、すなわち魔物の暴走現象は、自然界の魔力溜まりが飽和した時に起こる災害だ。だが、二万という数は異常だ。通常なら数百、多くても数千がいいところだろう。それに、今は魔獣の繁殖期でもなければ、魔力活性が高まる時期でもない。
「異常気象か?それとも、新種の上位種でも現れたか」
「いいえ。……自然現象なら、まだ可愛げがありました」
答えたのは、ミリアムだった。彼女は白衣のポケットから、ガラス管に入った黒い粉末を取り出し、テーブルの上に乱暴に置いた。カツン、と乾いた音が響く。
「これを見て。北の調査隊が回収してきた土壌サンプルよ」
「……これは?」
「『魔獣誘引香』の残滓。それも、極めて純度が高く、持続性のある軍事用グレードのもの」
誘引香。魔物を興奮させ、特定の方向へ誘導するために使われる禁忌の薬物だ。製造も所持も、国際法で厳しく禁じられている。
「まさか、人為的なものだと言うのか」
「ええ。この粉末の成分構成、研究院のデータベースに一致するものがあったわ。……ガランド商会の裏帳簿にあった、未認可の試薬データとね」
ガランド商会。その名を聞いた瞬間、俺の奥歯がギリリと鳴った。以前、ノア君を強引に連れ去ろうとし、俺たちの屋敷に土足で踏み込んできたあの薄汚い商人どもだ。俺が威圧で追い返し、その後騎士団の捜査で解体に追い込まれたはずだったが。
「残党か」
「しぶとい連中です。……どうやら、国外に逃げた幹部たちが、最後の悪あがき……いえ、最後の『ビジネス』を仕掛けてきたようです」
レオンハルトが、吐き捨てるように言った。
「彼らのシナリオはこうです。まず、人工的にスタンピードを引き起こし、北の国境地帯を壊滅させる。周辺国はパニックに陥り、喉から手が出るほど『力』を欲するようになる」
「そこで、自分たちが隠し持っている対魔獣兵器や、高騰した物資を売りつける……と?」
「ご名答です。……奴らにとって、このスタンピードは災害じゃない。ただの巨大な『需要喚起キャンペーン』なんですよ」
俺は言葉を失った。怒りを超えて、呆れ果てた。人の命を何だと思っている。家を焼かれ、家族を食われる人々の悲鳴を、奴らは金貨の落ちる音としか認識していないのか。
「腐りきってるな」
俺が呟くと、グレイブが重く頷いた。
「ええ。……ですが、問題は奴らの動機ではありません。今、現実に迫っている脅威です」
グレイブが指し棒で地図をなぞる。赤い駒の群れは、山脈を越え、王都へ続く街道を南下しつつある。
「魔物の群れは、誘引香の効果で興奮状態にあり、通常よりも移動速度が速い。……このままだと、あと三日で王都の防衛圏に到達します」
「三日……」
俺は計算した。騎士団の本隊を動かすには、準備だけで丸一日はかかる。そこから行軍し、迎撃地点に布陣するとなると……。
「間に合わないな」
俺の指摘に、グレイブが苦しげに顔を歪めた。
「はい。重装備の兵団を展開するには時間が足りません。かといって、王都の城壁で迎え撃てば、周辺の村々は壊滅し、王都自体もただでは済みません」
二万の魔物が城壁に押し寄せれば、たとえ防ぎきれたとしても、市街地への被害は甚大だ。多くの市民が犠牲になるだろう。レティが生きていた頃、俺たちが必死で守ろうとしたこの街が、商人の欲望のために蹂躙される。そんなことは、させられない。
「……手はあるのか?」
俺が尋ねると、グレイブとミリアム、レオンハルトの三人が、一瞬だけ沈黙を共有した。重い、粘りつくような沈黙だった。それは、これから語られる作戦が、決して耳触りの良いものではないことを物語っていた。
「一つだけ、あります」
グレイブが、地図上の一点を指した。山脈と平野の境目にある、狭い峡谷。
「『嘆きの回廊』と呼ばれる峡谷です。ここなら地形が狭く、大軍も一度には通れません。……ここで、先行部隊が魔物の足止めを行う」
「足止め、か」
「はい。本隊の準備が整うまでの二日間。……この峡谷を死守し、魔物を一匹たりとも通さない。そうすれば、その間に本隊が平野部に包囲網を完成させ、一網打尽にできます」
理屈は分かる。兵法の定石だ。狭い場所で敵の数を殺し、時間を稼ぐ。だが、問題はその「中身」だ。
「……二万の興奮した魔物を、峡谷という逃げ場のない場所で、二日間も食い止めるのか?」
俺は乾いた声で言った。
「それは作戦じゃない。……生贄だ」
峡谷を塞ぐ先行部隊は、文字通り「栓」となる。
次から次へと押し寄せる魔物の波を、不眠不休で斬り続け、魔法を撃ち続けなければならない。交代要員もいない。補給もない。全滅を前提とした、捨て石の役割。
グレイブは視線を落とし、拳を机に叩きつけた。ドン、という音が虚しく響く。
「……分かっています。こんな命令、部下に下せるわけがない。……『死んでこい』と言っているのと同じですから」
彼は騎士団長だ。部下の命を守る義務がある。だが同時に、国を守る義務もある。この非情な天秤の前で、彼は削られていたのだ。
そして。彼がなぜ、引退した俺を、こんな赤い封蝋を使ってまで呼び出したのか。その理由を、俺は察してしまった。
この作戦を成功させるには、「普通の兵士」では駄目なのだ。
一騎当千。
たった一人で戦況を変えられるような、圧倒的な武力を持つ「英雄」が必要なのだ。
グレイブが顔を上げた。その瞳には、友としての情と、指揮官としての冷徹さがせめぎ合っていた。
「先輩。……アルベルト・ヴィスマルク殿」
彼が俺のフルネームを呼ぶ。それは、かつての上官に対する敬意と、これからの無礼を詫びる合図だった。
「部外者のアンタに、こんなことを頼める義理じゃないことは重々承知しています。アンタはもう剣を置き、静かな生活を手に入れた。……それを、俺たちが踏み荒らす権利なんてない」
彼の声が震える。
「ですが……この無茶な作戦を成立させるには、アンタの力が必要なんです。……かつての『剣聖』の力が」
部屋の空気が張り詰める。ミリアムも、レオンハルトも、息を殺して俺を見ている。彼らは知っているのだ。俺がどれだけ戦いに疲れ、どれだけ平和を望んでいたかを。そして、俺に今、守るべき大切な「家」があることを。
俺は、自分の膝の上で組んだ手を見つめた。その指先には、まだノア君が淹れてくれた紅茶の温もりが残っている気がした。
(……俺は)
行きたくない。
本音だった。
もう、あんな血生臭い場所には戻りたくない。泥にまみれて、死の恐怖に怯えながら剣を振るうのは御免だ。俺はただ、ノア君の作ったシチューを食べて、彼女の他愛ない話を聞いて、柔らかいベッドで眠りたい。やっと手に入れたんだ。それを、また手放すのか?「みんなのため」という美しい言葉のために、俺の個人的な幸福を、また犠牲にするのか?
レティの顔が浮かぶ。『行って』と微笑んだ彼女の、最期の嘘。俺がそれを受け入れたせいで、彼女は一人で死んだ。
もし今回、俺が行けば。ノア君は、また一人で待つことになる。そしてもし、俺が帰らなかったら?彼女は、二度目の「置いていかれる痛み」を味わうことになる。
嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
俺は顔を上げた。グレイブの必死な眼差しを受け止め、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……悪いが」
その言葉を聞いた瞬間、グレイブの表情が、わずかに歪んだ。失望ではない。「そうだよな」という、諦めと安堵がない交ぜになったような表情だった。
俺は、言葉を続けた。自分の心を守るための、そして同時に、友を見捨てないための、ギリギリの妥協案を提案しないと。今ここで俺自身がつぶれてしまいそうで。
本部の巨大な鉄扉をくぐると、そこは怒号と足音が飛び交う戦場さながらの喧騒だった。伝令が走り回り、小隊長たちが部下に指示を飛ばしている。俺が馬を降り、手綱を近くの兵士に預けると、すぐに顔見知りの副官が駆け寄ってきた。
「アルベルト殿!お待ちしておりました、団長室へ!」
敬礼もそこそこに案内された先は、かつて俺自身も座っていた騎士団長の執務室だ。重厚な樫の木の扉が開かれる。部屋の中には、三人の男女が待ち構えていた。
中央のデスクで地図に睨みを利かせているのが、現・騎士団長のグレイブ。俺の元部下であり、今は頼れる友だ。その傍らで、苛立たしげに腕を組んでいるのが、王立魔導研究院の主席、ミリアム。グレイブの妻でもある。そして窓際で外の様子を窺っていたのが、第1番隊副隊長のレオンハルト。金髪の美丈夫だが、今はその端正な顔を曇らせている。
「……よく来てくれました、先輩」
俺が入ると、グレイブが顔を上げた。ひどい顔色だ。目の下には濃いクマがあり、数日は寝ていないのが見て取れる。この男がここまで消耗している姿を見るのは、俺が現役を退いて以来かもしれない。
「急かしてすまない。……ただならぬ事態だとは察しているが」
俺は椅子を引いて座りながら、単刀直入に切り出した。挨拶や世間話をしている時間は、この部屋の空気には存在しなかった。
「ああ。単刀直入に言います」
グレイブが地図の一点を指差した。王都から遥か北、国境に近い山脈地帯。そこに、禍々しい赤色の駒が無数に置かれている。
「大規模なスタンピードです。……規模は、推定で二万」
「二万?」
俺は眉をひそめた。スタンピード、すなわち魔物の暴走現象は、自然界の魔力溜まりが飽和した時に起こる災害だ。だが、二万という数は異常だ。通常なら数百、多くても数千がいいところだろう。それに、今は魔獣の繁殖期でもなければ、魔力活性が高まる時期でもない。
「異常気象か?それとも、新種の上位種でも現れたか」
「いいえ。……自然現象なら、まだ可愛げがありました」
答えたのは、ミリアムだった。彼女は白衣のポケットから、ガラス管に入った黒い粉末を取り出し、テーブルの上に乱暴に置いた。カツン、と乾いた音が響く。
「これを見て。北の調査隊が回収してきた土壌サンプルよ」
「……これは?」
「『魔獣誘引香』の残滓。それも、極めて純度が高く、持続性のある軍事用グレードのもの」
誘引香。魔物を興奮させ、特定の方向へ誘導するために使われる禁忌の薬物だ。製造も所持も、国際法で厳しく禁じられている。
「まさか、人為的なものだと言うのか」
「ええ。この粉末の成分構成、研究院のデータベースに一致するものがあったわ。……ガランド商会の裏帳簿にあった、未認可の試薬データとね」
ガランド商会。その名を聞いた瞬間、俺の奥歯がギリリと鳴った。以前、ノア君を強引に連れ去ろうとし、俺たちの屋敷に土足で踏み込んできたあの薄汚い商人どもだ。俺が威圧で追い返し、その後騎士団の捜査で解体に追い込まれたはずだったが。
「残党か」
「しぶとい連中です。……どうやら、国外に逃げた幹部たちが、最後の悪あがき……いえ、最後の『ビジネス』を仕掛けてきたようです」
レオンハルトが、吐き捨てるように言った。
「彼らのシナリオはこうです。まず、人工的にスタンピードを引き起こし、北の国境地帯を壊滅させる。周辺国はパニックに陥り、喉から手が出るほど『力』を欲するようになる」
「そこで、自分たちが隠し持っている対魔獣兵器や、高騰した物資を売りつける……と?」
「ご名答です。……奴らにとって、このスタンピードは災害じゃない。ただの巨大な『需要喚起キャンペーン』なんですよ」
俺は言葉を失った。怒りを超えて、呆れ果てた。人の命を何だと思っている。家を焼かれ、家族を食われる人々の悲鳴を、奴らは金貨の落ちる音としか認識していないのか。
「腐りきってるな」
俺が呟くと、グレイブが重く頷いた。
「ええ。……ですが、問題は奴らの動機ではありません。今、現実に迫っている脅威です」
グレイブが指し棒で地図をなぞる。赤い駒の群れは、山脈を越え、王都へ続く街道を南下しつつある。
「魔物の群れは、誘引香の効果で興奮状態にあり、通常よりも移動速度が速い。……このままだと、あと三日で王都の防衛圏に到達します」
「三日……」
俺は計算した。騎士団の本隊を動かすには、準備だけで丸一日はかかる。そこから行軍し、迎撃地点に布陣するとなると……。
「間に合わないな」
俺の指摘に、グレイブが苦しげに顔を歪めた。
「はい。重装備の兵団を展開するには時間が足りません。かといって、王都の城壁で迎え撃てば、周辺の村々は壊滅し、王都自体もただでは済みません」
二万の魔物が城壁に押し寄せれば、たとえ防ぎきれたとしても、市街地への被害は甚大だ。多くの市民が犠牲になるだろう。レティが生きていた頃、俺たちが必死で守ろうとしたこの街が、商人の欲望のために蹂躙される。そんなことは、させられない。
「……手はあるのか?」
俺が尋ねると、グレイブとミリアム、レオンハルトの三人が、一瞬だけ沈黙を共有した。重い、粘りつくような沈黙だった。それは、これから語られる作戦が、決して耳触りの良いものではないことを物語っていた。
「一つだけ、あります」
グレイブが、地図上の一点を指した。山脈と平野の境目にある、狭い峡谷。
「『嘆きの回廊』と呼ばれる峡谷です。ここなら地形が狭く、大軍も一度には通れません。……ここで、先行部隊が魔物の足止めを行う」
「足止め、か」
「はい。本隊の準備が整うまでの二日間。……この峡谷を死守し、魔物を一匹たりとも通さない。そうすれば、その間に本隊が平野部に包囲網を完成させ、一網打尽にできます」
理屈は分かる。兵法の定石だ。狭い場所で敵の数を殺し、時間を稼ぐ。だが、問題はその「中身」だ。
「……二万の興奮した魔物を、峡谷という逃げ場のない場所で、二日間も食い止めるのか?」
俺は乾いた声で言った。
「それは作戦じゃない。……生贄だ」
峡谷を塞ぐ先行部隊は、文字通り「栓」となる。
次から次へと押し寄せる魔物の波を、不眠不休で斬り続け、魔法を撃ち続けなければならない。交代要員もいない。補給もない。全滅を前提とした、捨て石の役割。
グレイブは視線を落とし、拳を机に叩きつけた。ドン、という音が虚しく響く。
「……分かっています。こんな命令、部下に下せるわけがない。……『死んでこい』と言っているのと同じですから」
彼は騎士団長だ。部下の命を守る義務がある。だが同時に、国を守る義務もある。この非情な天秤の前で、彼は削られていたのだ。
そして。彼がなぜ、引退した俺を、こんな赤い封蝋を使ってまで呼び出したのか。その理由を、俺は察してしまった。
この作戦を成功させるには、「普通の兵士」では駄目なのだ。
一騎当千。
たった一人で戦況を変えられるような、圧倒的な武力を持つ「英雄」が必要なのだ。
グレイブが顔を上げた。その瞳には、友としての情と、指揮官としての冷徹さがせめぎ合っていた。
「先輩。……アルベルト・ヴィスマルク殿」
彼が俺のフルネームを呼ぶ。それは、かつての上官に対する敬意と、これからの無礼を詫びる合図だった。
「部外者のアンタに、こんなことを頼める義理じゃないことは重々承知しています。アンタはもう剣を置き、静かな生活を手に入れた。……それを、俺たちが踏み荒らす権利なんてない」
彼の声が震える。
「ですが……この無茶な作戦を成立させるには、アンタの力が必要なんです。……かつての『剣聖』の力が」
部屋の空気が張り詰める。ミリアムも、レオンハルトも、息を殺して俺を見ている。彼らは知っているのだ。俺がどれだけ戦いに疲れ、どれだけ平和を望んでいたかを。そして、俺に今、守るべき大切な「家」があることを。
俺は、自分の膝の上で組んだ手を見つめた。その指先には、まだノア君が淹れてくれた紅茶の温もりが残っている気がした。
(……俺は)
行きたくない。
本音だった。
もう、あんな血生臭い場所には戻りたくない。泥にまみれて、死の恐怖に怯えながら剣を振るうのは御免だ。俺はただ、ノア君の作ったシチューを食べて、彼女の他愛ない話を聞いて、柔らかいベッドで眠りたい。やっと手に入れたんだ。それを、また手放すのか?「みんなのため」という美しい言葉のために、俺の個人的な幸福を、また犠牲にするのか?
レティの顔が浮かぶ。『行って』と微笑んだ彼女の、最期の嘘。俺がそれを受け入れたせいで、彼女は一人で死んだ。
もし今回、俺が行けば。ノア君は、また一人で待つことになる。そしてもし、俺が帰らなかったら?彼女は、二度目の「置いていかれる痛み」を味わうことになる。
嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
俺は顔を上げた。グレイブの必死な眼差しを受け止め、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……悪いが」
その言葉を聞いた瞬間、グレイブの表情が、わずかに歪んだ。失望ではない。「そうだよな」という、諦めと安堵がない交ぜになったような表情だった。
俺は、言葉を続けた。自分の心を守るための、そして同時に、友を見捨てないための、ギリギリの妥協案を提案しないと。今ここで俺自身がつぶれてしまいそうで。
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