68 / 73
第4部_「幸せな気持ちで、帰ってもいい」
第55話:出立の朝、静かなる絶望
しおりを挟む
夜明け前。空はまだ深く暗く、星々も寒さに震えるように瞬いている。王都の住宅街にあるグレイブの私邸は、深い静寂に包まれていた。
寝室のベッドで、グレイブは静かに目を覚ました。隣には、ミリアムが背中を向けて眠っている。規則正しい寝息が聞こえる。彼は音を立てないように慎重に体を起こし、ベッドを抜け出した。
(……行ってくるよ)
心の中で声をかける。起こしてしまえば、決意が鈍る。彼女もそれが分かっているからこそ、昨晩はあんなに明るく振る舞い、そして今は泥のように眠っている(ふりをしている)のだろう。
グレイブはリビングへ行き、昨日のうちに手入れを済ませておいた騎士団の正装に袖を通した。冷たい鎧の感触が、これから向かう場所の厳しさを教えてくれる。剣を帯び、マントを羽織る。鏡に映る自分は、夫の顔ではなく、死地へ向かう指揮官の顔をしていた。
玄関に向かうと、靴箱の上に小さな包みが置いてあった。見覚えのあるハンカチで包まれた、サンドイッチだ。その脇には、一枚のメモ。
『肉は少なめ。野菜多め。……残したら殺す』
乱暴な筆跡。だが、インクが少し滲んでいるのが分かった。グレイブは苦笑し、その包みを大切に懐に入れた。やっぱり、彼女には敵わない。起きて見送るよりも、こうして「日常」を持たせてくれる方が、何倍も心強いエールになることを知っているのだ。
「……行ってきます」
誰もいない玄関で小さく呟き、グレイブは扉を開けた。冷気と共に、戦いの匂いがした。
***
騎士団本部。まだ日は昇っていないが、練兵場には松明が焚かれ、異様な熱気と、それ以上に重苦しい沈黙が渦巻いていた。
集められたのは、先行部隊に選抜された三十名の精鋭たちだ。彼らは無言で装備を点検し、愛馬の鞍を締め直している。誰一人として、軽口を叩く者はいない。彼らは知っているのだ。自分たちがこれから向かう「嘆きの回廊」が、生きて帰ることの許されない片道切符の戦場であることを。
「……団長」
本部棟の回廊で、副隊長のレオンハルトが待ち構えていた。その顔色は優れない。彼もまた、一睡もしていないのだろう。
「状況は?」「全隊、出撃準備完了しています。……遺書の預かりも、済みました」
遺書。その単語が、胸に重くのしかかる。
「……そうか」「団長。まだ間に合います」
レオンハルトが、すがるような目でグレイブを見た。
「本隊の編成を早めましょう。装備が不完全でも、数で押し切るしか……」「間に合わんよ」
グレイブは足を止めず、歩きながら答えた。
「俺たちが峡谷で足を止めなければ、魔物の群れは三日で王都に雪崩れ込む。未完成の本隊をぶつけても、平野戦になれば被害は甚大だ。……誰かが、貧乏くじを引かなきゃならない」
「だからって、それを貴方が引く必要はないでしょう!」
レオンハルトが叫んだ。普段の冷静な彼らしくない、感情的な声だった。
「貴方は騎士団の頭脳です!貴方を失えば、今後の騎士団はどうなるんですか!先行部隊なら、私が指揮を執ります。だから……」「レオンハルト」
グレイブは立ち止まり、副官の肩に手を置いた。
「お前は優秀だ。剣の腕も立つし、頭も回る。……だが、まだ『情』が深すぎる」
グレイブは自嘲気味に笑った。
「先行部隊は、部下を見殺しにする判断を迫られる場面が必ず来る。……傷ついた仲間を置き去りにしてでも、時間を稼がなきゃならない。お前には、その泥を被らせたくないんだ」
「団長……」
「俺の屍を越えていけ。……それが、俺ができる最後の教育だ」
レオンハルトは拳を震わせ、俯いた。悔しさが、痛いほど伝わってくる。力不足への嘆きと、上官を死なせたくないという想い。
「……分かりました。本隊の指揮、謹んでお受けします」
彼は顔を上げ、涙をこらえて敬礼した。
「ですが、諦めません。……一秒でも早く準備を整え、必ず救援に駆けつけます。ですから……それまで、持ちこたえてください」「ああ。期待してるぞ」
グレイブは頷き、執務室への扉を開けた。中に入る。冷え切った空気が淀んでいる。ここが、俺の騎士人生の最後の場所になるのか。
グレイブは机に向かい、先行部隊の最終名簿を広げた。一番上に、自分の名前を書く。ペンの音が、死刑判決の署名のように響く。
(……アルベルトさん)
ふと、尊敬する先輩の顔が脳裏をよぎる。彼は今頃、温かいベッドで眠っているだろうか。それでいい。あの人は十分に戦った。これからは、俺たちがこの国を守る番だ。あの人の幸せを守れるなら、俺の命なんて安いものだ。
そう自分に言い聞かせ、グレイブはペンを置いた。覚悟は決まった。あとは、出撃するだけだ。
その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音と、兵士たちのどよめきが聞こえてきた。何事だ?レオンハルトと顔を見合わせる。侵入者か?いや、ここは騎士団の本部だ。そんな馬鹿な真似をする奴がいるはずが……。
バンッ!!
唐突に、執務室の扉が乱暴に開け放たれた。夜明け前の冷気と共に、場違いなほど晴れやかな声が飛び込んできた。
「……よお。遅刻しちまったか?」
そこに立っていたのは。来るはずのない、そして誰よりも来てほしかった、あの男だった。
寝室のベッドで、グレイブは静かに目を覚ました。隣には、ミリアムが背中を向けて眠っている。規則正しい寝息が聞こえる。彼は音を立てないように慎重に体を起こし、ベッドを抜け出した。
(……行ってくるよ)
心の中で声をかける。起こしてしまえば、決意が鈍る。彼女もそれが分かっているからこそ、昨晩はあんなに明るく振る舞い、そして今は泥のように眠っている(ふりをしている)のだろう。
グレイブはリビングへ行き、昨日のうちに手入れを済ませておいた騎士団の正装に袖を通した。冷たい鎧の感触が、これから向かう場所の厳しさを教えてくれる。剣を帯び、マントを羽織る。鏡に映る自分は、夫の顔ではなく、死地へ向かう指揮官の顔をしていた。
玄関に向かうと、靴箱の上に小さな包みが置いてあった。見覚えのあるハンカチで包まれた、サンドイッチだ。その脇には、一枚のメモ。
『肉は少なめ。野菜多め。……残したら殺す』
乱暴な筆跡。だが、インクが少し滲んでいるのが分かった。グレイブは苦笑し、その包みを大切に懐に入れた。やっぱり、彼女には敵わない。起きて見送るよりも、こうして「日常」を持たせてくれる方が、何倍も心強いエールになることを知っているのだ。
「……行ってきます」
誰もいない玄関で小さく呟き、グレイブは扉を開けた。冷気と共に、戦いの匂いがした。
***
騎士団本部。まだ日は昇っていないが、練兵場には松明が焚かれ、異様な熱気と、それ以上に重苦しい沈黙が渦巻いていた。
集められたのは、先行部隊に選抜された三十名の精鋭たちだ。彼らは無言で装備を点検し、愛馬の鞍を締め直している。誰一人として、軽口を叩く者はいない。彼らは知っているのだ。自分たちがこれから向かう「嘆きの回廊」が、生きて帰ることの許されない片道切符の戦場であることを。
「……団長」
本部棟の回廊で、副隊長のレオンハルトが待ち構えていた。その顔色は優れない。彼もまた、一睡もしていないのだろう。
「状況は?」「全隊、出撃準備完了しています。……遺書の預かりも、済みました」
遺書。その単語が、胸に重くのしかかる。
「……そうか」「団長。まだ間に合います」
レオンハルトが、すがるような目でグレイブを見た。
「本隊の編成を早めましょう。装備が不完全でも、数で押し切るしか……」「間に合わんよ」
グレイブは足を止めず、歩きながら答えた。
「俺たちが峡谷で足を止めなければ、魔物の群れは三日で王都に雪崩れ込む。未完成の本隊をぶつけても、平野戦になれば被害は甚大だ。……誰かが、貧乏くじを引かなきゃならない」
「だからって、それを貴方が引く必要はないでしょう!」
レオンハルトが叫んだ。普段の冷静な彼らしくない、感情的な声だった。
「貴方は騎士団の頭脳です!貴方を失えば、今後の騎士団はどうなるんですか!先行部隊なら、私が指揮を執ります。だから……」「レオンハルト」
グレイブは立ち止まり、副官の肩に手を置いた。
「お前は優秀だ。剣の腕も立つし、頭も回る。……だが、まだ『情』が深すぎる」
グレイブは自嘲気味に笑った。
「先行部隊は、部下を見殺しにする判断を迫られる場面が必ず来る。……傷ついた仲間を置き去りにしてでも、時間を稼がなきゃならない。お前には、その泥を被らせたくないんだ」
「団長……」
「俺の屍を越えていけ。……それが、俺ができる最後の教育だ」
レオンハルトは拳を震わせ、俯いた。悔しさが、痛いほど伝わってくる。力不足への嘆きと、上官を死なせたくないという想い。
「……分かりました。本隊の指揮、謹んでお受けします」
彼は顔を上げ、涙をこらえて敬礼した。
「ですが、諦めません。……一秒でも早く準備を整え、必ず救援に駆けつけます。ですから……それまで、持ちこたえてください」「ああ。期待してるぞ」
グレイブは頷き、執務室への扉を開けた。中に入る。冷え切った空気が淀んでいる。ここが、俺の騎士人生の最後の場所になるのか。
グレイブは机に向かい、先行部隊の最終名簿を広げた。一番上に、自分の名前を書く。ペンの音が、死刑判決の署名のように響く。
(……アルベルトさん)
ふと、尊敬する先輩の顔が脳裏をよぎる。彼は今頃、温かいベッドで眠っているだろうか。それでいい。あの人は十分に戦った。これからは、俺たちがこの国を守る番だ。あの人の幸せを守れるなら、俺の命なんて安いものだ。
そう自分に言い聞かせ、グレイブはペンを置いた。覚悟は決まった。あとは、出撃するだけだ。
その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音と、兵士たちのどよめきが聞こえてきた。何事だ?レオンハルトと顔を見合わせる。侵入者か?いや、ここは騎士団の本部だ。そんな馬鹿な真似をする奴がいるはずが……。
バンッ!!
唐突に、執務室の扉が乱暴に開け放たれた。夜明け前の冷気と共に、場違いなほど晴れやかな声が飛び込んできた。
「……よお。遅刻しちまったか?」
そこに立っていたのは。来るはずのない、そして誰よりも来てほしかった、あの男だった。
11
あなたにおすすめの小説
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
テイマーなのに獣人ばかりにモテすぎて困ってます!~彼女はまだツンデレ獣人に番認定されたことに気付いてない~
しましまにゃんこ
恋愛
リリアは、この春、アリシア王国で冒険者になったばかりのテイマーの女の子。早く冒険者として活動したいのに、まだ一匹もテイムすることができずに焦っている。
森に入れば触手に襲われ、街を歩けば獣人に襲われる無自覚天然ドジキャラのリリア。
そんなリリアを溺愛し、陰ながらこっそり見守る黒ヒョウ獣人のロルフは、いつもリリアに振り回されっぱなし。
実は二人の間にはある秘密が!?
剣と魔法、魔法道具が使えるファンタジーな世界で、テイマーとして活躍したい女の子と、好きなのに好きといえない獣人の男の子の、勘違い、溺愛、ジレジレ、時にヤンデレなドタバタ系ラブコメです!
『王女様は聖女様!?おてんば姫の冒険録~全属性の賢者、500年後に転生する!ペットのドラゴンが迷子なので冒険者になって探しにいきます!』と同じ世界です。今後「王女様~」のほうでも登場予定です。お楽しみに!
小説家になろう、他サイトでも掲載しています。
契約妹、はじめました!
和島逆
恋愛
「契約結婚、ですか?」
「いいえ。『契約妹』です」
そんな会話から始まった、平民の私と伯爵子息様とのおかしな雇用関係。
エリート魔導技士でもある彼の目的は、重度のシスコン兄を演じて自身の縁談を遠ざけること。報酬は魅力的で、孤児である私にとっては願ってもないオイシイ話!
そうして始まった伯爵家での『契約妹』生活は、思った以上に快適で。義父と義母にも気に入られ、雇用主である偽のお兄様までだんだん優しくなってきたような……?
このお仕事、どうやら悪くないようです。
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
【完結】死の4番隊隊長の花嫁候補に選ばれました~鈍感女は溺愛になかなか気付かない~
白井ライス
恋愛
時は血で血を洗う戦乱の世の中。
国の戦闘部隊“黒炎の龍”に入隊が叶わなかった主人公アイリーン・シュバイツァー。
幼馴染みで喧嘩仲間でもあったショーン・マクレイリーがかの有名な特効部隊でもある4番隊隊長に就任したことを知る。
いよいよ、隣国との戦争が間近に迫ったある日、アイリーンはショーンから決闘を申し込まれる。
これは脳筋女と恋に不器用な魔術師が結ばれるお話。
【完結】懸命に働いた結果、無実の罪で魔王への生贄にされた聖女。でも、その『氷華の魔王』様に溺愛され、誰よりも幸福な人生を手に入れました。
小平ニコ
恋愛
主人公マリエラは懸命に聖女の役割を果たしてきたのに、婚約者である王太子ウィルハルドは、お気に入りの宮女のデタラメを真に受けて婚約破棄。そしてマリエラを恐るべき『氷華の魔王』レオナールへの生贄にしてしまう。
だが、冷徹で残忍と噂されるレオナールは、マリエラに対して深い愛情と優しさを注ぎ、マリエラを侮辱したウィルハルドの顎を氷漬けにして黙らせ、衆目の前で大恥をかかせた。
そして、レオナールと共に魔王国グレスウェアに移り住むマリエラ。レオナールの居城での新しい生活は、甘く幸福なものだった。互いに『運命の相手』と認め合い、愛を育み、信頼を深めていくマリエラとレオナール。
しかしレオナールは、生まれついての絶大な魔力ゆえの呪いとして、長く生きられない体だった。ショックに打ちひしがれるマリエラ。だがある日、封印された禁術を使えば、自らの寿命が大幅に減るものの、レオナールに命を分けることができると知るのだった。
その頃、王太子ウィルハルドは自分に恥をかかせた魔王レオナールへの憎しみを滾らせ、魔王国の反王政派と結託してレオナールの暗殺を企てる。
しかしそれは、あまりにも愚かな選択だった。レオナールのマリエラに対する態度があまりにも優しかったから、ウィルハルドは彼を侮り、忘れていたのである。『氷華の魔王』が恐るべき存在であることを……
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる