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第14話 いいですか、衛生は贅沢ではなく防御です
鍋の段取りが少し整った翌日、私はようやく「今日は怒らずに済むかもしれない」と思った。
大変に浅はかだった。
朝の炊き出しが終わった直後、裏庭の方で悲鳴が上がったのである。
「ちょっと! 誰か!」
嫌な声だ。
人は日常の中で、聞き分ける必要のない音まで聞き分けられるようになる。あれは完全に「面倒が始まりました」の声だった。
私は匙を置き、裏へ走った。
古井戸のそば、洗い場の前で、人が輪になっている。
真ん中には、昨日「ちょっといい匂いする」と言っていた鼻の赤い子どもが座り込み、顔を真っ青にしていた。横では母親が半泣きで背をさすっている。
「離れてください」
私はしゃがみ込んだ。
「吐きましたか?」
「さっき、少し……」
母親が震える声で言う。
「腹が痛いって、朝から……」
「熱は」
「分からなくて」
「分かります。触ります」
額は少し熱い。
でも高熱ではない。呼吸は浅いが苦しそうすぎるほどでもない。問題は別だ。
「昨日の夜、何を食べました?」
「炊き出しと、あと、家の水」
「水はどこから?」
「古井戸がまだ不安だからって、裏の洗い場の桶から……」
「何ですって?」
そこで私は、ゆっくり顔を上げた。
洗い場。
古井戸の少し下。野菜を洗い、布をすすぎ、桶を並べている場所だ。
そして、そのすぐ脇には、昨日から使い回されている汚水桶がある。
「バベット」
私が低く呼ぶと、厨房から出てきた彼女が顔をしかめた。
「何だい」
「洗い場の水、飲ませました?」
「まさか! あそこは洗う用だよ!」
「そうですよね」
「何だい、その顔」
「今、私の機嫌がすごく悪くなっています」
母親が慌てて言う。
「ご、ごめんなさい、飲み水が足りなくて、少しなら大丈夫かと」
「謝らないでください」
私ははっきり言った。
「分けていないこちらが悪いのです」
そこでヴィクトルが後ろから近づいてきた。
「重い病か」
「たぶん違います。今のところは」
「今のところ?」
「ええ」
私は立ち上がった。
「でも、このままだと“今のところ”で済まなくなります」
私は洗い場を見た。
桶。布。野菜屑。泥のついた木床。
古井戸が使えるようになったことで、皆が少し安心したのだろう。安心した結果、水の用途が曖昧になっている。
最悪だ。
水は足りない時も危ないが、増えた時も使い方を間違えると危ない。
「皆さん、聞いてください」
私は声を張った。
「今から、水の使い方を分けます」
「またかい」
マルゴが言う。
「またです」
「今度は何だい」
「飲む水、鍋の水、洗う水、捨てる水」
私は指を折った。
「この四つを混ぜない」
「そんな細かいこと」
「細かくありません」
私は真顔で言った。
「病気は、たいていこういうところから入ってきます」
そこへ、さっきの書記役の男が、おそるおそる顔を出した。
「病気、ですか」
「ええ」
「そんな大げさな」
「大げさで済むなら嬉しいですね」
私はにこやかに答えた。
「では質問です。洗い場の水を飲んで腹を壊した子どもが一人出ました。次に同じことが起きたら、帳簿には何と書きます?」
「……」
「“不適切な水管理”です」
「……」
「つまり事務仕事です」
男は顔を引きつらせた。
よろしい。役人には、たまに役人の言葉で殴る必要がある。
「バベット、鍋用の水桶に印を」
「何で」
「飲めるからです」
「洗い場は?」
「印を変える。飲むなと分かるように」
「そんなの誰が」
「書記役の方が札を書いてくれます」
「えっ」
書記役が変な声を出した。
「素敵ですね」
「まだ引き受けてません!」
「では今、お願いします」
「話が強引だ!」
私はもう無視して、洗い場の床を指した。
「ここ、下水が悪いですね」
マルゴが顔をしかめる。
「前からだよ。流れなくて溜まる」
「汚水桶はどこへ?」
「裏の溝」
「その溝、どこへ?」
「ええと……」
誰も答えない。
嫌な予感しかしない。
私はリュスを見た。
「案内してください」
「また?」
「今度は水の流れです」
「地味だね」
「地味なものほど人を殺すので」
リュスに連れられ、私は洗い場の裏から細い溝を辿った。
泥の中を水が細く流れている。いや、流れているというより、溜まりながら嫌々進んでいる感じだ。
少し先で、私は足を止めた。
「……素晴らしくないですね」
「何が」
リュスが聞く。
「この溝、古井戸の下手に回り込んでいます」
「それが?」
「ものすごくよくないです」
私は額を押さえた。
古井戸そのものに混ざる位置ではない。だが近い。雨が強く降ればどうなるか分からないし、そもそも洗い場の近くに汚水を溜めている時点でろくでもない。
屋敷へ戻ると、バベットがもう桶を分けていた。
大変良い。
「早いですね」
「嫌な予感がしたからね」
「同感です」
「それで?」
「汚水の溝を変えます」
「今から?」
「今からです」
「本当に好きだねえ、今から」
「問題は待ってくれませんので」
ヴィクトルが低く言った。
「人を回すか」
「助かります。穴を掘るだけでいいので」
「それが一番面倒だ」
「生きるのは面倒です」
そこで、さっき腹を痛めた子どもが、母親にもたれたまま小さく言った。
「ごめん」
私はしゃがんだ。
「何がです?」
「水、勝手に飲んだ」
「今後は勝手に飲まないでください」
「うん」
「でも、謝るのは後です。先に治しましょう」
子どもはこくりと頷いた。
その様子を見て、周囲の空気が少し変わる。
分かるのだ。
鍋や井戸だけでは足りないことが。
「皆さん」
私は立ち上がって言った。
「衛生は贅沢ではありません」
数人が首を傾げる。
「防御です」
私は洗い場、汚水桶、古井戸を順に指した。
「ここを間違えると、せっかく増えた水で人が倒れます」
「……」
「ですので、飲む水は飲む水。洗う水は洗う水。汚い水は、ちゃんと遠ざける」
バベットが鼻を鳴らした。
「当たり前だよ」
「ええ。当たり前のことを、今から当たり前に戻します」
そして私は、袖をまくった。
「穴を掘りましょう」
ロランが遠くから笑う。
「また始まった」
「止まるよりましです」
私が答えると、ヴィクトルが小さく言った。
「今日は泥だらけになるぞ」
「昨日もでした」
「王宮の女が」
「今さらですね」
そうしてその日、ベルノーでは新しい溝が掘られた。
見栄えは最悪。
でも、水の流れは昨日よりましになる。
少しだけまし。
たぶん、この領地はそれを積み上げるしかない。
そして私は、その“少しだけ”を邪魔するものが、飢えだけではないと、ようやくちゃんと理解したのだった。
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