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「……おい。貴様、私の話を無視して肉を食うなと言っているんだ!」
静まり返った大広間に、ジュリアス王子の血管が切れそうな怒号が再び響き渡った。
対するカナメアは、絶妙な火入れでロゼ色に輝くローストビーフをフォークで巻き上げ、うっとりと目を細めている。
「王子、そんなに大声を出すと、せっかくの繊細なソースの香りが台無しになってしまいますわ。……んん、この赤ワインソース、隠し味にベリーを使っていますわね? 酸味のバランスが天才的ですわ」
「ソースの話などしていない! 婚約破棄だと言ったんだ! 貴様は公爵家を追放され、平民に落とされるかもしれないのだぞ!」
ジュリアスの顔は、今や彼が嫌う完熟トマトのように真っ赤に染まっている。
しかし、カナメアの脳内辞書において『追放』という単語は、すでに『地方グルメツアーへの招待状』と翻訳されていた。
「平民……。つまり、貴族の義務である『優雅な少食』を演じる必要がなくなるということですね。朝から市場で揚げたてのチュロスを頬張り、昼には労働者向けのガッツリとした煮込み料理を食す……。素晴らしい、なんて自由な響きかしら」
「聞いてるのか!? 私は貴様に絶望を与えようとしているのだ! なぜそんなに幸せそうな顔をしている!」
ジュリアスは我慢できず、カナメアの皿を奪い取ろうと手を伸ばした。
だが、カナメアは野生の獣のような俊敏さで皿を死守し、スッと身をかわす。
「食べ物の恨みは恐ろしいですよ、王子。今の私は婚約という重石が取れて、胃袋のコンディションは最高潮なのです。邪魔をするなら、たとえ王族であろうとも……いえ、なんでもありませんわ」
「今、不敬なことを口にしようとしただろう! 貴様、本当にあの謙虚だったカナメアなのか?」
「謙虚? ああ、食事制限で常に低血糖だった頃の私ですね。あの時は、空腹のあまり思考が停止していただけですわ」
カナメアは最後の一切れを口に放り込むと、満足げに口元をナプキンで拭った。
その堂々とした食べっぷりに、周囲で見守っていた貴族たちの間から、失笑とも感嘆ともつかない声が漏れ始める。
「見て、あの食べ方……。まるで今日が人生最後の晩餐かのような勢いだわ」
「でも、不思議と汚らしくないわね。むしろ、あんなに美味しそうに食べられるなんて、少し羨ましい気もするけれど……」
ひそひそ話の内容が耳に入ったのか、ジュリアスに寄り添うリリアーヌが、あざとく首を傾げて口を開いた。
「まあ、カナメア様ったら……。王子様が一生懸命お話しされているのに、食べ物のことばかり。リリアーヌ、悲しくなってしまいましたわ」
「そうだろう、リリアーヌ。やはり、お前のような淑やかな女性こそが、次期王妃にふさわしい」
「ふふ、王子様。リリアーヌは、お花を少し摘むような食事だけでお腹がいっぱいになってしまいますの」
そのセリフを聞いた瞬間、カナメアの瞳に鋭い光が宿った。
彼女はリリアーヌを一瞥し、深い同情を込めた溜息をつく。
「お花を摘むような食事……。リリアーヌ様、それはもはや食事ではなく、ただの光合成ですわ。そんなことでは、王宮の過酷な公務に胃壁が耐えられません。すぐに胃潰瘍になってしまいますわよ?」
「い、いかいよう……!?」
「ええ。私のアドバイスとしては、今のうちにそのテーブルにあるフォアグラのパテを、厚さ二センチほどパンに塗って食べておくことです。脂肪分は精神の安定に繋がりますから」
「誰がそんな下品な食べ方を……っ!」
リリアーヌが顔を引きつらせる中、ジュリアスは完全に自分のペースを乱されていることに気づき、拳を机に叩きつけた。
「ええい、もういい! 衛兵! この無礼な女を今すぐ会場からつまみ出せ! ベルガモット公爵には、後ほど厳重な抗議と共に出入り禁止を申し渡す!」
「あ、ちょっと待ってください! まだデザートのワゴンが来ていませんわ!」
カナメアは衛兵に腕を掴まれながらも、会場の入り口付近に待機していたパティシエ特製の巨大なクロカンブッシュに手を伸ばそうとする。
「離して! あの飴細工の輝きを、私はまだ味わっていないのよ! 離しなさい、この鉄塊のような腕の衛兵!」
「往往往生際が悪いぞ、カナメア! 早く連れて行け!」
ジュリアスの勝利宣言のような叫びが響く中、カナメアは無慈悲にも会場の外へと引きずり出されていった。
しかし、その騒動を、会場の柱の陰から冷徹な、それでいて熱を帯びた瞳で見つめる男がいた。
若き辺境伯、ヴィンセント・ハルバードである。
彼は、周囲が嘲笑する中で、たった一人、カナメアの「食に対する真摯な姿勢」に魂を揺さぶられていた。
「……ミートパイのパイ生地、そのバターの層の重なりを見抜いたか。あのような審美眼を持つ令嬢が、この王都にいたとは」
ヴィンセントは、自分の皿に乗った冷めかけの肉を見つめ、独り言をこぼす。
彼はその強面ゆえに「戦場の鬼神」と恐れられているが、その実態は、美味いものを求めて辺境を駆け巡る孤独な美食家であった。
「ジュリアス王子は愚かだな。あの宝(胃袋)を手放すとは」
ヴィンセントは、カナメアが連れ去られた扉の方向をじっと見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
一方、王宮の門の外へ放り出されたカナメアは、夜風に当たりながらスカートの泥を払っていた。
「……ふう。まあ、メインディッシュまでは完食できたし、今日のところは良しとしましょうか」
彼女は夜空を見上げ、満足げに喉を鳴らした。
「さて。明日からは公爵家のキッチンも使えなくなるわね。まずは、王都で一番美味しいと噂の『場末の牛もつ煮込み屋』に並ぶための準備を始めなくちゃ!」
絶望という言葉を知らない美食令嬢は、月明かりの下で軽快なステップを踏みながら、己の食の未来に思いを馳せるのであった。
静まり返った大広間に、ジュリアス王子の血管が切れそうな怒号が再び響き渡った。
対するカナメアは、絶妙な火入れでロゼ色に輝くローストビーフをフォークで巻き上げ、うっとりと目を細めている。
「王子、そんなに大声を出すと、せっかくの繊細なソースの香りが台無しになってしまいますわ。……んん、この赤ワインソース、隠し味にベリーを使っていますわね? 酸味のバランスが天才的ですわ」
「ソースの話などしていない! 婚約破棄だと言ったんだ! 貴様は公爵家を追放され、平民に落とされるかもしれないのだぞ!」
ジュリアスの顔は、今や彼が嫌う完熟トマトのように真っ赤に染まっている。
しかし、カナメアの脳内辞書において『追放』という単語は、すでに『地方グルメツアーへの招待状』と翻訳されていた。
「平民……。つまり、貴族の義務である『優雅な少食』を演じる必要がなくなるということですね。朝から市場で揚げたてのチュロスを頬張り、昼には労働者向けのガッツリとした煮込み料理を食す……。素晴らしい、なんて自由な響きかしら」
「聞いてるのか!? 私は貴様に絶望を与えようとしているのだ! なぜそんなに幸せそうな顔をしている!」
ジュリアスは我慢できず、カナメアの皿を奪い取ろうと手を伸ばした。
だが、カナメアは野生の獣のような俊敏さで皿を死守し、スッと身をかわす。
「食べ物の恨みは恐ろしいですよ、王子。今の私は婚約という重石が取れて、胃袋のコンディションは最高潮なのです。邪魔をするなら、たとえ王族であろうとも……いえ、なんでもありませんわ」
「今、不敬なことを口にしようとしただろう! 貴様、本当にあの謙虚だったカナメアなのか?」
「謙虚? ああ、食事制限で常に低血糖だった頃の私ですね。あの時は、空腹のあまり思考が停止していただけですわ」
カナメアは最後の一切れを口に放り込むと、満足げに口元をナプキンで拭った。
その堂々とした食べっぷりに、周囲で見守っていた貴族たちの間から、失笑とも感嘆ともつかない声が漏れ始める。
「見て、あの食べ方……。まるで今日が人生最後の晩餐かのような勢いだわ」
「でも、不思議と汚らしくないわね。むしろ、あんなに美味しそうに食べられるなんて、少し羨ましい気もするけれど……」
ひそひそ話の内容が耳に入ったのか、ジュリアスに寄り添うリリアーヌが、あざとく首を傾げて口を開いた。
「まあ、カナメア様ったら……。王子様が一生懸命お話しされているのに、食べ物のことばかり。リリアーヌ、悲しくなってしまいましたわ」
「そうだろう、リリアーヌ。やはり、お前のような淑やかな女性こそが、次期王妃にふさわしい」
「ふふ、王子様。リリアーヌは、お花を少し摘むような食事だけでお腹がいっぱいになってしまいますの」
そのセリフを聞いた瞬間、カナメアの瞳に鋭い光が宿った。
彼女はリリアーヌを一瞥し、深い同情を込めた溜息をつく。
「お花を摘むような食事……。リリアーヌ様、それはもはや食事ではなく、ただの光合成ですわ。そんなことでは、王宮の過酷な公務に胃壁が耐えられません。すぐに胃潰瘍になってしまいますわよ?」
「い、いかいよう……!?」
「ええ。私のアドバイスとしては、今のうちにそのテーブルにあるフォアグラのパテを、厚さ二センチほどパンに塗って食べておくことです。脂肪分は精神の安定に繋がりますから」
「誰がそんな下品な食べ方を……っ!」
リリアーヌが顔を引きつらせる中、ジュリアスは完全に自分のペースを乱されていることに気づき、拳を机に叩きつけた。
「ええい、もういい! 衛兵! この無礼な女を今すぐ会場からつまみ出せ! ベルガモット公爵には、後ほど厳重な抗議と共に出入り禁止を申し渡す!」
「あ、ちょっと待ってください! まだデザートのワゴンが来ていませんわ!」
カナメアは衛兵に腕を掴まれながらも、会場の入り口付近に待機していたパティシエ特製の巨大なクロカンブッシュに手を伸ばそうとする。
「離して! あの飴細工の輝きを、私はまだ味わっていないのよ! 離しなさい、この鉄塊のような腕の衛兵!」
「往往往生際が悪いぞ、カナメア! 早く連れて行け!」
ジュリアスの勝利宣言のような叫びが響く中、カナメアは無慈悲にも会場の外へと引きずり出されていった。
しかし、その騒動を、会場の柱の陰から冷徹な、それでいて熱を帯びた瞳で見つめる男がいた。
若き辺境伯、ヴィンセント・ハルバードである。
彼は、周囲が嘲笑する中で、たった一人、カナメアの「食に対する真摯な姿勢」に魂を揺さぶられていた。
「……ミートパイのパイ生地、そのバターの層の重なりを見抜いたか。あのような審美眼を持つ令嬢が、この王都にいたとは」
ヴィンセントは、自分の皿に乗った冷めかけの肉を見つめ、独り言をこぼす。
彼はその強面ゆえに「戦場の鬼神」と恐れられているが、その実態は、美味いものを求めて辺境を駆け巡る孤独な美食家であった。
「ジュリアス王子は愚かだな。あの宝(胃袋)を手放すとは」
ヴィンセントは、カナメアが連れ去られた扉の方向をじっと見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
一方、王宮の門の外へ放り出されたカナメアは、夜風に当たりながらスカートの泥を払っていた。
「……ふう。まあ、メインディッシュまでは完食できたし、今日のところは良しとしましょうか」
彼女は夜空を見上げ、満足げに喉を鳴らした。
「さて。明日からは公爵家のキッチンも使えなくなるわね。まずは、王都で一番美味しいと噂の『場末の牛もつ煮込み屋』に並ぶための準備を始めなくちゃ!」
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