婚約破棄のショックよりも「本日のメインディッシュ」が気になりますわ

萩月

文字の大きさ
22 / 28

22

しおりを挟む
リリアーヌへの「マッシュポテト百人組手」という名の再教育が終わり、嵐のような一日は幕を閉じた。


深夜。ハルバード領の静かなバルコニーで、カナメアは夜風に当たりながら、小皿に乗った「スモークナッツのキャラメリゼ」をポリポリと齧っていた。


「……ふぅ。誰かに無理やり食べさせるというのは、自分で食べるよりも体力を使いまわね。おかげで、また少しお腹が空いてしまいましたわ」


「……貴殿の胃袋には、時間という概念が存在しないようだな」


背後から響いた低い声に、カナメアは振り向かずに口を動かした。


「ヴィンセント様。……見てください、今夜は月がとても美味しそうなチーズの色をしていますわよ」


「……私にはただの月にしか見えんが、貴殿が言うならそうなのかもしれん」


ヴィンセントはカナメアの隣に並び、手にした銀のトレイを差し出した。そこには、二客のクリスタルグラスと、琥珀色の芳醇な香りを放つワインがあった。


「これ、地下貯蔵庫の最深部で眠っていた、五十年前のヴィンテージ・ポートワインではありませんか!」


「ああ。貴殿の働きへの報酬だ。……それと、少し落ち着いて話をしたいと思ってな」


カナメアは目を輝かせてグラスを受け取ると、まずはその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「……っ! なんて官能的な香り。干し葡萄の甘みと、オーク樽の渋みが、まるで熟練の社交ダンスを踊っているようですわ!」


彼女が幸せそうに一口含んだのを確認してから、ヴィンセントは自分のグラスには手を付けず、真っ直ぐにカナメアを見つめた。


「カナメア殿。……今日の貴殿は、最高に美しかった」


「え? あ、やはりそうですか。私も、あの巨大スプーンを振り回している時のフォームには、多少の自信がありますのよ」


「……フォームの話ではない。……貴殿の、食に対する誠実さと、誇りの話だ」


ヴィンセントは一歩、カナメアとの距離を詰めた。夜の闇に、彼の熱を帯びた吐息が混ざる。


「私は、貴殿を『食の顧問』として雇った。だが、今の私は、貴殿をただの有能な部下として見ることができなくなっている」


「ヴィンセント様……? まさか、私の給料を食材ではなく、現金のみに変更したいと?」


「話を聞け。……そうではない」


ヴィンセントはカナメアの両肩を、大きな手でがっしりと掴んだ。


「私は、一生、私の隣で飯を食う女が欲しい。……いや、違うな。私は、貴殿に一生、私の隣で飯を食ってほしいのだ」


カナメアの咀嚼が、止まった。


「……ヴィンセント様。それはつまり……」


「そうだ。直球で言わせてもらう。……私は貴殿を愛している。一人の男として、一人の美食の共犯者として。貴殿のいない食卓など、もはや塩の入っていないスープと同じ。私の人生に、二度とそんな味気ない時間を持ち込みたくないのだ」


ヴィンセントの瞳には、一切の迷いも、照れもなかった。彼は戦場で敵の首を狙う時よりも真剣な眼差しで、カナメアの返答を待っている。


「…………」


カナメアは沈黙した。あまりの直球な言葉に、流石の彼女も胸の奥が熱くなるのを感じた。


「ヴィンセント様。……一つ、確認してもよろしいでしょうか?」


「何だ。どんな条件でも聞こう。領地の予算をすべて厨房に回してもいい」


「いいえ。……私と結婚するということは、私の『おかわり』に、生涯付き合わなければならないということですわよ?」


カナメアは、いたずらっぽく、しかし潤んだ瞳でヴィンセントを見上げた。


「私が真夜中に『揚げ物が食べたい』と言い出しても、一緒に揚げてくださいますか? 旅先で私が全メニュー制覇を狙っても、笑顔で支払いをしてくださいますか?」


「……それだけか? そんなものは契約条件にすら入らん、当然の前提だ。……なんなら、私が貴殿の口に運んでやってもいい。貴殿が満足するまで、何度でもな」


ヴィンセントの不器用な、しかし誠実な言葉に、カナメアはついに吹き出した。


「ふふ……あははは! 最高ですわ、ヴィンセント様! あなたこそ、私の胃袋と魂を委ねるに相応しい、唯一無二の騎士様ですわ!」


カナメアは空いた方の手で、ヴィンセントの首にしがみついた。


「謹んでお受けいたしますわ! ……ただし、婚約指輪の代わりに、明日の朝食はあの『黄金ハチミツ』をたっぷり使ったパンケーキを焼いてくださること!」


「……ああ、約束しよう。……貴殿が『もう食べられません』と泣き言を言うまで、焼き続けてやる」


「それは一生無理な相談ですわね!」


二人の笑い声が、夜のバルコニーに溶けていった。


遠く王都の不遇な生活など、もはや二人の意識には存在しない。


ここにあるのは、究極の信頼と、無限の食欲。そして、これから始まる「最高のフルコース」のような新生活への期待だけだった。


「……さて。ヴィンセント様。契約が成立したところで……このポートワインに合う、極上のブルーチーズを今すぐ切り分けてきていただけます?」


「……了解した。……だが、その前に一口だけ、甘い口づけをデザートに頂いてもいいか?」


「あら、お上手になられましたわね。……毒味(テイスティング)くらいなら、して差し上げてもよろしくてよ?」


月明かりの下、二人の美食家は、生涯で最も甘い誓いを交わしたのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない

翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。 始めは夜会での振る舞いからだった。 それがさらに明らかになっていく。 機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。 おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。 そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

ギルド回収人は勇者をも背負う ~ボロ雑巾のようになった冒険者をおんぶしたら惚れられた~

水無月礼人
恋愛
 私は冒険者ギルド職員ロックウィーナ。25歳の女で担当は回収役。冒険者の落し物、遺品、時には冒険者自体をも背負います!  素敵な恋愛に憧れているのに培われるのは筋肉だけ。  しかし無駄に顔が良い先輩と出動した先で、行き倒れた美形剣士を背負ってから私の人生は一変。初のモテ期が到来です!!  ……とか思ってウハウハしていたら何やら不穏な空気。ええ!?  私の選択次第で世界がループして崩壊の危機!? そんな結末は認めない!!!! ※【エブリスタ】でも公開しています。  【エブリスタ小説大賞2023 講談社 女性コミック9誌合同マンガ原作賞】で優秀作品に選ばれました。

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

処理中です...