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リリアーヌへの「マッシュポテト百人組手」という名の再教育が終わり、嵐のような一日は幕を閉じた。
深夜。ハルバード領の静かなバルコニーで、カナメアは夜風に当たりながら、小皿に乗った「スモークナッツのキャラメリゼ」をポリポリと齧っていた。
「……ふぅ。誰かに無理やり食べさせるというのは、自分で食べるよりも体力を使いまわね。おかげで、また少しお腹が空いてしまいましたわ」
「……貴殿の胃袋には、時間という概念が存在しないようだな」
背後から響いた低い声に、カナメアは振り向かずに口を動かした。
「ヴィンセント様。……見てください、今夜は月がとても美味しそうなチーズの色をしていますわよ」
「……私にはただの月にしか見えんが、貴殿が言うならそうなのかもしれん」
ヴィンセントはカナメアの隣に並び、手にした銀のトレイを差し出した。そこには、二客のクリスタルグラスと、琥珀色の芳醇な香りを放つワインがあった。
「これ、地下貯蔵庫の最深部で眠っていた、五十年前のヴィンテージ・ポートワインではありませんか!」
「ああ。貴殿の働きへの報酬だ。……それと、少し落ち着いて話をしたいと思ってな」
カナメアは目を輝かせてグラスを受け取ると、まずはその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……っ! なんて官能的な香り。干し葡萄の甘みと、オーク樽の渋みが、まるで熟練の社交ダンスを踊っているようですわ!」
彼女が幸せそうに一口含んだのを確認してから、ヴィンセントは自分のグラスには手を付けず、真っ直ぐにカナメアを見つめた。
「カナメア殿。……今日の貴殿は、最高に美しかった」
「え? あ、やはりそうですか。私も、あの巨大スプーンを振り回している時のフォームには、多少の自信がありますのよ」
「……フォームの話ではない。……貴殿の、食に対する誠実さと、誇りの話だ」
ヴィンセントは一歩、カナメアとの距離を詰めた。夜の闇に、彼の熱を帯びた吐息が混ざる。
「私は、貴殿を『食の顧問』として雇った。だが、今の私は、貴殿をただの有能な部下として見ることができなくなっている」
「ヴィンセント様……? まさか、私の給料を食材ではなく、現金のみに変更したいと?」
「話を聞け。……そうではない」
ヴィンセントはカナメアの両肩を、大きな手でがっしりと掴んだ。
「私は、一生、私の隣で飯を食う女が欲しい。……いや、違うな。私は、貴殿に一生、私の隣で飯を食ってほしいのだ」
カナメアの咀嚼が、止まった。
「……ヴィンセント様。それはつまり……」
「そうだ。直球で言わせてもらう。……私は貴殿を愛している。一人の男として、一人の美食の共犯者として。貴殿のいない食卓など、もはや塩の入っていないスープと同じ。私の人生に、二度とそんな味気ない時間を持ち込みたくないのだ」
ヴィンセントの瞳には、一切の迷いも、照れもなかった。彼は戦場で敵の首を狙う時よりも真剣な眼差しで、カナメアの返答を待っている。
「…………」
カナメアは沈黙した。あまりの直球な言葉に、流石の彼女も胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ヴィンセント様。……一つ、確認してもよろしいでしょうか?」
「何だ。どんな条件でも聞こう。領地の予算をすべて厨房に回してもいい」
「いいえ。……私と結婚するということは、私の『おかわり』に、生涯付き合わなければならないということですわよ?」
カナメアは、いたずらっぽく、しかし潤んだ瞳でヴィンセントを見上げた。
「私が真夜中に『揚げ物が食べたい』と言い出しても、一緒に揚げてくださいますか? 旅先で私が全メニュー制覇を狙っても、笑顔で支払いをしてくださいますか?」
「……それだけか? そんなものは契約条件にすら入らん、当然の前提だ。……なんなら、私が貴殿の口に運んでやってもいい。貴殿が満足するまで、何度でもな」
ヴィンセントの不器用な、しかし誠実な言葉に、カナメアはついに吹き出した。
「ふふ……あははは! 最高ですわ、ヴィンセント様! あなたこそ、私の胃袋と魂を委ねるに相応しい、唯一無二の騎士様ですわ!」
カナメアは空いた方の手で、ヴィンセントの首にしがみついた。
「謹んでお受けいたしますわ! ……ただし、婚約指輪の代わりに、明日の朝食はあの『黄金ハチミツ』をたっぷり使ったパンケーキを焼いてくださること!」
「……ああ、約束しよう。……貴殿が『もう食べられません』と泣き言を言うまで、焼き続けてやる」
「それは一生無理な相談ですわね!」
二人の笑い声が、夜のバルコニーに溶けていった。
遠く王都の不遇な生活など、もはや二人の意識には存在しない。
ここにあるのは、究極の信頼と、無限の食欲。そして、これから始まる「最高のフルコース」のような新生活への期待だけだった。
「……さて。ヴィンセント様。契約が成立したところで……このポートワインに合う、極上のブルーチーズを今すぐ切り分けてきていただけます?」
「……了解した。……だが、その前に一口だけ、甘い口づけをデザートに頂いてもいいか?」
「あら、お上手になられましたわね。……毒味(テイスティング)くらいなら、して差し上げてもよろしくてよ?」
月明かりの下、二人の美食家は、生涯で最も甘い誓いを交わしたのである。
深夜。ハルバード領の静かなバルコニーで、カナメアは夜風に当たりながら、小皿に乗った「スモークナッツのキャラメリゼ」をポリポリと齧っていた。
「……ふぅ。誰かに無理やり食べさせるというのは、自分で食べるよりも体力を使いまわね。おかげで、また少しお腹が空いてしまいましたわ」
「……貴殿の胃袋には、時間という概念が存在しないようだな」
背後から響いた低い声に、カナメアは振り向かずに口を動かした。
「ヴィンセント様。……見てください、今夜は月がとても美味しそうなチーズの色をしていますわよ」
「……私にはただの月にしか見えんが、貴殿が言うならそうなのかもしれん」
ヴィンセントはカナメアの隣に並び、手にした銀のトレイを差し出した。そこには、二客のクリスタルグラスと、琥珀色の芳醇な香りを放つワインがあった。
「これ、地下貯蔵庫の最深部で眠っていた、五十年前のヴィンテージ・ポートワインではありませんか!」
「ああ。貴殿の働きへの報酬だ。……それと、少し落ち着いて話をしたいと思ってな」
カナメアは目を輝かせてグラスを受け取ると、まずはその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……っ! なんて官能的な香り。干し葡萄の甘みと、オーク樽の渋みが、まるで熟練の社交ダンスを踊っているようですわ!」
彼女が幸せそうに一口含んだのを確認してから、ヴィンセントは自分のグラスには手を付けず、真っ直ぐにカナメアを見つめた。
「カナメア殿。……今日の貴殿は、最高に美しかった」
「え? あ、やはりそうですか。私も、あの巨大スプーンを振り回している時のフォームには、多少の自信がありますのよ」
「……フォームの話ではない。……貴殿の、食に対する誠実さと、誇りの話だ」
ヴィンセントは一歩、カナメアとの距離を詰めた。夜の闇に、彼の熱を帯びた吐息が混ざる。
「私は、貴殿を『食の顧問』として雇った。だが、今の私は、貴殿をただの有能な部下として見ることができなくなっている」
「ヴィンセント様……? まさか、私の給料を食材ではなく、現金のみに変更したいと?」
「話を聞け。……そうではない」
ヴィンセントはカナメアの両肩を、大きな手でがっしりと掴んだ。
「私は、一生、私の隣で飯を食う女が欲しい。……いや、違うな。私は、貴殿に一生、私の隣で飯を食ってほしいのだ」
カナメアの咀嚼が、止まった。
「……ヴィンセント様。それはつまり……」
「そうだ。直球で言わせてもらう。……私は貴殿を愛している。一人の男として、一人の美食の共犯者として。貴殿のいない食卓など、もはや塩の入っていないスープと同じ。私の人生に、二度とそんな味気ない時間を持ち込みたくないのだ」
ヴィンセントの瞳には、一切の迷いも、照れもなかった。彼は戦場で敵の首を狙う時よりも真剣な眼差しで、カナメアの返答を待っている。
「…………」
カナメアは沈黙した。あまりの直球な言葉に、流石の彼女も胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ヴィンセント様。……一つ、確認してもよろしいでしょうか?」
「何だ。どんな条件でも聞こう。領地の予算をすべて厨房に回してもいい」
「いいえ。……私と結婚するということは、私の『おかわり』に、生涯付き合わなければならないということですわよ?」
カナメアは、いたずらっぽく、しかし潤んだ瞳でヴィンセントを見上げた。
「私が真夜中に『揚げ物が食べたい』と言い出しても、一緒に揚げてくださいますか? 旅先で私が全メニュー制覇を狙っても、笑顔で支払いをしてくださいますか?」
「……それだけか? そんなものは契約条件にすら入らん、当然の前提だ。……なんなら、私が貴殿の口に運んでやってもいい。貴殿が満足するまで、何度でもな」
ヴィンセントの不器用な、しかし誠実な言葉に、カナメアはついに吹き出した。
「ふふ……あははは! 最高ですわ、ヴィンセント様! あなたこそ、私の胃袋と魂を委ねるに相応しい、唯一無二の騎士様ですわ!」
カナメアは空いた方の手で、ヴィンセントの首にしがみついた。
「謹んでお受けいたしますわ! ……ただし、婚約指輪の代わりに、明日の朝食はあの『黄金ハチミツ』をたっぷり使ったパンケーキを焼いてくださること!」
「……ああ、約束しよう。……貴殿が『もう食べられません』と泣き言を言うまで、焼き続けてやる」
「それは一生無理な相談ですわね!」
二人の笑い声が、夜のバルコニーに溶けていった。
遠く王都の不遇な生活など、もはや二人の意識には存在しない。
ここにあるのは、究極の信頼と、無限の食欲。そして、これから始まる「最高のフルコース」のような新生活への期待だけだった。
「……さて。ヴィンセント様。契約が成立したところで……このポートワインに合う、極上のブルーチーズを今すぐ切り分けてきていただけます?」
「……了解した。……だが、その前に一口だけ、甘い口づけをデザートに頂いてもいいか?」
「あら、お上手になられましたわね。……毒味(テイスティング)くらいなら、して差し上げてもよろしくてよ?」
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