婚約破棄? ありがとうございます、今日から廃業いたします

萩月

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「……リリアン。すまないが、この書類の束を日付順に並べ替えてくれないか?」


王宮の一室、かつてディアナが「第2執務室」として使っていた部屋。


ウィルフレイド様は、机の上に積み上がった膨大な書類を前に、引き攣った笑顔でリリアンに助けを求めた。


「えぇ~? ウィル様ぁ、私、数字を見ると頭が痛くなっちゃうんですぅ。これ、全部アリさんの行進に見えませんかぁ?」


「アリ……。いや、これは来月の収穫祭に向けた予算案なのだが。アリではなく、金貨の動きだと思って頑張ってくれないか?」


「無理ですぅ! そんな難しいことより、見てくださいウィル様! さっき庭で見つけたんです、ハートの形の葉っぱ! これ、私たちの愛の印ですよぉ!」


リリアンは、泥のついた葉っぱを王子の鼻先に突きつけて、可憐に小首を傾げた。


いつもなら「なんて可愛らしいんだ」と鼻の下を伸ばす王子だったが、今の彼の目には、その葉っぱが「仕事の邪魔をする異物」にしか見えなかった。


「……リリアン。愛は大切だが、この予算案が通らないと、収穫祭で君が食べたがっていた『超特大シュークリーム』の屋台が出せなくなるんだぞ?」


「えっ!? それは困りますぅ! どうにかしてくださいよぉ、ウィル様は王子様なんですから、魔法とかでパパパーッと!」


「魔法で予算は増えないんだ。……ああ、ディアナなら、私が言い終わる前に仕分けを済ませ、ついでに無駄な経費を三割カットしてくれていたのに……」


ポロリとこぼれた本音に、リリアンが頬を膨らませた。


「ひどいですぅ! またディアナ様のこと! あんな怖い顔の人、忘れてくださいって言ったじゃないですかぁ!」


「わ、忘れている! 忘れているとも! ただ、彼女の『機能性』を思い出していただけだ!」


「機能性ってなんですかぁ! 私には『可愛さ』っていう、世界で一番大事な機能があるんですよぉ?」


「……それは、そうだな。うん、確かにリリアンは可愛い」


王子は力なく頷き、再びペンを握った。


しかし、書かなければならない書類は減るどころか、先ほどから次々と届けられる報告書によって増え続けている。


コンコン、と部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。


「失礼いたします、殿下。……ディアナ様が担当されていた『外交官夫人たちの茶話会』の座席表ですが、どなたが作成されますか?」


入ってきた侍従が、困り果てた顔で尋ねる。


「座席表? そんなもの、適当に座ってもらえばいいだろう」


「そうはいきません! あの方々は、席順一つで国家間の摩擦を引き起こすほどプライドが高いのです! 以前はディアナ様が、全員の家系図と派閥、直近の体調まで考慮して完璧に配置してくださっていたのですが……」


「……家系図に、派閥だと? そんなものを把握しているのか、あいつは」


「はい。さらに、各夫人の好みの茶葉と、アレルギーのある食材まで網羅したリストも作成されていました。現在、そのリストの所在が分からず、厨房もパニックになっております」


王子のペンが、ピタリと止まった。


「……リリアン。君、外交官夫人たちの派閥とか、わかるか?」


「はぁい? 外交……? がいこーって、お外に行くことですかぁ? 私、ピクニックなら大好きですぅ!」


「…………」


ウィルフレイド様は、そっと天を仰いだ。


窓の外には、今日も美しい青空が広がっている。


きっと今頃、ディアナは公爵邸で、誰に邪魔されることもなく優雅に茶をしばいているのだろう。


「ディアナ……。君は、こんな面倒なことを毎日一人でこなしていたのか……?」


「ウィル様ぁ? お腹空いちゃいましたぁ! あ、さっきの葉っぱ、天ぷらにしたら食べられませんかねぇ?」


「リリアン、それは流石に止めておけ。……誰か! カイル・アシュフォードを呼んでくれ! 今すぐだ!」


「カイル様なら、ディアナ様の監視(という名の休暇同行)のために、公爵邸に詰め切っておりますが……」


「なんだと!? あいつ、職務放棄か!? ずるいぞ! 私だってディアナの……いや、公爵邸に行きたい!」


「殿下、書類がまだ半分も終わっておりません」


「うあああ! ディアナぁ! 一度だけでいい、一度だけでいいから戻ってきてくれぇ!」


王子の悲痛な叫びが執務室に空虚に響いたが、それに応える者は誰もいなかった。


一方その頃、グラナート公爵邸では。


「……あら、なんだか急に耳が痒いわ。誰かが私の悪口でも言っているのかしら」


ベッドの上でポテトチップスを齧っていたディアナが、暢気に耳を掻いていた。


「気のせいでしょう。それよりディアナ様、その油のついた手で枕を触らないでください。洗濯する身にもなってください」


「嫌よ。洗濯はセバスの仕事でしょう? 私は今日、徹底的に『行儀の悪い女』を楽しむのよ」


「……。今のあなたを王子が見たら、百回は気絶するでしょうね」


カイルの呆れ顔すら、今のディアナには最高のスパイスだった。


「定休日」を満喫する者と、そのツケを払わされる者。


運命の歯車は、ディアナが望んだ通り、愉快な音を立てて狂い始めていた。
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