婚約破棄? ありがとうございます、今日から廃業いたします

萩月

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「……カイル。一つ確認してもいいかしら」


私は、アシュフォード侯爵邸の、私のために新設されたという部屋の入り口で立ち尽くした。


「なんだ。何か気に入らない点でもあるか? 壁紙の色、あるいは床の柔らかさか」


「いいえ。……なぜ、ベッドから手の届く範囲に、すべてのライフラインが集中しているのかしら」


目の前に広がるのは、もはや「部屋」という概念を超越した、究極の「廃人養成ポッド」だった。


中央には、雲を固めて作ったのではないかと疑いたくなるような巨大なキングサイズベッド。


その周囲には、寝たまま指一本で操作できる「全自動本棚」や、常に適温の紅茶が湧き出る「魔導式給茶機」が完備されている。


さらには、私の手の動きに合わせて自動で角度を変える「読書用アーム」まで備え付けられていた。


「カイル。これ、私をここから二度と出さないつもりでしょう?」


「心外だな。君が『定休日を極めたい』と言ったから、私が持てる限りの事務処理能力と予算を投じて、最も効率的な『怠惰の聖域』を設計しただけだ」


カイルは眼鏡をクイと押し上げ、どこか誇らしげに胸を張った。


「見てみろ。そのベッドの横のレバーを引けば、キッチンから直送された『本日の軽食』がスライド式で現れる。君は咀嚼以外、一切の運動を必要としない」


「……。あなた、宰相としての才能を完全に無駄遣いしているわね」


私は呆れつつも、吸い寄せられるようにベッドへとダイブした。


「……っ!? なにこれ、最高。体が……溶ける……地面に吸い込まれていくわ……」


「だろう? スライムの核から抽出した弾力成分と、幻獣の産毛をブレンドした特注マットだ。一晩寝れば、前世……いや、今までの疲れがすべて霧散するぞ」


カイルがさらりと危ない単語を口にしそうになったが、私は快楽のあまり聞き逃した。


そこへ、小脇に分厚いバインダーを抱えたリリアンが、弾んだ足取りで入ってきた。


「お師匠様! 入居おめでとうございますわ! 早速ですが、本日の『ダラダラ・スケジュール』の最終確認をお願いします!」


「……リリアン。あなた、いつの間にカイルとそんなに仲良くなったの?」


「仲良くなったのではありません、利害が一致したのですわ! カイル様が仕事に集中し、お師匠様が快適に寝る。そのための兵站(ロジスティクス)を支えるのが、私の使命ですもの!」


リリアンは、バインダーを颯爽と開いた。


「十一時四十五分、起床と同時にアロマミスト噴射。十二時、ベッド上でのブランチ。十三時、読書タイム。……なお、三時のおやつは、私が厳選した『王都で一番並ぶのが面倒なタルト』をご用意しておりますわ!」


「……並ぶのが面倒なものほど美味しいのよね。わかってるじゃない、リリアン」


「もちろんですわ! 私が『宰相補佐官』の権限をフルに使って、騎士団の非番の者たちを並ばせ……いえ、ボランティアを募りましたから!」


「……。君たち、権力の私物化も大概にしておけよ」


カイルが呆れたように言ったが、その手には既に、私と一緒に食べるためのフォークが握られていた。


「さて、ディアナ。これで君の『真の定休日』は完成した。……どうだ、満足か?」


私は、フカフカの毛布に包まり、カイルを見上げた。


「ええ。……でも、カイル。一つだけ足りないものがあるわ」


「なんだ? 足りない設備があるなら、今すぐ工兵隊を呼ぶが」


「いいえ。……あなたが、まだそこに立っていることよ」


私はベッドの半分をポンポンと叩いた。


「……。……。ディアナ。私はまだ、山のような書類が……」


「リリアン。カイルの仕事、あとどれくらい残っているの?」


リリアンは、バインダーをパラパラとめくり、不敵に微笑んだ。


「カイル様、ご安心を。重要度の低いものはすべて私が『不可抗力による遅延』として処理済みです。あと三十分は、お師匠様の隣で『無』になっても、国は滅びませんわ!」


「……。……優秀すぎて、恐ろしいな、君は」


カイルは諦めたように溜息をつき、上着を脱いでベッドの端に腰を下ろした。


「……いいのか、ディアナ。私は仕事の話しかできないぞ」


「いいわよ。あなたの声は、私にとって最高の睡眠導入剤だもの」


「……。それは喜んでいいのか、複雑だな」


カイルは私の隣に横たわり、慣れない手つきで私の髪を優しく撫でた。


窓からは穏やかな風が入り、部屋の中には完璧な幸福が満ちている。


誰にも邪魔されない。誰の期待にも応えなくていい。


ただ、愛する人と共に、静かに時間が過ぎるのを待つ。


「……おやすみなさい、カイル」


「……ああ。おやすみ、ディアナ」


私の「定休日」は、ここからが本番。


世界で一番有能な管理者たちに守られながら、私はどこまでも深い、贅沢な眠りへと落ちていった。
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