婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……ふあぁ」

暖かな陽光が降り注ぐ、辺境伯城の中庭。

私は特注のガーデンチェア(角度調節機能付き)に寝そべり、大きくあくびをした。

膝の上には読みかけの本。サイドテーブルには、氷がカランと音を立てるフルーツティー。

「平和……これぞ、私の求めていた究極の『凪』です」

あれから四年。

私は有言実行通り、この辺境の地で「有能な怠け者」としての地位を確立していた。

「奥様、失礼いたします」

そこへ、執事のセバスが恭しく現れた。

「……セバス。私の計算では、今の時間は『昼寝タイム』としてスケジュールに組み込まれていたはずですが?」

「申し訳ございません。ですが、緊急の決裁が必要な書類がございまして」

セバスは銀の盆に乗せた書類の束を差し出した。

「冬越しの備蓄計画の最終承認と、王都からの新規貿易ルートの許可証です」

「……チッ」

私は舌打ち(優雅に)をした。

「貸して。……ペンは?」

「こちらに」

私は書類を受け取り、内容を一瞥する。

(……備蓄量は人口増加率を考慮して五%増し。貿易ルートは関税の計算が甘い……)

「ここ、修正。関税はこっちの負担じゃなくて、相手持ちにさせる条項を追加して。あと、備蓄の倉庫番のシフト、効率が悪いわ。A班とB班を入れ替えて休憩時間を確保しなさい」

サラサラと赤ペンを走らせ、最後にサインをする。

「……はい、終わり。所要時間三分」

「素晴らしい。……神速の処理能力、恐れ入ります」

セバスは深々と頭を下げた。

「これでまた、私の安眠は守られましたね?」

「はい。……ですが、もう一つご報告が」

「まだあるの?」

「いえ、業務ではなく……お客様です」

セバスが視線を向けた先。

回廊から、一人の小さな男の子がトテトテと歩いてくるところだった。

黒髪に、紫紺の瞳。

ジェイド様のミニチュア版のようなその子は、私の前まで来るとピタリと足を止めた。

「……母上」

「どうしました、リアム」

私の息子、リアム(三歳)。

彼は私の顔をじっと見上げ、真顔で言った。

「抱っこを所望します」

「……自分で歩けますよね?」

「歩行はエネルギーを消費します。父上が『リアムは母上に似て賢いから、一番楽な方法を知っている』と言っていました」

「……ジェイド様の教育方針、後で問い詰める必要がありますね」

私はため息をつきつつ、手を差し出した。

「おいで。……今回だけですよ」

「感謝します」

リアムは私の膝によじ登ると、コアラのようにしがみつき、即座に目を閉じた。

「……zzz」

「寝るのが早いですね……。そこも私に似てしまったのかしら」

私は息子の背中をポンポンと叩きながら、苦笑した。

「――おや、先客がいたか」

そこへ、本物のジェイド様が現れた。

四年前と変わらぬ、いや、少し貫禄を増してより精悍になった夫。

彼は私たちを見て、目尻を下げた。

「最高の絵画だな。……俺の宝物が二つ、重なっている」

「重いです。貴方の息子さん、最近お菓子を食べ過ぎて体重が増加傾向にあります」

「幸せの重みだと思って我慢しろ」

ジェイド様は私の隣の椅子に腰掛け、リアムの頭を撫でた。

「仕事は終わったのか?」

「ええ。セバスに渡しました。……これで午後はフリーです」

「さすがだな。……おかげで、領地の財政は過去最高益だ。王都の貴族たちが『辺境に行けば黄金が拾える』と噂しているらしい」

「迷惑な噂ですね。……人が増えると騒がしくなります」

私はフルーツティーを一口飲んだ。

「王都といえば……カイル殿下は?」

「ああ、手紙が来ていたぞ」

ジェイド様は苦笑しながら、一通の封筒を取り出した。

「『国王になってから、休みが一日もない! イーロアの提唱した「昼寝義務化法案」を通したいのに、審議する時間がなくて寝られない! これはパラドックスだ!』……だそうだ」

「……相変わらずですね」

カイル殿下は昨年、正式に国王に即位した。

「聖君」として国民の人気は高いが、その裏ではリリィ(現在は王室筆頭メイド兼影の護衛長)に尻を叩かれながら、激務に追われているらしい。

「リリィからの追伸もあるぞ。『陛下が逃亡しないよう、執務室のドアを溶接しました♡』」

「……あの子も相変わらずですね」

遠い王都の空の下、涙目で書類に向かうカイル国王の姿が目に浮かぶようだ。

「……私たちは、ここでのんびりできて幸せですね」

「ああ。……君のおかげだ」

ジェイド様は私の肩に手を回した。

「君がこの領地に来てくれて、効率化してくれたおかげで、俺もこうして昼下がりに家族と過ごせる」

「……私は、自分が楽をしたかっただけです」

「知っている。……だが、結果としてみんなが幸せになった」

彼は私の頬にキスをした。

「『有能な怠け者』は、働き者の救世主だ」

「……褒め言葉として受け取っておきます」

膝の上で、リアムが「んぅ……父上、くすぐったいです」と寝言を言った。

風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。

静かで、穏やかで、満ち足りた時間。

かつて私が夢見た「何もしない生活」とは少し違うけれど。

(……まあ、悪くないわね)

愛する夫がいて、可愛い(けど合理的な)息子がいて、美味しいおやつがあって、いつでも昼寝ができる環境がある。

これ以上の「幸福」が、どこにあるだろう。

「……ジェイド様」

「ん?」

「私、今、とても効率的に幸せです」

ジェイド様は目を丸くし、それから声を上げて笑った。

「ははは! 君らしい表現だ」

彼は私の手を握りしめた。

「俺もだ、イーロア。……世界一、効率的に愛してる」

私は微笑み、夫の肩に頭を預けた。

そして、膝の上の息子と共に、心地よい午後の微睡みへと落ちていった。

元・悪役令嬢イーロア。

彼女の戦いは終わった。

これからは、この辺境の地で、愛する家族と共に、全力で、有能に、怠け続けることだろう。

それが、彼女の見つけた「幸福論」なのだから。
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