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「着いたわ! ここが私の自由という名のキャッスルね!」
馬車から飛び出したジョアンは、目の前の古い別荘を見上げて両手を広げた。
南の領地の端にあるこの屋敷は、手入れこそ行き届いていないが、潮風と緑の香りに包まれている。
「お嬢様、キャッスルと言うには少し……いえ、かなり埃っぽいですが」
ネルがトランクを抱えながら、冷ややかな視線を建物に向けた。
「いいのよ、ネル! この埃の一つ一つが、私が勝ち取った自由の証なの! さあ、掃除なんて後回し。まずはこの土地の『ハッピー』を調査しにいくわよ!」
「調査、ですか?」
「市場よ! 決まっているじゃない。地元の人たちが何を食べて、どんなふうに笑っているのかを知らなければ、私の第二章は始まらないわ」
ジョアンはネルが止める間もなく、着ていた派手な上着を脱ぎ捨て、シンプルなブラウス姿で走り出した。
もはや公爵令嬢としての矜持は、王都のゴミ箱に捨ててきたようである。
市場は、王都のそれとは比べものにならないほど活気と熱気に溢れていた。
飾り気のない話し声、焼きたてのパンの香り、色鮮やかな果物。
「素晴らしいわ……! 誰も私のことを『悪役令嬢』なんて呼ばない。ただの『お腹を空かせたお姉ちゃん』として扱ってくれるなんて!」
「お嬢様、それは単に身なりが崩れすぎて、身分がバレていないだけです。……あ、お嬢様! どこへ行くんですか!」
ジョアンの鼻が、甘く香ばしい香りを捉えた。
人だかりができている屋台。そこには、この街で一番人気だという『特製ベリークレープ』の看板が出ていた。
「限定十個……。そして、最後の一個……!」
ジョアンの目が獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
彼女は人混みをかき分け、財布を握りしめて突撃する。
「店主さん! その最後のクレープ、私がいただくわ!」
「おう、お嬢ちゃん、間一髪……と言いたいところだが」
店主の視線は、ジョアンではなく、彼女の背後に向けられた。
そこには、まるで周囲の空気を凍りつかせるような、圧倒的な威圧感を放つ影があった。
「……それは、俺が先に目を付けていた」
低く、地響きのような声。
ジョアンが振り返ると、そこには黒い軍服に身を包んだ、背の高い男が立っていた。
鋭い眼光、頬にある薄い傷跡、そして「人を十人くらいは素手で倒してきました」と言わんばかりの強面。
「ひっ……!」
周囲の客たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ネルでさえ、一歩後ろに下がって警戒態勢に入った。
だが、ジョアンだけは違った。
「あら、偶然ね。私も三秒前から、これを私のハッピーエンドの糧にすると決めていましたの」
「……なんだと?」
男――ギルバートは、眉間に深い皺を刻んだ。
普通の人間なら、彼のこの顔を見ただけで泣いて謝るか、腰を抜かすはずだ。
しかし、目の前の少女は退くどころか、クレープの鉄板を死守するように立ちはだかっている。
「譲りませんわよ。私は昨日、人生の大きな一区切りをつけて、自分へのご褒美が必要なんです。このクレープがないと、私の第二章がバッドエンドで始まってしまいますもの!」
「知るか。……俺も、一週間続いた山岳演習を終えたばかりだ。この糖分なしでは、部下に八つ当たりしかねん」
「まあ、それは自分勝手な理屈ですわね! 部下の方がお気の毒ですわ!」
「貴様に言われたくない」
二人の間に、火花が散る。
店主は震えながら、最後の一枚のクレープをどちらに出すべきか困り果てていた。
「お、お二人さん……仲良く半分こにするってのは……」
「「それは嫌(お断りだ)!!」」
声が綺麗に重なった。
ギルバートは、自分に怯えもせず食ってかかるジョアンを、まじまじと見つめた。
こんな女は、戦場にも社交界にもいなかった。
「……貴様、名は?」
「名乗るほどの者ではありませんわ。ただの、クレープを愛するハッピーエンド至上主義者です。あなたは?」
「……ギルバートだ」
「あら、ギルバートさん。強そうな名前ですけれど、クレープ一枚で女の子を泣かせるような器ではありませんわよね?」
ジョアンは、あざといくらいの笑顔を作って見せた。
ギルバートの頬が、わずかに引きつる。
この出会いが、王国の命運を左右する大将軍と、婚約破棄された公爵令嬢の運命を変えることになるのだが――
今の二人にとっては、目の前のクレープこそが世界のすべてだった。
馬車から飛び出したジョアンは、目の前の古い別荘を見上げて両手を広げた。
南の領地の端にあるこの屋敷は、手入れこそ行き届いていないが、潮風と緑の香りに包まれている。
「お嬢様、キャッスルと言うには少し……いえ、かなり埃っぽいですが」
ネルがトランクを抱えながら、冷ややかな視線を建物に向けた。
「いいのよ、ネル! この埃の一つ一つが、私が勝ち取った自由の証なの! さあ、掃除なんて後回し。まずはこの土地の『ハッピー』を調査しにいくわよ!」
「調査、ですか?」
「市場よ! 決まっているじゃない。地元の人たちが何を食べて、どんなふうに笑っているのかを知らなければ、私の第二章は始まらないわ」
ジョアンはネルが止める間もなく、着ていた派手な上着を脱ぎ捨て、シンプルなブラウス姿で走り出した。
もはや公爵令嬢としての矜持は、王都のゴミ箱に捨ててきたようである。
市場は、王都のそれとは比べものにならないほど活気と熱気に溢れていた。
飾り気のない話し声、焼きたてのパンの香り、色鮮やかな果物。
「素晴らしいわ……! 誰も私のことを『悪役令嬢』なんて呼ばない。ただの『お腹を空かせたお姉ちゃん』として扱ってくれるなんて!」
「お嬢様、それは単に身なりが崩れすぎて、身分がバレていないだけです。……あ、お嬢様! どこへ行くんですか!」
ジョアンの鼻が、甘く香ばしい香りを捉えた。
人だかりができている屋台。そこには、この街で一番人気だという『特製ベリークレープ』の看板が出ていた。
「限定十個……。そして、最後の一個……!」
ジョアンの目が獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
彼女は人混みをかき分け、財布を握りしめて突撃する。
「店主さん! その最後のクレープ、私がいただくわ!」
「おう、お嬢ちゃん、間一髪……と言いたいところだが」
店主の視線は、ジョアンではなく、彼女の背後に向けられた。
そこには、まるで周囲の空気を凍りつかせるような、圧倒的な威圧感を放つ影があった。
「……それは、俺が先に目を付けていた」
低く、地響きのような声。
ジョアンが振り返ると、そこには黒い軍服に身を包んだ、背の高い男が立っていた。
鋭い眼光、頬にある薄い傷跡、そして「人を十人くらいは素手で倒してきました」と言わんばかりの強面。
「ひっ……!」
周囲の客たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ネルでさえ、一歩後ろに下がって警戒態勢に入った。
だが、ジョアンだけは違った。
「あら、偶然ね。私も三秒前から、これを私のハッピーエンドの糧にすると決めていましたの」
「……なんだと?」
男――ギルバートは、眉間に深い皺を刻んだ。
普通の人間なら、彼のこの顔を見ただけで泣いて謝るか、腰を抜かすはずだ。
しかし、目の前の少女は退くどころか、クレープの鉄板を死守するように立ちはだかっている。
「譲りませんわよ。私は昨日、人生の大きな一区切りをつけて、自分へのご褒美が必要なんです。このクレープがないと、私の第二章がバッドエンドで始まってしまいますもの!」
「知るか。……俺も、一週間続いた山岳演習を終えたばかりだ。この糖分なしでは、部下に八つ当たりしかねん」
「まあ、それは自分勝手な理屈ですわね! 部下の方がお気の毒ですわ!」
「貴様に言われたくない」
二人の間に、火花が散る。
店主は震えながら、最後の一枚のクレープをどちらに出すべきか困り果てていた。
「お、お二人さん……仲良く半分こにするってのは……」
「「それは嫌(お断りだ)!!」」
声が綺麗に重なった。
ギルバートは、自分に怯えもせず食ってかかるジョアンを、まじまじと見つめた。
こんな女は、戦場にも社交界にもいなかった。
「……貴様、名は?」
「名乗るほどの者ではありませんわ。ただの、クレープを愛するハッピーエンド至上主義者です。あなたは?」
「……ギルバートだ」
「あら、ギルバートさん。強そうな名前ですけれど、クレープ一枚で女の子を泣かせるような器ではありませんわよね?」
ジョアンは、あざといくらいの笑顔を作って見せた。
ギルバートの頬が、わずかに引きつる。
この出会いが、王国の命運を左右する大将軍と、婚約破棄された公爵令嬢の運命を変えることになるのだが――
今の二人にとっては、目の前のクレープこそが世界のすべてだった。
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