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「……ほう。俺の顔を見て、一歩も引かない女は初めてだ」
ギルバートが低い声で唸るように言った。
彼の周囲からは、物理的な圧力を感じるほどの「威圧感」が立ち上っている。
近くの屋台の店主は、すでに死んだふりをしてカウンターの下に隠れていた。
「あら、引く理由がどこにありますの? あなたの顔は確かに少々怖いですけれど、クレープを焼く鉄板よりは熱くありませんわ」
ジョアンは平然と言い放ち、腰に手を当てた。
「それに、ギルバートさん。そんなに眉間に皺を寄せていたら、せっかくのクレープも酸っぱくなってしまいますわよ。甘いものは、笑顔で迎えるのがマナーですわ」
「……マナーだと? 戦場にそんなものはない」
「ここは市場です。戦場ではありませんわ。もしここを戦場にしたいのなら、まずはその軍服を脱いで、エプロンでも着てから仰ることね!」
「なっ……」
ギルバートの絶句する顔。
背後で控えていたネルが、そっとジョアンの袖を引いた。
「お嬢様、さすがに失礼すぎます。あの、ギルバート様……でしたか。申し訳ありません、主人は今、極度の糖分不足で少々錯乱しておりまして」
「ネル、余計なフォローはいらないわ。私は至って冷静よ。……さあ、店主さん! 早くそのクレープを私に!」
「い、いや、お嬢ちゃん、そうは言っても……この旦那の目が……」
店主が震える手で指さした先には、燃え盛る炎のような瞳でジョアンを凝視するギルバートがいた。
「……貴様、名は名乗らないと言ったな。だが、その喋り方。ただの町娘ではないだろう」
「そう見えます? 今はただの、家出中……いえ、自分探しの旅に出ている自由人ですわ」
「自分探し……。その割には、食欲という自分の欲求を完璧に見つけているようだが」
「あら、失礼ね。食欲は生きる基本ですわ。美味しいものを食べて幸せになる。これこそが全人類共通のハッピーエンドではありませんか?」
ギルバートは、ふっと鼻で笑った。
それは嘲笑というよりも、呆れ果てて乾いた笑いに近かった。
「ハッピーエンドか。そんな浮ついた言葉、俺の人生には一度も登場したことがないな。現実は常に泥にまみれ、血に濡れたバッドエンドの積み重ねだ」
ジョアンは、その言葉を聞いてぴたりと動きを止めた。
そして、ギルバートの顔をじっと見つめる。
「……なんですの、その悲劇のヒーローぶった台詞は」
「何だと?」
「人生が泥まみれなのは、あなたが泥の中ばかり歩いているからですわ。たまには舗装された道を歩いて、クレープのことだけを考えてみたらどうです? ほら、この匂い。ベリーの甘酸っぱい香りが、あなたの乾いた魂を潤そうとしていますわよ」
ジョアンは強引に店主からクレープの包みを受け取ろうとしたが、ギルバートの大きな手がそれを阻んだ。
「待て。正論で煙に巻こうとしても無駄だ。これは俺が先に注文……しようとしていた」
「『しようとしていた』のは、注文したことにはなりませんわ! 私の『ください!』という言霊の方が、一秒速かったです!」
「……この、強欲令嬢め」
「なんとでも仰ってくださいな! クレープのためなら、悪役でも何でも演じてみせますわよ!」
二人の視線が、店主の持つ最後の一枚の上で激しく火花を散らす。
ギルバートは、自分に対してこれほどまでに図々しく、かつ論理的に(?)食ってかかる存在に、戸惑いを隠せなかった。
いつもなら、彼が黙って立つだけで道が開く。
いつもなら、彼が睨むだけで敵は武器を捨てる。
だというのに、目の前の少女は武器(財布)を握りしめたまま、一歩も引かずに自分を説教し始めたのだ。
「……わかった。そこまで言うなら、条件がある」
「条件? なんですの、決闘でも申し込みます? 受けて立ちますわよ、ジャンケンなら!」
「ジャンケンなどせん。……そのクレープ、半分にするという提案を、今なら受け入れてやってもいい」
「えっ」
ジョアンは目を丸くした。
先ほど、店主の提案を「お断りだ」と一蹴したのは彼の方だったはずだ。
「あら。ギルバートさん、案外話せる方なんですのね。てっきり、全部一人で抱え込まないと気が済まない、不器用な大男かと思っていましたわ」
「……余計な一言が多いぞ。嫌なら俺が全部買う」
「いえ、いただきます! 半分でもハッピー! 店主さん、カットしてくださいな!」
ジョアンの満面の笑みに、ギルバートはわずかに視線を逸らした。
冷酷な将軍として恐れられる彼が、市場の片隅で、見知らぬ少女とクレープを分け合う。
それは、彼の軍歴においても、ジョアンの令嬢人生においても、最大級の「想定外」の幕開けだった。
ギルバートが低い声で唸るように言った。
彼の周囲からは、物理的な圧力を感じるほどの「威圧感」が立ち上っている。
近くの屋台の店主は、すでに死んだふりをしてカウンターの下に隠れていた。
「あら、引く理由がどこにありますの? あなたの顔は確かに少々怖いですけれど、クレープを焼く鉄板よりは熱くありませんわ」
ジョアンは平然と言い放ち、腰に手を当てた。
「それに、ギルバートさん。そんなに眉間に皺を寄せていたら、せっかくのクレープも酸っぱくなってしまいますわよ。甘いものは、笑顔で迎えるのがマナーですわ」
「……マナーだと? 戦場にそんなものはない」
「ここは市場です。戦場ではありませんわ。もしここを戦場にしたいのなら、まずはその軍服を脱いで、エプロンでも着てから仰ることね!」
「なっ……」
ギルバートの絶句する顔。
背後で控えていたネルが、そっとジョアンの袖を引いた。
「お嬢様、さすがに失礼すぎます。あの、ギルバート様……でしたか。申し訳ありません、主人は今、極度の糖分不足で少々錯乱しておりまして」
「ネル、余計なフォローはいらないわ。私は至って冷静よ。……さあ、店主さん! 早くそのクレープを私に!」
「い、いや、お嬢ちゃん、そうは言っても……この旦那の目が……」
店主が震える手で指さした先には、燃え盛る炎のような瞳でジョアンを凝視するギルバートがいた。
「……貴様、名は名乗らないと言ったな。だが、その喋り方。ただの町娘ではないだろう」
「そう見えます? 今はただの、家出中……いえ、自分探しの旅に出ている自由人ですわ」
「自分探し……。その割には、食欲という自分の欲求を完璧に見つけているようだが」
「あら、失礼ね。食欲は生きる基本ですわ。美味しいものを食べて幸せになる。これこそが全人類共通のハッピーエンドではありませんか?」
ギルバートは、ふっと鼻で笑った。
それは嘲笑というよりも、呆れ果てて乾いた笑いに近かった。
「ハッピーエンドか。そんな浮ついた言葉、俺の人生には一度も登場したことがないな。現実は常に泥にまみれ、血に濡れたバッドエンドの積み重ねだ」
ジョアンは、その言葉を聞いてぴたりと動きを止めた。
そして、ギルバートの顔をじっと見つめる。
「……なんですの、その悲劇のヒーローぶった台詞は」
「何だと?」
「人生が泥まみれなのは、あなたが泥の中ばかり歩いているからですわ。たまには舗装された道を歩いて、クレープのことだけを考えてみたらどうです? ほら、この匂い。ベリーの甘酸っぱい香りが、あなたの乾いた魂を潤そうとしていますわよ」
ジョアンは強引に店主からクレープの包みを受け取ろうとしたが、ギルバートの大きな手がそれを阻んだ。
「待て。正論で煙に巻こうとしても無駄だ。これは俺が先に注文……しようとしていた」
「『しようとしていた』のは、注文したことにはなりませんわ! 私の『ください!』という言霊の方が、一秒速かったです!」
「……この、強欲令嬢め」
「なんとでも仰ってくださいな! クレープのためなら、悪役でも何でも演じてみせますわよ!」
二人の視線が、店主の持つ最後の一枚の上で激しく火花を散らす。
ギルバートは、自分に対してこれほどまでに図々しく、かつ論理的に(?)食ってかかる存在に、戸惑いを隠せなかった。
いつもなら、彼が黙って立つだけで道が開く。
いつもなら、彼が睨むだけで敵は武器を捨てる。
だというのに、目の前の少女は武器(財布)を握りしめたまま、一歩も引かずに自分を説教し始めたのだ。
「……わかった。そこまで言うなら、条件がある」
「条件? なんですの、決闘でも申し込みます? 受けて立ちますわよ、ジャンケンなら!」
「ジャンケンなどせん。……そのクレープ、半分にするという提案を、今なら受け入れてやってもいい」
「えっ」
ジョアンは目を丸くした。
先ほど、店主の提案を「お断りだ」と一蹴したのは彼の方だったはずだ。
「あら。ギルバートさん、案外話せる方なんですのね。てっきり、全部一人で抱え込まないと気が済まない、不器用な大男かと思っていましたわ」
「……余計な一言が多いぞ。嫌なら俺が全部買う」
「いえ、いただきます! 半分でもハッピー! 店主さん、カットしてくださいな!」
ジョアンの満面の笑みに、ギルバートはわずかに視線を逸らした。
冷酷な将軍として恐れられる彼が、市場の片隅で、見知らぬ少女とクレープを分け合う。
それは、彼の軍歴においても、ジョアンの令嬢人生においても、最大級の「想定外」の幕開けだった。
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