バッドエンドなんて一秒もいりませんわ!婚約破棄されても。

萩月

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「……ほう。今日はアップルパイか。それも、ただの林檎ではないな」


音もなくテラスの影から現れたギルバート様が、鼻先を微かに動かした。
もはや、彼は私の別荘を「軍の出先機関」か何かだと思っている節がある。


「お目が高いわ、大将軍様。これはこの領地でしか採れない『蜜蜂の吐息』という林檎を使った、特製パイですわよ。シナモンをあえて控えめにして、林檎の野生味を引き出してみましたの」


私は焼き立てのパイを、これ見よがしに空中で扇いだ。
香ばしいバターの匂いが、夕暮れの風に乗って彼の鼻腔を直撃する。


「……昨日、デニッシュを食べたばかりだ。連日の摂取は、兵の規律に反する」


「あら、規律? そんなもの、この黄金色のパイ生地の前では、ただの紙屑同然ですわ。さあ、食べたければこちらへ。交渉の時間ですわよ」


私はテーブルを指差し、不敵な笑みを浮かべた。
ギルバート様は、規律と食欲の間で三秒ほど葛藤したようだが、結局は重い腰を(というか全身の威圧感を)椅子に預けた。


「……交渉だと。貴様、俺を誰だと思っている。一国の将軍を、パイ一切れで動かせると思うなよ」


「一切れではありませんわ。この先、この街に隠された『禁断の甘味処リスト』を、定期的にお教えするという継続的なプランですわよ」


ギルバート様の瞳が、スッと細まった。
戦場での策謀を巡らせる時のような、鋭い光。
ターゲットは、林檎だ。


「……条件を聞こう、ジョゼフィーヌ」


「話が早くて助かりますわ。条件は一つ。私を、王宮の手から守ること。……特に、あのエドワード殿下が『ジョアン・ド・ラセール』を連れ戻そうと躍起になった時、全力で追い払っていただきたいのです」


ギルバート様は、冷めた紅茶に視線を落とした。


「……お前が、あの逃亡令嬢本人であることは、もはや隠すつもりもないのだな」


「あら、バレていました? まあ、庭師の娘にしては、私のジャガイモの剥き方がエレガントすぎましたわね」


「……ジャガイモは、ネルという侍女が剥いていたはずだ。お前は横で応援していただろう」


「細かいことはいいんですの! とにかく! 殿下は今、私が『生死の境を彷徨っている』という嘘を信じ込み、妙な罪悪感と執着を拗らせています。あの方がここへ来たら、私のハッピーエンド第二章が、ただのドロドロ愛憎劇に成り下がってしまいますわ!」


私は身を乗り出し、ギルバート様の大きな手を(勢いで)両手で握りしめた。


「お願いです、大将軍様! あなたのその『全人類を震え上がらせる顔』を、私の防波堤として貸してくださいな! 殿下が来たら、ただ無言で睨みつけるだけでいいんですの!」


ギルバート様は、私の手と、自分の手を見比べ、それから私の顔をじっと見つめた。
……相変わらず怖い。けれど、彼の耳元がわずかに赤くなっているのは、怒りのせいではないと私は確信している。


「……俺を、魔除けの置物か何かだと思っているのか」


「いいえ、最強の守護神ですわ! 見返りに、私はあなたに最高のハッピー(甘味)を約束します。……どうです? このアップルパイの契約書に、サインをいただけますかしら?」


私はパイを切り分け、彼のお皿にそっと置いた。
パイからはまだ、温かい湯気が立ち上っている。


「……。……。……わかった。契約成立だ」


ギルバート様はフォークを手に取ると、一切れのパイを口に運んだ。
その瞬間、彼の顔からスッと険しさが消え、溶けるような……いや、昇天するような、なんとも言えない「脱力した表情」が浮かんだ。


「……美味い。……林檎が、俺の胃袋を浄化していくようだ」


「ふふ。契約完了の味はいかが? 将軍様」


「……悪くない。……いや、最高だ。……ジョアン」


彼が、偽名ではなく、初めて私の本当の名前を呼んだ。
その声は、重低音ながらも、どこか優しく響いたような気がして、私の心臓がほんの少しだけ、変なリズムを刻んだ。


「……あ、あら。名前、教えていませんでしたのに」


「……公爵家から届いた手配書、俺がすべて握りつぶしておいた。お前の顔は、あれよりも実物の方が……よく動くからな」


「……褒め言葉として受け取っておきますわね」


こうして、私は最強の「用心棒」を手に入れた。
甘味で結ばれた、奇妙な主従関係。……あるいは、共犯関係。


私のハッピーエンド物語は、ここから加速する。
王子がどれだけ追いかけてこようと、私にはこの「甘党の魔王」がついているのだから!
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