婚約破棄? 喜んで! …その前に訂正を求めますわ!

萩月

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馬車のドアを閉めようとしたその瞬間でした。

「待てッ! 逃がさんと言っているだろう! ミルム、貴様は……貴様は、美しき白鳥の住まう清らかな池を泥で汚す、底なし沼のような女だッ!」

静まりかえった王宮の入り口に、セドリック殿下の絶叫が木霊しました。

私は、ドアを掴んでいた手を止めました。
そして、ゆっくりと、深い、深いため息をつきました。

「……ミルム嬢?」

隣でエスコートしようとしていたカイル殿下が、不思議そうに私を見つめます。

私は無言で馬車を降り、再び殿下の方へと歩き出しました。
私の顔には、おそらく「般若」のような笑みが浮かんでいたことでしょう。

「……殿下。今、何と仰いました?」

「ふ、ふん! 怯えたか! 貴様は清らかなリリィを苦しめる泥沼だと言ったのだ!」

私は殿下の目の前で立ち止まり、扇をピシャリと閉じました。

「殿下、私は貴方の『不適切な語彙の選択』および『修辞学における致命的なセンスの欠如』を、教育係として見過ごすわけには参りません」

「な、何だと……?」

「まず、その比喩は論理的に破綻しています。白鳥が住まう池に泥を投げ入れたとしても、泥は沈殿し、水は濾過されます。自然界における自浄作用を無視した発言ですわね。さらに言えば、私は『底なし沼』なのですか? それとも『泥』なのですか? 一つの文章の中に異なる性質のメタファーを混在させるのは、文章作法の初歩的なミスです」

周囲で見ていた貴族たちが、クスクスと笑い声を漏らし始めました。

「さらに、殿下。リリィ様を『白鳥』に例えるのも無理があります。白鳥は非常に縄張り意識が強く、気に入らない相手には激しく攻撃を仕掛ける、気性の荒い鳥ですわ。……ああ、なるほど。殿下に対して猫撫で声を出している彼女が、裏で私を陥れようとするその二面性を、白鳥の気性に例えたのですか? だとしたら、素晴らしい皮肉ですわね」

「ち、違う! 私はリリィが純真だと言いたいだけで……!」

「純真な白鳥など存在しません。そもそも、泥沼は動植物の死骸が堆積して豊かな栄養源となる場所。生命の循環には欠かせないものです。それを『悪』の象徴として使うのは、農業国家であるこの国の王子として、土壌に対する敬意が足りないと言わざるを得ませんわ」

「そんな細かいことを言っているんじゃない!」

殿下は顔を真っ赤にして叫びますが、周囲の野次は止まりません。

「……おい、聞いたか? 『土壌に対する敬意』だってよ」
「確かに。殿下の例え話は、いつも中身がスカスカだからな」
「ミルム様の仰る通りだ。比喩にもなっていない」

嘲笑の矛先が自分に向いていることに気づき、殿下はさらに取り乱します。

「だ、大体、貴様はいつもそうだ! 冷たくて、可愛げがなくて、まるで冬の北風のような女だ!」

「冬の北風。……ふふっ、またしても不適切な比喩を。北風は害虫を死滅させ、春の芽吹きのために大地を休ませる重要な役割を担っています。私が貴方の周りの『害虫』……、例えば、そちらで震えている計算高い女性などを排除しようとしていたことを、肯定してくださるのですか?」

リリィ様が「ひっ」と短い悲鳴を上げて、殿下の後ろに隠れました。

「き、貴様ぁ……! どこまで私を馬鹿にすれば気が済むんだ!」

「馬鹿にしているのではありません。貴方の知性の欠落を、適切な言葉で補完しようと試みているだけです。殿下、先ほどから貴方が口にしている罵倒は、すべてブーメランのように貴方自身の無教養さを証明していますわよ」

私は一歩前へ出ました。
殿下が思わず後ずさります。

「婚約破棄をしたいのであれば、せめて相手を論理的に屈服させるだけの語彙力をお持ちなさい。感情に任せて喚き散らすのは、王族の振る舞いではなく、駄々をこねる幼児のそれです」

「お、幼児……。私が、幼児だと……?」

「はい。それも、語彙力の著しく発達が遅れたタイプの幼児ですわ」

会場から、ついに堪えきれなくなったような爆笑が巻き起こりました。

「いいぞ、ミルム様! もっと言ってやれ!」
「教育係の面目躍如だな!」
「殿下、明日は辞書を引く宿題が出るかもしれませんぞ!」

心ない野次ではありません。
それは、長年この我儘な王子に振り回されてきた貴族たちの、鬱憤が晴れた瞬間でもありました。

私は冷ややかな視線を殿下に投げかけ、最後通牒を突きつけました。

「殿下。これ以上、私に恥をかかされたくないのであれば、その口を金庫にでも入れて鍵をかけておくことですわね。……もちろん、その金庫の番号を忘れて、二度と開かないことを祈りますけれど」

私は優雅にカーテシーを披露しました。

「それでは、今度こそ失礼いたします。……ああ、カイル殿下。お待たせいたしましたわ」

呆然と立ち尽くすセドリック殿下を置き去りにし、私は再びカイル殿下の手を取りました。

「……いやはや。ミルム嬢、君は本当に容赦がないな」

馬車に乗り込む際、カイル殿下が可笑しそうに囁きました。

「私はただ、間違った日本語……いえ、この国の公用語を正しただけですわ。教育とは、時として厳しいものですから」

「ふふ、君に教育されるなら、どんな厳しい授業でも受けてみたいものだ」

「お断りします。私は、一人の教え子を立派な『バカ』に育て上げてしまったことで、教育に対する情熱をすっかり失いましたの」

馬車が動き出し、窓の外に遠ざかっていく王宮を眺めながら、私はようやく深く座席に背を預けました。

「さて。明日からは、領地の帳簿との楽しい対話が待っていますわ」

「そうはいかないと思うがね。……君のような逸材を、世界が放っておくはずがない」

カイル殿下の言葉を、私は適当な社交辞令として聞き流しました。
しかし、彼の瞳の奥に宿る、奇妙な熱に気づくべきだったのです。

(……ようやく、終わった。私の人生から、あの不毛な時間が消え去ったのね)

夜の街並みを眺めながら、私は勝利の美酒ならぬ、冷めたお茶を一口飲みました。
自由。
その二文字が、今の私にはどんな宝石よりも輝いて見えたのでした。
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